実は身近な連水陸路

昨夜は完徹。先ほど帰って風呂浴びたところです。切ないです。

さて、そんなことよりこないだTweetしてた
「そしてなにより東京に一番近いスポットが江戸川と霞ヶ浦・印旛沼に挟まれた一帯で(続く)」
の続きです。しょっぱなからいきます。これです。


どこかで見たことのある方もいると思いますが、1000年前の関東地方の地形(のイメージ)です。
このまんまとは思いませんが、今の地形データで作るとこんな感じ。

ようは今の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼とかあの辺は全部つながってて、もっと大きな湖を形成していたのですね。人によっては「香取の海」と呼ぶこともあります。

この頃だと今の利根川は渡良瀬川と一緒になって東京低地方面に流れて大乱流地帯を形成していました。太日川(=今の江戸川)方面はこの地図だと全部陸のような感じになっていますが、大小の河川や湖沼が入り組んでいたので実はあまり「香取の海」側と変わらないかも知れません。

今我々が利根川として意識している関宿以東の水域は鬼怒川水系ということで、西の利根川・渡良瀬川水系とは別(季節や時代によっては繋がっていたという話もありますが)だったのです。

このかろうじて両水系を隔てることになった”分水界”地帯には歴史的に重要な役割を果たしてきたポイントがいくつも含まれています。古河は中世後期、古河公方が座して関東の中心ともいえる場所でしたし、平将門が根拠地としたのもこのあたり。そしてなにより、地図に書き込んだ「相馬御厨」こそ上総氏や千葉氏といった房総の平氏系豪族が中央貴族とくんずほぐれつして奪い奪われた極めて重要な地域でした。

それは何故か、といえば地図を見ればもう一目瞭然なのですが、「香取の海」の最奥にあって西の「利根川・太日川・江戸湾水系」との距離も最短に近いという地の利があったからです。何に利があったか、といえば、ここから船を出せば房総半島を大回りすることなく「香取の海」を銚子から抜けて東北地方へ行くことができた、という点を挙げる事ができます。

江戸時代に入って利根川を霞ヶ浦に連結してしまったのもこれが目的ですね。霞ヶ浦-利根川-江戸川-新川(船堀川)-小名木川-日本橋という内水路を作って安全に東北地方からの物資を運ぶことができるようにするためであり、物流という観点において霞ヶ浦、「香取の海」が東北地方への玄関口であった、という事実は不変だったといってよいと思います。

なによりこの「香取の海」が東北地方への玄関口であった、という事実を象徴するのがその口の両脇に鎮座まします「鹿島神宮」と「香取神宮」です。この二柱がセットであり、ともに武神である、というのはその昔ここからまだエミシと呼ばれていた頃の東北地方を攻略する、その出発点であったという事実を反映しているのかも知れません。ちなみにこの二柱の神様は藤原氏によって奈良の春日山に遷されて氏神として祭られているのが春日大社ですね。血縁の大中臣氏は中世にかけて常陸の豪族でした。

奈良の東にあって坂東を遥拝するような形になっているのは伊達じゃないって事なのかもしれません。やはり坂東の先にある東北地方~日本における貂主の国との境界領域(の中でも南ですが)~という豊かなフロンティア、「東方権益」ともいうべきものが意識されていたのじゃないかと思う次第。

ちなみに鹿島さんを西に遷すときのエピソードが反映されているんじゃないか、というのが江戸川区の鹿骨という地名の由来。鹿島神宮から神鹿も引き連れていったのですが、ここで頑として動かなくなった鹿がいてそれが死んで葬られたことが由来だとか。

閑話休題。

だいぶ話を巻き戻して、相馬の御厨という地域は東北というフロンティアへのいわば出発点であり、連水陸路を挟んで反対側には西国から伸びてくる航路の終着地点があったわけです。いわば近畿・東海に連なる内国と、異質な東北に連なるその外の世界との境界領域でした。単なる連水陸路、という以上の意味がそこにはあったと考えられます。

貂主の国的には、ここまで薄くなりつつも広がっていた”北ユーラシアの香り”がこの分水嶺を越えることでついに途絶えてしまう、という感覚です(笑)。

まぁでも、それがあながち間違いでない、というのは実はサケが教えてくれたりします。

律令時代、各国から特産品が税として送られてくるわけですが、実はこの連水陸路地帯を包含していた下総の国の産物にサケやその加工品が指定されているのですね。香取の海というのは北米バンクーバーの辺りからアラスカ、アリューシャン、カムチャツカを経て千島、北海道と広がっている巨大なサケ文化圏ともいえる文化領域の、その最後の最後の南の末端に連なる地域だったのです。

実は香取神社から山を越えて九十九里に行く途中の山倉大神で鮭の儀礼というのがあって、実はこれが本当の(太平洋側の)最南端だったりするのですが、まぁ誤差のうち。

ということでつまるところ現在の霞ヶ浦、手賀沼、そして印旛沼は拡大解釈を重ねることによって実は貂主の国の南端であるという言い方もできてしまうのですね(えー

房総半島というのは谷戸地形が深く刻まれているという特徴がありますので、この分水嶺地帯のあちこちに谷戸と谷戸が近接した連水陸路があったようです。

その中にあって、今やサイクリングコースとしてきちんと整備されて、”連水陸路”を味わいやすくなっているのが「花見川-新川-印旛沼」を結ぶルートです。
#ここはもう水路が直結されて連水「陸路」ではないんですが(笑)。

東京湾の花見川河口から印旛沼の風車まで、大した登りも無くものすごく初心者向けですが走っていて気持ちのいいルートです。途中の道の駅でアイスクリームに舌鼓を打つもよし、風車のお兄さんの熱いトークを聞くもよし、最後にふらっと歴史博物館に遊びに行ってもよし、のよい事尽くめの連水陸路です。東京・千葉方面にお住まいの方でしたら、是非一度は走ってみてはいかがでしょうか。いいところですよ。

長文失礼いたしました。
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コメント
 
 
 
Unknown (龍の道)
2023-06-29 16:35:15
このごろ、このような話題にハマっている人間です。
江戸時代のことを調べれば調べる程、江戸時代までは絶対的に、日本が水運の国だったことがわかりました。第二次大戦後に、東京に有った運河がかなり埋め立てられてしまいましたが、江戸の街は縦横無尽に運河(水路)が張り巡らされており、その水路でどんな小さな路地裏にも、物質が運ばれていたことがわかります。イタリアのベニスが水運の街として世界的に有名ですが、どうしてどうして、我々の首都である東京(江戸)こそが江戸時代までは圧倒的に水運の街であったことがわかります。
 
 
 
Unknown (龍の道)
2023-06-29 16:57:12
現在の天皇陛下も、そのような水運に興味を持たれて
確か大学院時代、イギリス留学中に"テムズ川の水上交通について"というタイトルの論文を書かれております。
江戸城だった皇居にお住まいの天皇陛下が、そのような水運について興味を持たれたのも無理からぬことだと思います。なぜなら、先程コメントに投稿したように、江戸という街全体が縦横無尽に運河が張り巡らされている水運の街であり、尚且つ江戸城は江戸時代は、神田川が外堀となっており、舟に乗って江戸城から直接、海(品川辺り)に出ることが可能になっている作りだったからです。調べれば調べる程、江戸城は舟で川を伝わって海に出ることが出来るようになっており、そう言えば、テレビドラマ「暴れん坊将軍」で将軍がお忍びで江戸城を抜け出して、江戸の街に繰り出したり、密かに舟に乗って海に出ている場面を見たことがあります。
 
 
 
Unknown (龍の道)
2023-06-29 17:14:49
私が思うに、ブログ主様が挙げられた上の地図を見てもわかるように、各地方の国府には、舟でも上陸出来るようになっていたように思えるのです。他の地方の国府については(特に内陸にある国府)よくわかりませんが。上記の地図では
常陸の国府は、現在の霞が浦(かつての香取湾)に面しており、下総の国府も、現在の真間川や真間川の支流の国分川に面しており、現在の真間川はかつての海岸線だったそうです。下総の国府が有った辺りを何度かフィールドワークしてみましたが、どう考えても、かつて(中世頃までは)川や海で舟で下総の国府の近くまで行っていたとしか思えない感じでした。下総の国府は陸路で行くにはあまりにも行きづらいというか。上総の国府も木更津の海を上がった台地上にあるようです。各国府には、川や海を使って舟で行っていた(舟で行き来をしていた)ように思えます。
 
 
 
Unknown (龍の道)
2023-06-29 17:27:20
武蔵野国の国府の近くにも、"野川"と呼ばれる多摩川の支流が流れており、船で武蔵野国の国府にまで行っていたのかもしれません。
 
 
 
Unknown (龍の道)
2023-06-29 17:37:36
上野国の国府も、近くに「染谷川」という比較的大きな川が流れています。近くに別の川の流れも有って、それこそ2つの川にはさまれる連水陸路のあった場所に、上野国の国府が
作られたのかもしれません。
 
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