北方世界とヴォルガブルガール(3)フィン=ウゴル諸族と交易路

【バルトからヴォルガへ ~交易路とフィン系諸族~】

 10世紀のフィン系諸族の分布を図示すると、そこには明かな
傾向を読み取ることができる。

当時、バルト海から南方のイスラム帝国アッバース朝とを結ぶ交易路として、

ラドガ湖・オネガ湖~ベロ=オーゼロ(白湖)周辺~ヴォルガ川上流
          ~ヴォルガ=ブルガール~ヴォルガ川下流~カスピ海


というコースが確立されていた。

「ヴァリャーグ(バルト海沿岸)からギリシャ(ビザンツ帝国)へ」の
言葉でよく知られた西方の交易路(ラドガ湖から南下して、あるいは
西ドヴィナ川を遡ってグネツドヴォに至り、そこからドニエプル水系を
利用してキエフ、さらには黒海を経由してビザンツ帝国へと至る道)もあるが、
当時世界の中心であったアッバース朝バグダッドと結びついていた
この東方ルートをもっと重要視する必要がある。

北欧ゴトランド島から発見された約10万枚の銀貨のうち4割をアラブ銀貨が
占めており(残りはゲルマン銀貨、アングロ=サクソン銀貨)、また
北ロシア一帯での出土状況もビザンツ製コインを質量ともに圧倒している。

またスカンディナビア全体で出土したビザンツコインはわずか500枚程度であるという。
サガではミクラガルドの名で首都ビザンティウムが繰り返し出てくるために
ビザンツ帝国との関係だけに目が行きがちだが、少なくとも10世紀後半、
アッバース朝で銀が枯渇し、同時にキエフ=ルーシによってブルガール等
東方交易路が攻撃され衰退するまでは東方交易路がむしろ主であったと
考えるべきだろう。

この東方交易路上にフィン系諸族が実にきれいに並んでいるのが見て取れる。



まずフィンランド湾を囲むように後フィン族を形成するスオミやヘミ、
カレルやイジョーラ、ヴォジ、エースティ(エストニア人)、リーヴィと
いった集団が並ぶ。

さらにラドガ湖やオネガ湖からベロ=オーゼロ、ヴォルガ川源流域までの
河川地帯にはヴェシが、そこからヴォルガ川に沿ってメリャ、ムーロマ、
モルドヴァ等がブルガールに至るまで並んでいる。

このことは交易によって在地のフィン系諸族もまた繁栄していたことを
示唆していると考えてよいだろう。

北ロシア一帯の河川地帯においては海を渡ってきたスウェーデン系
ヴァイキングと並んで、河川交通において一日の長があるフィン系諸族の
果たした役割もまた大きかった可能性がある。

あるときは協調し、またあるときは敵対しながらも全体としては
一体となって交易の荷担者になっていたのではないだろうか。
さらにはロシア人の属性としてよく出される「河川水系と森林帯への
親和性」といったものはこうしたフィン系諸族の多くをとり込んで
「ロシア人」が成立したことによるものではないだろうか。

【キエフとブルガール ~森林と草原の境界勢力~】

一方、より東方のヴォルガ=ブルガールの配置を見ると、ウラル系諸族の
分布域に食い込む格好になっていることがわかる。

ブルガールの東に位置する「マグナ=フンガリア」は現在ハンガリーを
形成しているマジャール人の故地である。6世紀から9世紀頃までこの地で
暮らしていたマジャール人は8世紀頃から移動を始め、9世紀末には
パンノイアの地(現在のハンガリー)へなだれ込み、ハンガリー王国を
築くことになる。

この際、全集団が移動したわけでなくこの地に残った集団も存在した。
13世紀になってもなお、ハンガリーから派遣された宣教師によって
マジャール語が通じていたとの記録が残っている。彼らは草原の
テュルク系諸族と混交して後にバシュキール民族を構成することになる。
元を辿ればマジャールはウゴル系集団であり、ブルガールはフィン系と
ウゴル系の2系統のウラル系集団に3方を囲まれていたことになる。
実際にはブルガールが周辺の諸民族を統治下に置き続けていたのであるが。

キエフ=ルーシとヴォルガ=ブルガールの状況を比較すると、
どちらもその縁辺にフィン=ウゴル諸族を抱えていたということの他に、
どちらの首都も森林と草原の接壌地帯にあり、かつ交易路である大河の
ほとりにあったことがわかる。

領域の大きさの違いこそあれ、どちらも境界勢力として交易の仲介を
国の成立基盤とし、フィン=ウゴル系諸族の活動を取り込む事でこれを
確かなものとする構図は共通している。

フィン=ウゴル諸族は10世紀、兄弟のように共通の構造を持った
2つの勢力~ルーシとブルガール~によって西と南から蚕食されつつ
あったのである。

その状況下にあっても、両勢力の狭間に立つモルドヴァはモンゴル軍の
来襲まで強力な勢力でありつづける。ひょっとしたら両勢力の狭間で
キャスティングボードを握りつづけるという不断の政治的軍事的
駆け引きの上に成り立っていたのかも知れない。



【駁馬国とポッチェバシ文化 ~西シベリアの境界勢力~】

ウラル以西のウラル諸族がそのような状況であったなら、
ウラル東方ではどうだったのだろうか。

ここでも我々はウゴル系諸族の多くの文化が森林と草原の接壌地帯に
花開いていたことを見ることができる。中でも最も注目すべきは
イルティシ川中流域に栄えたポッチェバシュ文化である。

10世紀頃にはポッチェバシ文化は後続のウスチ=イシム文化に移行して
しまっているのだが、時期を数世紀遡らせるならこのポッチェバシュ文化は
ブルガール等と同様、接壌地帯に栄えた境界勢力である可能性がある。

中国資料(唐書)やチベット語資料に拠れば、この地には駁馬を産する
広大な国があったとされている。また、駁馬を意味するテュルク語の類型と
思われる地名や人名(Sabar、Tapar、Saber、Seber等)が西シベリア一帯に
分布し、さらにこれらは祖先の名称や敬われるべき対象としてハンティや
マンシの間で使われていたことから、往時の駁馬国の記憶が後代に残ったものと
考察されている。

一説として、これらの名称が後のイビル・シビル、シビル汗国へとつながり、
シベリアの語源となったというものがあるが、もしもそうだとするなら
往時西シベリアの接壌地帯に栄えた勢力(ポッチェバシュ文化=駁馬国)の
繁栄の記憶がシベリアの名には込められていることになり、
非常に興味深いと言える。
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