北方世界とヴォルガ=ブルガール(4)ブルガールについて

ヴォルガ=ブルガールは北方世界に食い込んだ、草原世界由来の交易国家である。
もっとも草原世界からの進出自体は先史時代以来幾度も繰り返されたことであり、
いつの時代も北方世界は南方とは無縁ではありえなかった。

ヴォルガ=ブルガールの意義は北方世界と周辺世界とを繋ぐ核となる都市を
作り上げたことにある。下図は10世紀~13世紀のヴォルガ=ブルガールに
おける主要な都市と城址とを図示したものである。

◆10世紀~13世紀のヴォルガ=ブルガール
(赤い枠線はブルガールの中心地であり、そこから周辺に勢力を伸ばしていた)

1.ブルガール 2.オシェール(アシュルィ) 3.ドジュケタウ 4.ビリャル 5.スヴァル
(現在のヴォルガ川はダム湖のために往時の姿を失っている)

ヴォルガ=ブルガールは7世紀後半までは北カフカスから
ドン川河口付近にかけて暮らしていた、テュルク系遊牧部族連合
(オノグル。オノグル=ブルガール)の一部であった。

同盟を結んでいたビザンツ帝国から「大いなるブルガリア」の
名で呼ばれる程の強盛を誇っていたオノグルであったが、
642年に首長のクブラトが死ぬと5人の息子の間で
相続争いが起こる。内紛状態に付け入るように東から
新興勢力のハザールが攻め込んで来ると部族連合は崩壊し、
結局ハザールの支配下に組み込まれることとなってしまう。

この時、ハザールに組み込まれた長子以外の4人の兄弟は
それぞれ部族を率いて各地に分散するが、そのうちドン川を
遡り、ヴォルガ水系に移って北上、ヴォルガ川とカマ川の
合流点付近に拠点をおいたのがヴォルガ=ブルガールの始まりである。

#他にもビザンツ帝国に亡命する等して埋没する者もいる中で、
#今でもその名を伝えているのが日本でも(なぜか)
#ヨーグルトの商品名で馴染み深い「ブルガリア」である。

ヴォルガ中流域に移り住んだとはいえ、ハザールの
支配はここにも及び、10世紀に至るまで貢納国で
あることを強いられ続けていた。

ヴォルガ=ブルガールがその独立を取り戻すには、
ハザールの弱体化とその南方の大国・アッバース朝との
同盟関係が樹立されるのを待たなくてはならなかったので
ある。

10世紀後半になると、同様に「ハザールのくびき」から
開放されたキエフ=ルーシと激しい覇権争いが始まる。
キエフ=ルーシはヴォルガ=ブルガールの握る東方交易路
(ヴォルガ川水系)を欲していたが、それは結局数百年の
時を隔てた16世紀、この地に栄えていたカザン汗国を
併呑するまではかなうことはなかった。ヴォルガがロシアの
母なる川になったのは、比較的最近のことなのである。

11世紀半ばになるとキエフ=ルーシは諸侯国に分かれ、
一方でヴォルガ=ブルガールは拡大を遂げて最大の版図を
達成する。かつてハザールがそうしたように、ヴォルガ=
ブルガールは周辺諸勢力(モルドヴァ、マリ、ウドムルト、
バシキール)との間に貢納関係を築き上げ、イスラム商業
ネットワークの北のターミナルとしての地位を確立したので
あった。

北方からの資源(最も大きいものは毛皮であり、次に奴隷
であった)によって蓄積された莫大な富はこの地に
都市文化を花開かせ、銀製品をはじめとした様々な
工芸品が生み出された。

北方世界と南の商業ネットワークとを結ぶ核となった
ヴォルガ=ブルガールは、北方世界にとっても南の
ターミナルとしての機能を持ち、ヴォルガ中流域から
北方世界に向けていくつもの交易ルートが延びていた。

北方世界に広く張り巡らされた河川網沿いに延びる
交易ルートによって、ヴォルガ=ブルガールの工芸品も
またはるかな北の地へと運ばれることとなったのである。


【周辺世界への備え】
ヴォルガ=ブルガールの領域からは、数多くの城址が見つかっている。
ここではその例として、西部の強力なモルドヴァ族との境界地域に
立地しているティガシェヴォ城砦を取り上げる。

◆ティガシェヴォ城砦復元図


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