Noriko-McLane Movie Blog

自分の見た映画の感想を気ままに綴っています。
ネタバレの可能性もあるので、まだ見てない方はご注意下さい。

いのちの停車場

2021-08-31 | Weblog

いのちの停車場

2021.8.5 MOVIXにて、悦と~ その後、原作(南 杏子著、幻冬舎文庫)を読んだ。

映画を見た後、原作を読むと、どうしてもここが変えてある!とか、原作のほうがええやん!とか、色々と比べてしまう。

まず、主人公の咲和子の経歴、映画の方がかっこよく仕上げてる。映画では、どこか外国で事故に会って救急で運ばれたときの先生の処置のお蔭で自分が助かったという経験があり、そのことで医学部を受け直して医者になったということだった。原作は、金沢の医大は不合格となったが、東京の医大に合格したので、そちらに行ったということだった。

 

映画の最初の場面、救急病棟で、目を覆いたく様な感じ。大きな事故があり、次々に患者さんが運ばれてくる。なのに、吉永小百合の咲和子先生は、とっても優しい声で、みんなに指示を出してる。(ちょっと、あれでは実際やっていけないよぉ~)

 

咲和子が東京から金沢ににもどってきたとき、バス停まで、お父さん(田中泯)が迎えに来ている。杖をついてるお父さん。このバス停がいろんなシーンで出てくる。原作には、バス停はないし、お父さんも迎えに来てない。このバス停のシーンは、それぞれにすごくいいと思った。お父さんが、「昔、咲和子が小さかった頃におかあさんと一緒に、雨が降ったら傘を持って迎えに来てくれたのが、嬉しかった。だから、雨が降りそうでも、わざと傘を持って行かなかったんだ。」と、言った。実際にこのシーンの再現も。原作には全くないシーンで、咲和子と父の関係を盛り上げていて、とてもいい!

昔、咲和子の隣の家に住んでたというプロの将棋棋士の朋子(石田ゆり子)が、ガンの再発で、まほろば診療所にやってくる。この時に、懐かしい故郷の街を咲和子と朋子が巡るシーンでも、このバス停が登場する。朋子は、原作では出てこないキャラだった。

 

原作では、咲和子のお父さんは、元、金沢の医大の医師だった。(映画では、医者じゃなかったけど~)この映画、見る前に「最後が、ちょっとなぁ~」って、聞いてた。映画を見た後、そうやなぁ!と思った。安楽死ということについて、問いかけているようで、すごく中途半端で終わってること。

 

咲和子のお父さんは、椅子に乗って高いところのものを取ろうとして、滑って落ちてしまう。(咲和子の母が、昔していたスカーフの入った箱が高いところにあって、そのスカーフが、今の咲和子に似合うかもしれないと思って取ろうとしたのだ。映画では、ここのところ、細かく描写してるが、原作ではなし。)大腿骨の骨折。手術をして、入院中に、誤嚥、肺炎、脳梗塞。正に負のスパイラルだ。そして、一日中、痛みと咳に苦しむようになる。神経因性頭痛。実際の痛みではなくて、脳がそのように判断してしまっているから痛いと感じる。原作では、お父さんは、元は神経内科医。だから、この痛みから逃れられないことは、自分でよくわかっているのだ。それだけに、悲しい。

映画でも、安楽死させてほしいと望むが、原作では、お父さん自身が点滴にこれを混ぜてほしいと、薬を咲和子に渡す。まほろば診療所の仙川先生(西田敏行)も、映画では「日本では、それは罪。」のようなことを言うけど、原作では、「患者本人が死を希望しているのなら、その苦しみを減らすのを手伝う行為を僕は避難できない。」と、言う。映画では、お父さんが痛みのない時間に、咲和子と、美しい朝日を見てる場面で終わってしまう。原作では、点滴に薬を入れて、切り替えたらそれが流れ出す、その切り替えは、お父さんが自分でやることになってる・・・

そのとき、・・・お父さんは、もう亡くなっていた。

安楽死ができるという安心の中で、咲和子や仙川先生に見守られて、安心して死の世界へ旅立てたのかもしれないとも思う。

 

原作では、お父さんの死後、(結局、咲和子たちは、お父さんの死に直接関与したわけではないにもかかわらず、)咲和子は、警察へ行き、そして「皆の判断が下るのを待ち、許されるのであれば、また医者として働きたい。」と、いうようなことを言っている。

なんで? 仙川先生も「何を言ってるんだ。殺してもいないのに。」と、言っている。

それだけ、彼女にとって、痛がり苦しむ父を見ていることが辛かったのだろう。

自分の行為を世に問うことで、希望を見出す人々が必ずいるはずだという確信を彼女は持っていた~というようなことが、原文に書かれている。

 

さて、この映画のCMだったか、泉谷しげるが、ごみ屋敷のような家で、奥さん(松金よね子)を看病していて、吉永小百合の咲和子先生が、血圧を測ろうとすると、「締め付けることは嫌がるからやめてくれ!」と、いうシーン。原作では、ごみ屋敷は、別の人の話になっている。泉谷しげる扮する老老介護の夫は、妻のことをいつも考えているが、原作はそうではない。しかし、最後の段階では、妻の死を悲しみ、どうしていいかわからなくなる夫の姿も表現されている。ここは、原作のほうが、自然かもしれないが、映画って、フィクションだし、ある程度綺麗に作らないとやってられない面もあるしな。

 

まほろば診療所の訪問看護婦の広瀬すず演じる星野真世は、映画では、亡くなったお姉さんの子供を育てているが、原作では、子供の存在はなくて、卯辰山の旅館の娘。父母とは、もう何年も会ってない。

柳葉敏郎演じる宮嶋を看病する奥さん(森口瑤子)が、疲れ切ってしまったときに、原作ではこの旅館に療養に行って元気を取り戻す。

 

まほろば診療所に咲和子を追ってやってきた野呂(松坂桃李)、映画ではベンツでやって来て診療の送り迎えをするが、原作では、咲和子がまほろば診療所の車を運転している。

 

映画の中で、末期がんの芸者(小池栄子)は、原作には、全く出てこない。末期がんの患者さんが、モルヒネも使わずに、石段をさっさと登って、芸者としての仕事をこなせるかなぁ~と、映画を見てるとき疑問に思ってた。

 

ラグビーの事故で脊髄を損傷してしまったIT企業の社長役は、伊勢谷友介。結構好きな俳優さんで、大麻で捕まりどうなるのかと思っていたが、この映画ノーカットでよかった。

この社長は、咲和子に脊髄損傷で動かなくなった体の治療を頼み、再生医療にトライすることになる。

映画でも、原作でも、結果は語られていないが、成功していてほしい。

 

映画でも、原作でも、綺麗に描かれているのは、腎腫瘍で肝転移もあり、ステージ4の女の子萌ちゃん(佐々木みゆ)のことだ。母(南野陽子)は、もう見捨てられたのか~と、一時は泣き叫んでいるが、萌ちゃんの望み通りに海に行く場面は、みんながそしてオウディエンスも楽しく安堵した気分になる場面だ。野呂の背中に乗って海を泳いでいくシーンは、ちょっとやりすぎじゃないかな。(もちろん、原作にはない。)映画では、萌ちゃんが原作に書いてある鼻チューブもしてないし、萌ちゃん自身が、髪の毛は覆ってるけど、いつも可愛い顔で、やせ細ってるわけでもないし、だいぶ美しく描こうとしてるところが見え見えだけど、このシーンは、そうだからこそ救われてるのかも。

萌ちゃんが、父母に「萌、ガンでごめんね。」と、言うところ、もう何と言ったらいいのかわからないくらいかわいそうで、悲しい。

 

たくさん書きました。最後まで読んでくださって、ありがとうございました!!

 

 


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2 コメント

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Unknown (絶学)
2021-09-30 16:23:28
大変な大作でした!
読むのに一苦労(笑)

ここまで書けたら、映画の中身も忘れないですね。
絶学さまへ (ノリコ・マクレーン)
2021-11-04 14:53:58
長い長いの読んでいただいて、ありがとうございました。
色んなことを思う映画で、ついつい~

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