大露羅とロシアの東北アジア進出

大露羅が勝ち越したのを祝して。

大露羅という四股名は、察するにその大きな体(大)、
ロシア出身(露)、北の国(→オーロラ)というイメージから
つけられたものと思われます。

最後の「羅」は「羅刹」の「羅」なのかな、と思うのですが、
実はこの「羅刹」、清がロシア人と最初に接触した当時に
ロシア人を呼ぶ名としても使用されていました。

ロシア→羅刹(ロチャ)ということで一応音をとって
漢字を当てているのですが、さすがは中国と言うべきか
音を表すと同時にもともとは仏典でインドの食人鬼を意味する
羅刹をもってくることで人外の存在、鬼、という意味をも
含めることに成功しています。

もっとも、この羅刹という言葉が使われ始めた当時(1652年)、
清朝ではヨーロッパ諸国のひとつであるロシアと同じ存在である
という認識はなかったようです(ロシアは「鄂羅斯」等と表記)。
現地の住民が「ロッソ」などと呼んでいたのをとった、という
ことのようです。

この頃は1644年に清軍が山海関を越えて北京を押さえ、明清が
交代して以来まだ10年と経っておらず、明の残党勢力との戦いが
続いていた時代です。その背後に広がる北方の大森林地帯から、
突然見知らぬ連中が襲ってきたのですから清朝に与えた驚きは
大きかったものと思われます。

現地からの報告も「人肉を食する連中が襲ってきた」という
ものですから「羅刹」の文字が当てられたのも至極当然と言えます。

この「人肉を食する」というのは当時のロシア側の記録にも残されており、
1643年ヤクーツクからスタノヴォイ山脈を越えてアムール川流域に
進出したポヤルコフ一行が、越冬時に飢餓に苦しみ人肉を食したと
されています。このときの飢餓の原因は、ポヤルコフによる部下への
仕打ち(食糧の上前をはね、さらにはそれを高値で売りつける、等)に
あるとされていますが、実際のところどうだったのかはわかりません。
もしそれが本当ならポヤルコフこそ羅刹の中の羅刹に相応しい男かも
知れませんね。

この辺りの話は吉田金一著「近代露清関係史」に詳しいので
興味のある方は是非。

というわけで、大露羅には是非とも「羅刹」となって強い力士を
喰いまくり、その巨躯を活かした凄絶な取り組みをしてもらいたいな、と。

どっとはらい。
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貂主の国の力士達

更新できてなくてすいません(^^;;
家に帰ってみればサーバーは落ちているし。
(場所が終わったので追記しました→後ろの方)

それはさておき、外国勢が大活躍の国技・大相撲。
ヴォルガ=ブルガールの片割れが建てた国、ブルガリア出身の
琴欧州の大活躍が報道される今日この頃ですが、他の力士の
動向も注目したいところ。

少ないながらも北ユーラシア系(?)の力士もいたりして
貂主の国的にも目が離せません。特にフィン=ウゴル諸族系。


●把瑠都 凱斗(ばると・かいと)
数少ないフィン・ウゴル系力士の一人、エストニア出身。
平成16年5月場所の初土俵以来、とんとん拍子に出世して
今場所で新十両西十四枚目。
成績は9勝3敗で既に勝ち越しを決めています。
明日13日目は栃乃花と対戦。

●舛東欧(ますとうおう)
もう一人のフィン・ウゴル系力士。ハンガリー出身。
ハンガリー人は元はと言えば西シベリアはオビ川流域の
ハンティ、マンシといった民族と同族なのです。

紀元前5世紀位までにそこから分かれてウラルの西、今の
バシキール共和国のあたりに暮らしていた連中が
草原の諸勢力の荒波に揉まれていっぱしの勇壮な騎馬軍団と
なって暴れまくったのがマジャール人です。

草原を転々としていくうちに今のハンガリー盆地になだれ込んで
国を建てたのがハンガリーというわけです。ちなみに
元の場所に残った連中はその後バシキール民族を形成します。
前のエントリ「北方世界とヴォルガ=ブルガール(1)とりまく者たち」
ヴォルガ=ブルガールの東隣、「マグナ=フンガリア」と書いてあるのが
そのマジャール人発祥の地になります。

マジャールの来る前もこのハンガリー盆地は中央ユーラシアから
やってくる草原諸勢力のいいたまり場(笑)、西のターミナルでして、
有名なフンやアヴァールなんかもここを根拠地にしていました。
11世紀に入ってキリスト教を受け入れたことからヨーロッパの
仲間入りしたっぽいですが、私的には中央ユーラシアの一部です(笑)。

で、そんな草原諸勢力の西のたまり場にあって有名な親玉が
フンの王、アッティラです。

舛東欧の本名はトートゥ・アティラだそうですが、やっぱり
アッティラの名前に由来しているのでしょうか。

先場所は序二段西二十枚目で2勝4敗1休と振るわない成績でした。
今場所は序二段西五十三枚目と大きく番付を落としましたが4勝2敗と
勝ち越しています。今後に期待します。がんばれ!

ロシアの力士でもコーカサスは北オセチア出身の露鵬とか白露山、若ノ鵬は
違う(^^;;ので飛ばして、それっぽいところの力士を。

●阿夢露(あむうる)
いわずと知れた東北アジア最大の河川にして諸民族の文化を
育んできた大河・アムール川の名をもらった力士です。
ニコライ・イワノフという至極目立たない本名とは対照的です。
#普通に読むとアムロですが・・・

出身地はレソザボドスク。ハンカ湖に近い、ウスリー川流域の
都市です。この辺り一体、ウスリー川と並行するシホテアリニ山脈
との間に広がる世界は黒澤明監督が製作した「デルス・ウザーラ」の
舞台、ウデヘ等ツングース系少数民族の世界です。でした、か。
ロシア人とは思いますが、一応。

ウスリー川はアムールの支流であるとはいえ、アムールを
名乗るにはちょっと苦しいところですが。

先場所三段目西十二枚目、5勝2敗という成績でした。
今場所は幕下東五十三枚目にあがりましたが、今のところ3勝3敗。
是非勝ち越してもらいたいところです。

●大露羅(おうろら)
同じく現在3勝3敗なのが貂主の国的に素敵な「オーロラ」の名を
冠する現役最重量力士、大露羅。
ザイグライフスキー出身?ということでどこだと思ったのですが、
どうもバイカル湖の東南、ウラン=ウデの40キロ程東にある町の
ようですね(Zaigraevo/Заиграево)。
ということは、おそらくはシベリアのモンゴル系少数民族、
ブリヤート族の出身なのではなかろうかと思うのですがどうでしょう。

それこそ「バイカル」なんて四股名が似合うシチュエーションだと
思うんですけどね。

で、先場所三段目東九枚目2勝5敗と振るわなかった彼ですが、
三段目東三十三枚目と番付を落としての今場所。あと1勝が欲しい
ところです。


今のところ出世頭は把瑠都で今後もがんがんいけそうですが、
他の北方系(^^;;力士達もがんばれ、ということで今後も
エールを送り続けたいと思います。


【追記(9/25)】
9月場所最終結果です。
●把瑠都:
 その後も順調に勝ち進んで12勝3敗。快進撃はまだまだ続きそうです。
 朝日新聞の天声人語でも把瑠都のことが取り上げられていました。
 イチョウの色に合わせて金髪の大銀杏でもいいじゃん、という〆は
 誰もが思いつくのだなぁと、同じこと考えてた自分にがっくし。
●舛東欧:
 最後の取り組みも勝って5勝2敗という成績を残しました。来場所へ
 この勢いが続くか。
●阿夢露:
 最後の星を落として3勝4敗の負け越し。大河だけに大器晩成型?
 所属している阿武松部屋に彼の紹介ページがあるのですが、
 →ここ
 いくらなんでも”幕下東5312枚目”ではかわいそう過ぎるので
 直してあげてください。
●大露羅:
 今場所は4勝3敗と勝ち越すことができました(^^)。
 かつて小錦が183cm 284kgという巨漢ぶりだったのに対して
 大露羅は193cm 260kgということですから、相似形で300kgまでは
 いけますかね。北ユーラシア出身らしく、史上空前の最重量力士を
 目指してもらいますか。四股名もいっそ「萬猛主」(マンモス)に
 改めるとか。
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9世紀前半の渤海と東北アジア



【渤海と黒水靺鞨】
9世紀に入り、渤海は唐に「海東の盛国」と記録されるほどの
最盛期を迎える。対外的には度重なる黒水靺鞨への遠征により、
その版図を北に向けて最大に広げることとなった

渤海は靺鞨諸族の基盤の上に高句麗遺民が中心となって建てられた
国家であるが、高句麗自身、靺鞨の祖先である扶余の分派によって
建てられた国であるから靺鞨と高句麗とを峻別する必要はあまりない。
東北アジアの諸集団の中で中華文化を受容した勢力(移住してきた
漢人コミュニティも含めて)が同族を組織して国を形づくった、
という点では高句麗も渤海も基本的には同じと考えてよいだろう。

山東半島から渤海海峡を渡り、遼東半島を経由して東北地方に至る
交易路が渤海の富をもたらす源であった。貂の毛皮をはじめとする
北の豊富な産物が渤海から唐に運び出され、見返りに様々な文物が
渤海を潤した。渤海を育んだ地域は東北アジアの物流の要であり、
有史以前から1000年近く後代の清の成立時期まで北の世界と
南の世界との結節点として機能し続けていたのである。
唐との関係が安定した8世紀半ば以降、この交易路はその機能を
最大限に発揮することとなる。

渤海の北の黒水靺鞨もまた唐と直接結びつくことによって交易による
利潤を追求していた。間に位置する渤海としては南北物流の中抜きを
意味し、さらに背後に軍事的脅威となる勢力の存在を許すことになる
この結びつきを看過することはできなかった。
このことが渤海の山東半島の登州襲撃をはじめとする8世紀前半の
唐との緊張関係をもたらした。

その後も黒水靺鞨と渤海は対立を続けていくが、両者の勢力範囲に
当時の考古学的文化の分布域を重ねてみるといずれもが同じ
文化を土壌としていることが見てとれる。

これまでの考古学的な調査の結果、中国東北部、沿海州、
アムール川流域には当時、同仁・靺鞨文化が広がっていた
(中国国内では同仁文化、ロシア国内では靺鞨文化と
呼ばれる考古学的文化がそれぞれの領域内で設定されているが、
これらは同じ文化であると考えられている)ことが判明している。

「靺鞨の世界」の中で培われた社会の発展は、その後女真文化から
金の成立へと続き、やがて大清帝国を生み出していくのである。

・・・この項続く
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SETU LANDの音楽

SETU SONGS
MIPUCD104
recorded in Helsinki 1990/91









SETU LAND(Setumaa)はエストニア東南部、Pihkova湖の
南西岸に広がる、エストニア人の1グループ「セトゥ」が
暮らす土地である。

エストニア人は大きく北部、南部、北東沿岸部と南東部の
4グループに分類されるが、セトゥはこの南東部のグループに
あたる。

セトゥはその地理的な環境ゆえにエストニアの中でも
独特の文化を持っている。

中世以降エストニアを支配し続けたドイツ騎士団や
相次ぐドイツ人の東方植民の影響で、エストニアでは
宗教的にはルター派のプロテスタントが多数を占める。

その中にあってセトゥでは正教が信仰されており、
他の文化的要素の中にも東方のロシアの影響を
見ることができる。
歴史的にSETU LANDはロシアの支配下にあったために
他の地域とは異なり、ドイツやスウェーデンの
影響が及ばなかったのだろう。

そうした歴史的背景は、現在もSETU LANDに影を落としている。

2005年5月、エストニアとロシアとの間に国境を画定する
条約が締結された。
1920年、初めて独立を勝ち得た当時のエストニアは
SETU LAND全てを領有していたが、1940年のソ連併合後、
この国境線は後退しSETU LANDは東西に分断される
こととなった。

今回のロシアとの条約はそのソ連時代の国境線を
追認するものであり、セトゥの激しい反発を招いた。



本CDに収録されているのはそのSETU LANDに伝わる
歌の数々である。フィン=ウゴル諸族の音楽専門
レーベルであるMIPUによって世に送り出された。

以下、歌のジャンルにしたがってタイトルを並べる。

労働歌
1.牛飼いを見送る歌
2.牛飼いの歌
3.収穫の歌
4.挽き臼の歌
5.洗濯女の歌

行事の歌
6.懺悔の日の歌
7.イースターの歌

婚礼歌
8.花婿が花嫁の家に到着した時の(花婿を値踏みする)歌
9.花嫁の悲嘆
10.娘を連れ出される両親の歌
11.花婿を席に導く歌

叙情歌
12.妻殺しのバラード
13.とっても小さな奥さん
14.若い妻

遊戯歌
15.花婿が生きていれば花嫁も生きている
16.馬探し

祭礼歌
17.男の祭り歌
18.声を揃えて

いずれも短いフレーズが繰り返し繰り返し歌われる、
無伴奏のシンプルな歌であり、けっして美しいとか
癒されるとかいった類の音楽ではない。
昔から日常の中で歌い継がれた生活の歌であり
生の情景がそのまま切り出された感のあるCDである。

ちなみにセトゥ女性の祭礼衣装はかなり特徴的であり、
胸に大きなプレートを提げるのがトレードマークに
なっている。(写真は「Finno-Ugric FolkArt」1977より)


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アルタイの至宝展

「そういえば明日までだった」と気づいたのが
先週土曜日のこと。どうせ東京に来るんだろうと
高を括っていたら、福岡→仙台→静岡ときて
次は福井で東京なんかには来ないっぽい!

行かなきゃ後悔するのが目に見えていたので
最終日の日曜日、あわてて新幹線で静岡まで
行ってまいりました。









「アルタイ」といったらユーラシア大陸のいわば
「へそ」。南シベリアの山岳地帯で、中期
旧石器時代からの歴史を持つ古い土地柄です。







展示内容はまさに「悔いなし」の言葉に相応しいものでした(^^;;

美術館に入ってすぐのロビーには巨大な
マンモスの骨格標本が展示されていて、
ここまではタダで見られます。
地球博と違って肉や毛はついてませんが、
毛は帰り際に買うことができます。
といっても、1本くらいしか入っていないので

”激しくダメージヘア”

といった感じであまりありがたみは感じられません(笑)。

アラスカ産とサハ共和国産と2種類あるので、
とうぜんここは北ユーラシアのサハ共和国産を購入。

デレヴャンコ大先生の挨拶パネルを横目に会場に入ると
そこはもう北ユーラシアの石器時代の世界!
古いところでは中期旧石器時代の石槍から
有名なマンモスの牙製のマンモス像、細石核、
細石刃が並びます。それもウスチ=コヴァや
オクラドニコフ洞窟といった、錚々たる遺跡から。

青銅器時代であるアファナシェヴォ時代、アンドロノヴォ
文化期の出土品があとに続きます。30センチを超える
見事な成型加工の施された尖頭器も目を引きますが、
驚いたのは岩壁画を引っぺがしたものが展示されていたこと。
現地に行けなくともこうしてお目にかかれるとはありがたい限りです。

今回の展示会でもっともうれしく、もっとも残念だったのは
出土地が「西シベリア」となっているものがかなり含まれて
いたことです。なんだかんだいって東シベリアは日本との
関わりやアメリカ大陸への人類進出の絡みもあってそれなりに
目にすることも多いのですが、西シベリア低地となると
関心が一気に下がるのかあまりお目にかかれません。

「西シベリア」と銘打ったものがあってもアルタイ山岳地帯、
オビ川上流域だったりすることも多いのですが、今回の展示では
イルティシ川中流域のソプカ遺跡の出土品もあるなど、
そのマイナーなエリアの出土品も含まれて「いそう」です。

反面、何が残念だったかと言えば単に「西シベリア」と
書かれているだけでどこからの出土なのか、詳細が全く
欠落してしまっていること。これはかなり哀しい。
これだけ西シベリア出土品があるなら、以前取り上げた
オビ流域の戦国時代、あるいはそれに隣接した時代の出土品も
あるのではないかと思えてきます。

中にはヴォルガ=ブルガールから西シベリアに将来されたのでは
ないかと思いたくなる銀製品も多々ありました。あんまり悔しいので
他の文献漁って照合しようかなと。

鉄器時代の部屋に入ると紀元前500年前後の闘斧と、
闘斧で穿たれた穴がいくつもあいた頭蓋骨が並んでいます。
結構すごい戦闘力を持った武器だったのだなぁと思いつつ
先に進むと本展示会の目玉である古墳に葬られていたミイラ。
完全な状態で残された衣服や装飾品の数々もさることながら
すべすべツヤツヤテカテカのミイラの皮膚に見ほれてしまいます。

こんなにきれいな状態で2500年前の刺青を見ることができることに
感動してしまいました。すべては北ユーラシアの凍土のなせる業。

展示品には「石」「毛」「フェルト」「銀」というように素材が何か全て
表示されているのですが、カタログを見たらこのミイラにもご丁寧に
「皮、骨」となっているのには笑ってしまいましたが。そりゃそうだ!


この後さらに突厥からモンゴル帝国に
並行する時代を扱った展示「諸民族の時代」、
アルタイ民族文化を展示する「生活」、そして
「シャーマンの世界」へと続きます。
どれもこれも全てが素晴しい、北ユーラシアに
興味のある方なら行かなくては損、という内容です。

カタログの表紙を飾るシャーマンの胸飾りの
美しさを見ていただいたら北ユーラシアの
なんとなく地味なイメージも変わるのではないでしょうか。

カタログの中身も(西シベリアの出土地情報が
ないことを除けば(^^;;)すばらしいの一言に尽きます。
展示会に行けなくともこれだけは入手しましょう。

収録されている小畑氏の「アルタイの旧石器文化と
日本列島」という論文も、北ユーラシアの旧石器時代の
概説として読むのに最適です。

「~と日本列島」のタイトルを見て、
ずいぶん結びつけるのに苦労するタイトルだな
と思いましたが・・・

これだけのすばらしい展覧会が東京や大阪といった
大都会で開催されないのは残念なことです。
次は福井で開催ということですがまだまだ現地に
行くよりはずっと安くて近いので(笑)、是非
見に行かれることをお奨めします。
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北ユーラシア



この「貂主の国」では北ユーラシアの歴史、考古学を扱っていくわけですが、
どこらへんを「北ユーラシア」と呼んでいるかざっくり図に起こしてみました。

見ての通り北ユーラシア=シベリアってわけではありません。
ウラル山脈の西側やスカンディナヴィア半島にも周辺国家に組み込まれて
いった北の住人がいますし、北日本を含む北東アジアというのも一つの
歴史世界として扱えるでしょう。

北欧やロシア、北東アジアであれば世界史の歴史地図集に載るでしょうが
それ以外の北ユーラシアについては図がそこで切れているか、あるいは
真っ白というのが相場です。

このサイトではそうした「歴史の空白地帯」の歴史を取り上げて、
少しずつでも空白を埋めていきたいと考えています。

時には脱線して周辺地域に話が行ってしまうかも知れませんが
そのときは笑ってご容赦ください(^^;;
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刀伊の入寇と交易網

コメント欄で書くつもりでしたが、長くなったのでこちらで・・・(^^;;

●石徹白 宇留生さん:

【前史】

まず、刀伊の入寇の前史として渤海の交易活動が非常に
盛んであったことがあります。

日本でも来貢頻度を引き下げるように言われているのにも関わらず、
しょっちゅうやって来ていた渤海使(と言う名目の交易商人)の話は有名ですし、
その交易網が遠く南の呉越地方に延びていたという記録が中国に残っています。

陸上の交通網を通じての交易も活発に行われていました。
特に西京鴨緑府から鴨緑江沿いに遼東半島に向かい、
対岸の山東半島に通じる交易ルート(朝貢道)が有名です。

渤海滅亡後も鴨緑江上流にあった定安国(渤海の後継諸国家の一つ)に
よってこの朝貢道は維持し続けられていたので、旧渤海地域の女真達は
安定した交易活動を続けることができたのです。


【契丹の征東政策と東北地方の動乱】

ところが10世紀末に定安国が契丹に滅ぼされてしまうとこの交易路が
絶たれてしまいます。これは契丹の大規模な征東政策の一環だったのですが、
交易路の遮断や契丹の攻撃によってこの地方は以後数十年に渡って
動乱の時期を迎えることになります。

契丹の攻撃は高麗にも向けられますが、その相次ぐ攻撃の記録には
渤海王族の末裔達が高麗の武将として戦う姿が残っていたりします。
また、定安国の後も大元(渤海王族の末裔?)が国を建てて宋に朝貢した
記録があり、旧渤海側も契丹には簡単に屈していません。

滅亡以来百年近い時を経てなお東北地方には渤海の残影が色濃く
残っていたことが伺えます。

そうした動乱の中、行き先を失った旧渤海の女真達は
その”経済活動”の矛先を南に向け、日本海岸沿いに
朝鮮半島を南下することになります。
あるときは取引で、あるときは力づくで、という経済活動です。
ヴァイキングや倭寇と同様ですね。

高麗の史料に最初に記録された1005年の襲撃以降女真は南下を続け、
刀伊の入寇の前年には鬱陵島の住民が女真に襲撃されて全滅という
事態に至ります。

刀伊の入寇のあった1019年はこうした動乱期のまさにピークであったと言えます。


【終焉とまとめ】

その後、この動乱期は1029年~1030年にかけて契丹の統治下で起きた
渤海王族末裔である大延琳の反乱(興遼国)を最後に収束を迎えることになります。

刀伊の入寇は、あまり光のあてられていない渤海や女真の活発な交易活動が、
契丹によってもたらされた動乱の時代にその一面を垣間見せた出来事である
と言ってよいでしょう。

#いずれ図を起こしたい、と思ってます。
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週刊「街道をゆく」33 ~オホーツク街道~

週刊 「 司馬遼太郎 街道をゆく 」 33号 9/11号 オホーツク街道 [雑誌]

朝日新聞社

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オホーツク街道―街道をゆく〈38〉

朝日新聞社

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今週の週刊「街道をゆく」はオホーツク街道。

サハリン、北海道、千島列島と、その最盛期にはオホーツク海の
南半を覆った、オホーツク文化のことが取り上げられています。

北の海に育まれた海獣狩猟民の文化であるオホーツク文化は
サハリンと北海道の間に横たわる宗谷海峡という、
これまた「内海世界」から広がっていったと考えられています。

当時の中国・唐王朝にはオホーツク文化人のことだと
考えられる記録が残っており、現在のアムール川中流域、
中国東北部の靺鞨(まっかつ)を介して交流があったと
考えられています。

北海道は日本にあっては北の大地ですが、
北ユーラシア全体から見れば南端の一つだったりします。
そのあたり、「東北アジアの民族分布」図もあって実感できます。
ベーリング海峡のチュクチや沿海州のウデへの写真も
載っていますし、「ビジュアルシリーズ」を冠するだけの
ことはあります。

何分560円ですし、原作と合わせても1200円で
お釣りがくるのでこの機会に是非。
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