三人のラマ僧がアニソンを歌いまくる動画

ラマ僧といえばモンゴルやチベットといった中央ユーラシア東半のチベット仏教圏における知識階級であり、貂主の国的にはブリヤート出身のドルジエフ(チベット独立維持のためにロシア帝国にダライラマの特使として赴いたり、チベット=モンゴル相互承認交渉(互いに独立国であることを承認しあう)のチベット側全権大使を務める)がいたりと、間違ってもそんなことをするイメージはないのですが、「混ぜるなキケン」を地でいく動画がブレーク中です(笑)。

◆ニコニコ動画(γ)
 僧侶のアクエリオン 【Full Version】
 僧聖のアクエリオン 【本家+僧侶version】
 らまままままま OP 「最強○×僧侶」

Delay Lamaという、オランダの人が作った「ラマ僧に歌を歌わせるソフト」が元になっていますが、そもそもこんなソフトがあるというのが・・・(^^;;
たまにホーミーっぽくなったりもするラマ僧三重奏、ニコニコのアカウントを持っている方は是非。そうでない方もこれを機会に・・・。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

外ヶ浜走り 青森→蟹田(2)

さて、新田(1)遺跡で落ち込んだ後は休む間もなく油川に向かいます。
ミッション終了は日没(18:30)まで。青森駅を出たのは13:30ですが、
自転車屋捜索で時間をくってしまい、現在15:30。なんといっても時間がない。
傾きつつある日差しの中、向かい風が容赦なく吹きつけてきます。

油川は前回も書いたように、江戸時代に入って青森湊が開かれるまでは外ヶ浜の中心的な湊でした。

1624年、それまで安潟(安方)の畔の漁村に過ぎなかった善知鳥村に
津軽藩によって青森湊が開かれて以来、外ヶ浜の数多くの湊で
行われていた交易活動は青森に集約されてゆくこととなります。

ところが、その中にあってもなお油川湊は藩主の黒印状を取り付け、
唯一例外としての地位を獲得します。津軽藩においても歴史ある油川商人の力は
無視できなかったということでしょうか。

江戸時代に入っても油川はなお勢力を保ち、新興の青森との軋轢(青森の町役人による
油川湊閉鎖申立て)もあったようです。

そんな油川の歴史も明治に入って急激に凋落の途を辿ることになります。

新川(1)遺跡から油川の地に着くと、「西田酒造店」の前に出ます。油川の歴史の残照のような
佇まいの前には由緒書と「羽州街道・松前街道合流之地」の石碑が立ち並びます。




津軽大浦氏に押さえられる前の油川は、南部氏家臣の奥瀬氏によって治められていました。
浄満寺はその奥瀬氏の菩提寺。写真は最近改装なった山門。

近くにはさらに時代を遡って、浪岡氏が外ヶ浜を治めていた頃には既に
存在していた中世から続く古社、熊野宮があったのですが、残念ながら
探索漏れしてしまいました・・・orz

現在の油川の港。どこにでもある、静かな漁港の風景。

油川港からの青森遠景。青森ベイブリッジや八甲田丸が見えます。
外ヶ浜の新旧勢力の争いは青森に油川が呑み込まれるという形で決着がつきました。
1000年の歴史を誇る浅草・石浜湊が、巨大化した江戸に呑み込まれたエピソードを思い起こさせます。

奥瀬氏の居城・油川城。
実はこれは南の郭に過ぎなかったことを後で知ることになります・・・

城の内部へと続く道。
現在は畑か何かとして使われているのでしょうか。大きなブロックでふさがれていました。

(南郭沿いの)道はここまで。でもこの先に見えるのが主郭だったんですねぇ。調査不足。
今後訪れる方がこんなことにならないようにGoogleMapで油川城の範囲を表示しておきます。
油川城(GoogleMap)

左図は青森市のサイトより(あおもり今・昔(40)「油川城と大浜」)

実はかなり規模の大きな城であることがわかります。
一辺400メートルは優にありますね。










城の周りはもうすぐ田植えの時期を迎える田園風景。

さて、既に時間は16時。後ろ髪を引かれつつ、メインストリートに復帰すべく走ります。

【関連リンク】
油川城と大浜(油川城の見取り図の引用元)
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

外ヶ浜走り 青森→蟹田(1)

外ヶ浜とは、津軽半島東部沿岸部一帯、特に今の青森市の辺りを指していう古い地名。
みちのくの道、奥大道の終点であり、平安後期には日本の果て、鬼の住む
辺境の地とされていました。
津軽海峡を介して渡島半島と密接に結びついており、江戸時代に入る前には大小数多くの
湊があったといいます。

江戸時代後期の紀行家であり、学者であった菅江真澄によるこの地域の紀行文
「外が浜づたい」に倣って「外ヶ浜走り」とでもしてみます。自転車ですからね。

第1日目に辿ったのは下図のように青森から蟹田までです。


まずは青森駅から新田(1)遺跡、そして油川を目指します。
実はのっけから準備不足に伴うトラブルで、青森市街を自転車屋さんを求めてさすらうという
失態をおかした為に一旦東に向けて走り出していますがそれはさておき。

この新田(1)遺跡は2003年から2005年にかけて、新幹線工事のために発掘された遺跡です。
その調査結果は「衝撃的」なものであったといいます。なぜならば

十世紀後半~十一世紀という北奥への「郡」設置以前の遺跡でありながら、
この場所が国家に対する納税・貢納の場所であり、かつ、そこで都や
国府・城柵と同様の律令的な祭祀が行われていたことを示す遺物が
多数見つかったことである。
(「古代蝦夷からアイヌへ」吉川弘文館 より)

というもので、要は安倍氏が栄えていた奥六郡、あるいは清原氏が押さえていた
出羽の仙北地方に対して、さらに遠い北方の青森県域ではこれらとは別に国府あるいは
中央政権との結びつきが強かったという、ある意味逆転現象を起こしていたことを示す、
重要な遺跡だったからです。前九年の役で、源頼義が安倍氏を倒すのにさらにその北方の
安倍富忠を利用したのが連想されますね。
(彼の居城の有力な候補が八戸の方で見つかっています)

この遺跡の場所は弘前・津軽方面と外ヶ浜地域とを結ぶ、重要なルートの一方の端であり、
時代を下れば油川湊(江戸時代に青森に港湾機能が集約されるまでは外ヶ浜の中心的な港)が
栄え(縄文時代にはすぐ脇に三内丸山遺跡があるわけですが)、
もう一方の端には高屋敷遺跡や浪岡城があるという、非常に重要な場所になります。

「北の防御性集落と激動の時代」を紐解く非常に重要な、外せないスポットといえましょう。

そして自転車でヒーコラ駆けつけて見た光景は、これまた非常に「衝撃的」なものでした。

見事なまでに遺跡の気配すらない現場。橋脚は建設中の北海道新幹線。
そりゃぁ完全保存なんてぜいたくなことは言いませんが、こうまで最初から
何も無かったような様を見せられると、これからの旅路も思いやられるというものです。
三内丸山に勝るとも劣らない意義のある遺跡だったんですけどねぇ。

せめてもの昔をしのぶよすがに新城川。浪岡へはこの新城川沿いを行くことになります。

【関連リンク】
平成16年度 青森市新田(1)遺跡現地説明会速報
新田 (1) 高間 (1) 石江遺跡群 発掘調査 概報 遺跡
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

津軽下北遠征(0)


いい加減ですが、大体こんな感じで回ってきました。
レポートは徐々に・・・
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )