きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

小説 Fade-out 6 謎の言葉/別れの曲

2017-07-01 23:59:05 | 小説
Fade-out 6

§§§§§§ 謎の言葉/別れの曲 §§§§§§

 毎年8月の下旬にはどこでもよく行われている花火大会が北山市でも行われている。
子供の頃は実家の物干しからでも充分楽しめたが、マンション等が増えた今は、会場の河川敷から少し離れているので、かつて芳香の実家のあった場所の周辺からはもうあまりよく見えないのかも知れない。とはいえ、当時実家が存在していた商店街も今はすっかり様変りしていて、実家の跡地も駐車場からマンションに変わっていて、5~6階建てのようだから、逆に上階からなら花火を見るには特等席なのかも知れない。
実家を出てから何度か引越はしたが、何故かたまたま3階建てマンションの最上階ばかりでどこも花火の良く見える場所だった。
最後に河西を置いて逃げ出した古い戸建ての借家を除いては。

 学生時代の同期が有志を募って浴衣を着て花火大会を見に行った後に飲み会をやろうという話が出ている、と同級生から連絡があった。
いつもの仁美たちとの飲み会仲間のメンバーとは違うグループの、同期会の集まりには芳香のごく親しい友人も何人かは参加するようではあったが、正直そんな気分にはなれない、と芳香は思っていた。
それでも何の気なしにSNSの話の流れで新庄に花火大会のことを告げると、彼は自分の居ないところで他の男にちやほやされている芳香の姿を想像して嫉妬したのか、やたらにねちっこく意味ありげで嫌味っぽい言葉を投げつけてきた。
芳香にとっては、もしも本当に少しでも友達以上の好意や恋愛感情めいた思いを抱く相手に対して嫉妬されるならいざ知らず、筋の通らないことは納得できない性分の芳香は、ただの友人でしかない同期の異性との仲を揶揄するような言葉は冗談であっても至極不快で、内心激昂しながらも表面上はあくまでも冷静を装いながらいつになく言葉数も多く遠回しにではあるがきつい表現を使っていた。
芳香の中でどんどん大好きだった新庄が壊れて行くのを感じて、一抹の寂しさを覚えながらもどこかで酷く冷めた自分自身が、
「動き始めた歯車はもう止まらない。きっといつかこうなる運命だったのだ。」
と呟きながらじっと見つめている気がした。

 世間はお盆休みだが、芳香には帰る故郷もなければ、浮かれて旅行する余裕もなく、そもそも職場は通常通りに動いているのだから、特に用がなければ、休みを取ることもない。大病院等の医療機関にはお盆休みというものは存在しないので、まとまった夏休みが取れるのは特定の開業医の門前薬局くらいのもので、かつては芳香もそういう職場で一週間から10日ほどの医院の休診日に合わせて休むことができたこともあったが、今は厚生労働省が休日や営業時間を特定の医療機関に合わせることを良しとしないので、どこも職員が互いに予定を調整して交替で夏休みを取ることにしているようだが、芳香は今までもずっといくら有給休暇が余っていても自分から休みを取ったことはなかった。
 河西と暮らしていた頃は特にお互いの休みが重なると家の中で一日中顔を合わせなければいけないのが苦痛で、出来る限り休みを取らずに働いていたかった。

 いつも通りに仕事を終えて帰りの電車に乗ってから芳香の端末にSNSのメッセージの着信音が鳴った。
まさか今は身内の初盆で、別路線の終着駅のある東野市の実家に帰省している新庄からのメッセージだとは思っていなかった。
開けてみると、今夜は親から泊まって行くように言われたので、今から帰省先の東野市に芳香の方から会いに来てくれないか、という誘いだった。
家路につくために乗った電車は既に下車する駅までの停車駅の半分ほどを過ぎていたし、新庄も身内の初盆で親戚一同集まっているはずで、今から会いに来て欲しいなどという常識はずれな彼の気持ちが理解できなかった。
 芳香がそんな自分の違和感をそのまま告げると、新庄からの返信は意外なものだった。
一言でいうと、不可思議だった。
短いたった一言だが、意味があるようでいて何が言いたいのかよくわからなかった。
端末機の操作を誤って入力した言葉の変換を間違えたのか、それとも芳香が知らないだけのネットスラングなのか。
芳香は判然としないまま、長い間ただディスプレイの謎の言葉を見つめ続けた。
今までの芳香なら、
「それはどういう意味ですか?」
などと返信をしたろう。
もしも新庄が芳香の想像通りの意図で送った言葉なら返信が来ることはないとしても。
或いはもしかしたら後になって、
「ごめん、間違えた。」
と新庄からのメッセージが再開されるかも知れないという可能性も極めて少ないけれど0ではない、とも考えてみた。
本気で新庄からの次のメッセージを待つつもりという訳でもなかったが、芳香は結局そのまま返信することはなかった。
新庄のことが気になるというよりも、意味があるようでないような謎の言葉が気になって、検索をしてみたが、ネットスラングに同じような言葉はあったが、どう考えてもそのスラングの意味はこの場面に相応しいとは思えず、謎の言葉はついに謎のままになったが、それきり二度と新庄から連絡がなくなって1ヶ月以上にもなると、最早最後の新庄の言葉の意味はわからなくても、新庄が何を言わんとしたかは理解できた。
その言葉には決別の意味が込められていたのだと確信した。
いや、初めからわかっていたのだ。ただ芳香の心の中に残った一抹の寂寥感がそれを認めたくなかっただけで。
もしかして、あの言葉の意味を問おうとしていたら、新庄は答えたろうか。そんな想像をすることすら未練がましくて嫌だったが、恐らくは例え芳香が問いかけたとしても、新庄からはやはりもう二度と応答はなかっただろう。
新庄の中ではあの時全てが終わったのだ。
そして芳香の中ではもうとうの昔に終わっていたことを、改めて再確認したに過ぎなかった。

 SNSには新庄からの最後の言葉が今も残ったままになっている。
もし仮に芳香が再び新庄に対してメッセージを送ったとしても、新庄は既に芳香からのメッセージをブロックしていて既読となることも再び返信が届くこともないのかもしれないが、それを芳香が試みることは最早有り得ない。
 だが、一方で、芳香が感情的になって新庄と交わした過去の会話の全てを削除することもなかった。
それは決して新庄に対する未練などではなく、単にもしも新庄から何事かのアクションがあった時のための保険に過ぎない。
 万に一つもそんな事はないだろうと信じたかったが、芳香は慎重にならざるを得なかった。
絶対に安全だと確信するまで、新庄を信用してはいけないと思っていた。
 かつて全幅の信頼を置いていた新庄に対してそんな風に考えなければいけないことは少し残念な気がしたが、以前に「信じていた人に裏切られた」と落ち込む芳香に対して、「いくら親しくても100%他人を信じてはいけない」と助言したのは他ならぬ新庄自身だったのだから。
 今となっては芳香は本当に新庄のことを心から愛していたのかわからなくなっていた。あれほど執着し依存していた男なのに、何故か突然そんな気持ちが消え失せた。ただ互いの寂しさを埋めるためだけに肌のぬくもりを求めたのではなかったのか。そんな風にさえ思えて来た。

 いつか全てが過去になり、完全に終わったと実感するまでは、ただそのままにしておこう、と芳香は思っていた。
「好きの反対は嫌いではなく無関心」と誰かが言っていた。
河西のことも新庄のことも、今の芳香にとっては既にどうでも良い存在になりつつあった。
どれほど怯え怖れた者も、どれほど恋しく慕った者も、記憶から彼らが完全に消えることは絶対にないけれど、今はもう記憶の片隅へと追いやられて、普段は思い出すことさえ徐々に少なくなって来ていた。
少なくとも、彼らに対する感情は極めて希薄なものになろうとしていた。

 我ながら薄情だと芳香は思う。
だが、芳香は生きている限り前に進まなければならないのだ。
過去に拘っていては先に進めない。
何より日々の生活に追われる芳香には過去を振り返る余裕はどこにもない。
とにかく生きねば。
芳香はやっと呪縛から解き放たれたばかりで、ただただ独りで生き抜くことだけに必死だった。

 その数ヶ月後になって、芳香はこの時の自分の確信が如何に的外れな独り相撲であったかを思い知らされることになるのだが、そのことをまだこの時の芳香には想像することすらできないほど意外な出来事が新庄の身の上に起こっていた。
 後になって思い返せば、新庄にしては常識外れとも思える誘いにはどんな意味があったのか、SNSの返信が途絶えたことも、この時の新庄の状況を思いやれば彼にそれだけの余裕がなかったのだろうと容易に想像できたし、恐らくこの時新庄にとって芳香が如何に重要な存在であったか、新庄がどれほど芳香を必要としていたかを思うと、申し訳なくて胸が締め付けられそうになったが、この時はまだ芳香はそのことに気づくことすらできなかった。
 もう少し新庄がはっきりと用向きを口にしていたら、芳香が先入観なしに新庄の言葉を受け止めていたら、或いは何かが変わっていたのかも知れないが、往々にして人の気持ちはすれ違うものなのだ。運命の悪戯という言葉があるが、うまく行くべきものは、少々のトラブルがあったとしてもどんどん良い方に転がって行くものだし、縁がなければ、ちょっとしたタイミングのずれが最悪の結果につながりかねない。
 人智の及ばぬ不思議な縁というものは確実に存在する。
想いの強さと縁の深さは比例しない。どんなに愛し合っていたとしても、縁がなければ離れて行かざるを得ないし、縁があれば遥か時空を超えて繋がり引き寄せて巡り合う。縁とは神の手によって操られるものであるから、たかが人間風情が如何に抗ったとしてもどうにも変えようがないものなのだ。

 ある日芳香はとある施設のロビーに立っていた。
そのサ高住(作者注:サービス付高齢者向け住宅の略。介護を必要とする高齢者等が入居する賃貸集合住宅で、往診可能な医療機関とも連携し、365日24時間対応で介護スタッフや看護師等が常駐するなどしている。)は外観もさることながら、ロビーも高級感に溢れた内装になっていた。
 ゆったりと時間が流れる昼下がり、その施設に入居している患者のために持参した薬を受け取りに看護師が来るのを受付前に立って待っていた芳香の傍らには立派なグランドピアノが置かれている。今までは単なる調度品のようにしか思っていなかったが、今日はピアノ自らが楽器であることを主張するかのように哀調を帯びながらもどこか明るい旋律を奏でており、それを演奏しているのは車椅子に座って全身を左側に少し傾けて頭を左肩に乗せるようにほぼ直角に首を曲げた老女だった。見ようによっては少し異様にも見えるし、別な見方をすれば滑稽にも見えるその姿とは裏腹に、力強く美しい調べが誰も居ないロビーに響きわたっていた。最初は演奏している老女の存在には気づかず、BGMのように有線放送を流しているかCDでもかけてあるのかと思ったが、時々少し間延びしたようにリズムが崩れたようにも聴こえ、元々そういう曲なのかもしれないが、出来合いではない生演奏であるのがわかった。看護師の手が離せないのか、いつもより長く待つ間、クラシックにはあまり造詣が深い方ではないので何となく聞き流していたが、曲がクライマックスにさしかかり、一段と演奏に力が入って音量が上がったように聴こえたのは、クラシックをあまり知らない芳香にもわかるメロディーだったからかも知れない。
聞き覚えのあるメロディーは、その部分だけしか知らないが、とても好きな曲だ。哀調を帯ながらもどこか明るい旋律。
ショパンの『別れの曲』。
そしてちょうど演奏が終わる頃に看護師がやって来て、芳香は薬剤師の顔に戻った。

 数日後、芳香は別の施設に訪問に来ていた。
10人ほど居る担当患者の半分ほどは直接居室を訪問する。症状や薬の内容によっては看護師詰所に搬入して看護師や介護スタッフと情報交換するだけの場合もあるが、原則的には患者の居室を訪問することになっている。
その中に一人、いつも訪問の度にじっと芳香を見つめては、
「顔が違う…。」
と呟く老紳士が居た。
恐らく老紳士は以前何度か会ったことのある老紳士の娘が訪れるのを心待ちにしていて、同じような背格好の芳香を娘ではないかと思ったのだろう。
しかし、近くで良く顔を見るとそうではないことに気づいて少し落胆したのだろうと思った。
至れり尽くせりのサービスが受けられて、真新しい設備の整った部屋に暮らし、施設内には同年代の入居者が多数居るとはいえ、居室内で一人ベッドに横たわり、知らない天井を見上げて過ごせば、自分が広大な宇宙の中に独りぼっちで居るような孤独感を感じるのだろう。
このような施設に入れるのは本人或いは家族が相当に裕福な者に限られる。
いくら裕福であっても独りぼっちで暮らすのと、例え貧しくとも家族と共に暮らすのと、どちらが幸せだろうか。
とはいえ、要介護となった老親を自宅で家族が介護することはそれほど簡単なことではない。
家族には家族の生活がある。共倒れになる訳にはいかない。もしかしたら家族には手間暇かかる幼な子や教育費のかかる学生も居るかも知れない。
家を留守にできない状況でも働かざるを得ないなら、金を払って介護してもらえる施設に入れようということになったとしても、それを誰が責められようか。
もしも自分の親だったら、仕事を辞めて世話ができるのか?自分に親を施設に入れるだけの経済力があるのか?
そう考えたら、世間一般からすればあの老紳士も羨まれかねないほど恵まれていることになるのかも知れないが、あの寂しそうな目を見たら、何が本当の幸せなのかと考えさせられる。

 別の日、芳香は一人暮らしの老女を訪問していた。芳香の親と同じくらいの年齢だが、若い頃から病を持っていたため独身で、両親を亡くしてからはずっと一人暮らしだと言っていた。兄弟が敷地内の別棟に住んでいても、別の家庭を持つと何となく疎遠になるものだ。
 「もしも結婚していたら、もしも子供を産んでいたら、と考えたこともあるけど、同年代の女性(ひと)と話していたら、皆が『主人が浮気ばかりして随分と苦労した』とか、『子供は居るけどいくら可愛がって育ててやってもそれぞれ家庭を持ったら親なんて放ったらかし』とか愚痴ばかり言うのを聞くと、結婚したり子供を産んだりするのが必ずしも幸せとは限らないと思うね。家に一人で居るのはつまらないけど、同年代の人たちと会って喋ったりしてたら楽しいしね。別に独りでも全然寂しいとは思わないけど。」と老女は言った。

 幸せになるために、一人で生きる道を選んだことを芳香は決して後悔してはいない。失ったものもあるが、それは敢えて捨てて来たに等しい。寂しさを埋めるために何かに依存しようとすれば、また同じような過ちを繰り返すだけ。
思えば読書家の祖母の影響で幼い頃からよく海外の翻訳ものの小説を読んでいたものだが、大好きで繰り返し読んだ小説のヒロインたちは皆力強く生き抜いていた。そんなヒロインたちの姿に感動し、女一人でも凛として生きる姿に憧れ続けたのではなかったか。自分もまたそんな風に生きたいと思い続けて来たのではなかったか。
自分の人生の主役は自分自身なのだ。自分の脚で立ち、大地を踏み締めて力強く歩き出し、誰のものでもない自分の人生を自分の力で切り開き、生き抜いて行く。
そんな決意を新たにした時、故郷の街を捨て、長年共に暮らした男を捨て、過去の自分を捨てて、新しい街で別の自分になろうとして、いや、寧ろ本来の自分を取り戻して、新しい人生の第一歩を踏み出してから既に半年が過ぎようとしていた。

 以前芳香にはたまに連絡が来て、都合がつけば逢う男性が居た。
宮田というその男は医療業界とは全く畑違いのサービス業に従事する多忙なビジネスマンで、徳田仁美が主催する飲み会にも滅多に顔を出すことはないが、たまたま2、3度宮田が出席した時に芳香も居合わせていて知り合った。
河西が長期出張を繰り返して不在がちになった頃で、逆に宮田もその頃所用で時々北山市に来ることがあった。
 交際しているというにはあまりに希薄な関係だったし、宮田に対する執着もなければ、二人には未来がないこともわかっていた。 
宮田には帰るべき家庭があり、守るべき家族が居る。彼にとっては家庭が、家族が第一であって、それでもたまには夫でも父でもない一人の男である時間が欲しくて芳香を求めているだけだと芳香自身もわかってはいた。
 芳香にしても、若くして亡くなった父に似た宮田に父の面影を重ねていたに過ぎないのかも知れないが、二人きりで居る時はそれなりに幸せだとは思っていた。ただ何もかも忘れて非日常のその一時の幸せに身を委ねていられることが芳香を支えてくれている気がした。ただ寂しくて人恋しい気持ちを埋めてくれるのが宮田だというだけだとしても、女として輝いていられる瞬間をくれたことが芳香には嬉しかった。
 いつかは終わる関係。でもそれが今でないなら、今は先のことを考えずにいよう。そう思っていた。
宮田となら依存することもされることもない関係でいられると芳香は思った。
芳香の中では宮田との経済的にも精神的にも依存することのない対等な関係は執着も束縛もなくとても心地よく感じられた。
 そして宮田との関係は、魂で結ばれた新庄との関係とは次元の違うものであり、芳香の中では全く矛盾なく共存していると思っていた。

 新庄は宮田の存在を知っても最初は平然と振る舞っていたが、もう既に終わったと思っていた宮田との関係に嫉妬し、芳香は宮田に対する想いと新庄に対する想いとは違うということを必死に訴えたが、新庄には聞く耳を持つだけの余裕がなく、芳香自身もうまく自分自身の心中を表現することができなくて、終(つい)に芳香の真意は新庄に伝わることはなかった。
人間には心と体と魂があってそれぞれが求めるものが違うとしたら、そのどちらを選ぶかなどと比べることはできない。
強いて言えば、魂が求めた新庄とは心と体が求めた宮田よりも強い絆で結ばれていると信じていたのは単なる幻想に過ぎなかったのかもしれない。

 宮田にとって芳香はただ「都合の良い女」であるだけかもしれなくて、そして芳香もまたそれでも良いと思っていたけれど、新庄に対する想いはそれとは全く違って、毎日恋しくて、会えなくても言葉を交わさなくても常に魂と魂が互いに寄り添っている存在だとずっと思って来たのに。思うより思われているというなら、新庄の方がずっと強く激しく芳香を思ってくれていたはずなのに。それでも新庄は「同列に比べられるものではない」という芳香の言葉を詭弁と切り捨てたのだろう。

 新庄が芳香に寄せる想いは宮田以上だという自信があるのなら、卑下することも自虐的になることもないはずなのに、新庄は独り相撲の挙句に自ら身を引くと言い放った。結局男というものは独善的でプライドの高い生き物なのだ。自らはパートナー以外の女を求めても、惚れた女を他の男と共有することはできない。
「女は男にとっての最後の女になりたいと思い、男は女にとっての最初の男になりたいと思う」とよく言われるが、女ならば「二番手でも愛し愛されているならそれで良い」と思えたとしても、男は、口先だけは「それでも良い」なんて物分かりの良い風を装ってみても、本音では決して他の男の二番手にはなりたくないものなのだ。
 それは別の男友達の噂話をしている時に新庄自身も口にしていたし、新庄だけが男としては珍しく物分かりの良い特別な存在であるはずなどなかったことにどうして思いが至らなかったのだろう。
やはりどんなに言葉を尽くしても男と女が互いに分かり合えることなど絶対にあり得ないのだ。
 哀しいけれど、全ての関係に終わりは来るもので、それが今であっただけのことだ。来るべき時が来たと心静かに見送ろう。

 春には薄桃色の花弁がはらはらと風に舞っていた満開の桜並木はもうすぐ紅く色づいた落ち葉を散らせることだろう。
もしかしたら次に笑子夫人を訪ねる頃には金満家の近くの桜並木の樹々の紅葉も少し色づき初めているかも知れない。

 「空に太陽と月がある限り、きっと独りだって寂しくなんてない。
どこでだって、生きてさえいれば、きっといつか幸せになれるチャンスはあるはずだから。」
そんな言葉を思い出した。ずっと前に見たアニメーションの登場人物の台詞だったろうか。

 風に乗って漂う金木犀の香りが秋の訪れを告げていた。間もなく街には木枯らしが吹き、粉雪が舞って冬がやって来る。そして季節が一巡りしてまた春が来るのだろう。そしてこれから先もずっと芳香は独りで春爛漫の桜を眺め、秋は金木犀の香りに包まれるのだろう。

 独りでも決して寂しくなんてない。
芳香に好意を持って接近してくる男性は他にも居たが、芳香には恋愛対象としては考えられなかった。
新庄はそれを揶揄し、芳香を頗(すこぶ)る不快にさせた。
盛りのついた猫でもあるまいし、寂しいからと言って、誰でも良い訳ではない。

 もしかしたらいつか共に居て心安らぐ誰かが隣に居て、寄り添って眠れるような未来があれば、それはそれできっと幸せなんだろうとは思うけれど、そしてそれはきっと新庄なのだろうと思っていたけれど、夢破れた今はただ自分の人生を精一杯生きるだけ。いつかまた別の恋を見つける気持ちになれるまでは。

 芳香は深呼吸するように大きく息を吸い込むと、肺の中まで金木犀の甘い香りで満たされたように思えて、表情を少し綻ばせ、顔を上げると力強く一歩を踏み出した。
(つづく)
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小説 Fade-out 5 消えた顔文字/盆燈籠

2017-07-01 23:59:04 | 小説
Fade-out 5

§§§§§ 消えた顔文字/盆燈籠 §§§§§

 芳香が自身と新庄との関係に不安を感じ始めた頃、突然いつものように仁美から飲み会の誘いが来た。
日程的に急な企画だったこともあり、芳香が仲間内でも特に親しくしている2、3人のメンバーは皆都合がつかずやむなく欠席すると言い、逆に新庄は早々に出席を表明していたこともあって、芳香は考え抜いた末、体調不良を理由に欠席することに決めた。
実際には欠席せねばならないほど酷く体調が悪い訳ではなかったけれども、確かに絶好調ではなかったので、強(あなが)ち嘘という訳でもなかった。
新庄は芳香の欠席を大変残念がっている様子ではあったが、欠席の理由の真偽を疑っている風でもなかったので、
(今顔を合わすだけの気力はないが、欠席理由を疑われてまた面倒なことになるのはごめんだ)
と彼の反応を心配していた芳香は少しだけ安堵した。

 芳香は新庄との間で互いを思う気持ちの温度差に気付いて以来、SNS上で彼と交わす言葉にも微妙な変化が表れていた。
今までは文字の羅列だけでは感情が正しく読み取れないから、少しでも気持ちが伝わればと思い、とはいえ他社の端末での文字化けを懸念して、絵文字ではなく顔文字を必ずといって良いほど添えて来た芳香だったが、最近の芳香から新庄へ送るメッセージからは完全に顔文字が消えていた。
 朝な夕なに他愛ない挨拶や天気の話のたった一言でも、新庄の存在を感じることが心地良かったはずなのに、今はもうそんな安らぎを感じることはできなくなっていた。
 メッセージが届けば機械的に必要最小限の言葉で返信するだけでも、ともすれば冷たい本音が零れ出てしまいそうになり、新庄を傷つけることも、逆上させることも怖くて、今までは新庄から送信された言葉に返信すると、彼の次の言葉を待ちきれず、彼より先に芳香から次の言葉を送ってしまうこともあったくらいなのに、今はたった一言にも深く考え込んで、慎重に言葉を選び、誤解を招きはしないか、妙に気を持たせたりしないか、機嫌を損ねたりしないか、と何度も考え直して入力画面上に並んだ文言を読み返してから送信していた。
 かと思えば、今までなら2人が共通して興味を持った話題になるとすぐに熱くなって互いに議論したり長々と語ったりして来たはずなのに、もうそんな一時的な感情に衝き動かされることもなく、ただ当たり障りのないように彼の話を受け流したりもした。
 いつも最後は新庄が寝落ちしたり忙しくなったりして返信が来ないまま芳香の送信で終わっていたのに、最近は彼の言葉にどう答えたものかいくら思案してもどうにも答えが浮かばなくて、結局そのまま放置してしまうため、最後は新庄の送信で終わり、芳香から返信することもなくなっていた。
 もしかして返信のないことに新庄が逆上してまた脅しめいたメールでも来たらどうしようかと不安でたまらないこともあったが、いつも彼自身がそうだったようにきっと芳香が寝落ちしたり忙しくなったのだろうと思ってくれたのか、幸い芳香からの返信がなかったことを新庄から責められることもなかったが、新庄もそれほど鈍感な方ではないから恐らく何らかの違和感は感じていたろうし、芳香の変化、即ち芳香の彼に対する気持ちが離れつつあることは薄々気づいていたに違いない。
ただ、それを直接問い質そうとしなかったのは、新庄自身それを認めざるを得なくなるのを恐れていたのだろう。おそらくは男としてのプライドが見捨てられつつあると認めることを許さなかったのではなかろうか。

 互いにはっきりと相手の気持ちを尋ねることもできず、自分の本音を伝えることもできないまま、腹の探り合いをしているような居心地の悪い思いを芳香はずっと感じていて、新庄も同じように感じているのかも知れないと思いながら、それでもまだ辛うじて表面的な繋がりを保っていた。
 芳香は河西との関係がトラウマのようになっていて、何か下手なことを言ってしまって新庄の気に障ることを怖れるあまり何も言えなくなっていた。
新庄は河西とは違うと信じたかったが、あまりにも彼に依存していたために疑心暗鬼になり過ぎて、芳香自身の全てを知り過ぎている新庄がもし悪意を持って何事かを仕掛けて来たら、と考えると恐ろしくて堪らなかった。もしも新庄がストーカーのようになったら、とか、今まで余りにも全てを曝け出して来てしまったから、芳香への報復のために直接河西に宛てて、或いはネットで不都合な情報を拡散したりしたら、と想像しては、情が深ければ深いほど、可愛さ余って憎さ百倍と恨まれるのではないかと思ったり、いくら何でもそんなことはあり得ないと否定たりすることの繰り返しだった。

 芳香は、いつまでもこのままの状態が続くはずもなく、いつかは新庄に対してどうしても言わなければならない言葉がある気がしたが、芳香自身それが何という言葉なのか、いつ、どんな風にその言葉を告げるべき時が訪れるのか、今はまだあまりに漠然とし過ぎていて想像だにできずにいた。
 ただひとつだけはっきりとわかっていたのは、それがどんな形にせよ、お互い無傷でいられるはずもなく、きっと心の痛みを伴うであろうことは間違いなかった。できれば泥沼のような長く醜い争いをすることなく、静かに穏やかに終わりを迎えることができたら、などと願うのはあまりに虫が良すぎはしないかと自らを戒めつつも、芳香はそう願わざるを得なかった。

 芳香は恋愛感情云々以前に、自らの真意を誤解されたままでいることがいたたまれず、芳香の新庄に対する想いや、他の男友達への気持ちとの違いを、新庄にわかってほしいと強く願ってはいたが、それをどうしたら正しく伝えることが出来るのかと思うと、途方に暮れざるを得なかった。
新庄の求める関係に応えるかどうかよりも、芳香にとってはそのことの方がずっと重要だった。
どんなに言葉を尽くして説明したとしても、新庄に全てを正しく伝えることは至難の業だったし、そもそもどう説明すれば良いのか、適切な表現を見つけることは出来なかった。
人間が他の人間を100%理解することは不可能だと、いつか新庄は言っていた。まして男と女の間では、完璧に分かり合えるはずなど有りはしない。
それでも、と芳香は思い、悩み、苦しんだ。
大切な人だったことは間違いない。が、芳香にとっての新庄がどんな存在であったのかは、新庄にとってはどうでも良いことなのかもしれない。
例え仮に伝えたいことが正しく伝えられたとしても、それは決して新庄が欲しているものではないのではないか。
それなら伝えることに何の意味があるだろう。それは単に芳香自身の自己満足でしかない。
理屈ではわかっているのだ。意味のないことだと。
それでもなお割り切れぬ思いに日々悶々と思い悩み続けていたが、それも全てはいつか時の流れに押し流されて行くのだろうと心の隅から冷めた目で見つめている自分が居る気がした。

 そんな時芳香はふとインターネットのとある記事に目を留めた。
『友達から一旦恋人になった相手と再び友達に戻ろうなんて虫が良すぎはしないか』とその記事は書いていた。
 いつだったか芳香は、仁美たちのグループとは別の、友達としか思っていなかった男性から好意を持っていることを告げられた時、「別の男友達から想いを寄せられたけれどそれには応えられない」と新庄に相談したことがあったのを思い出した。
その時新庄は
「相手が真剣に告白したのを断るなら以後一切の関係を断つくらいの覚悟が必要です。そんな男女が何事もなかったように友達関係を続けて行くのは難しい。男はプライドの高い生き物だから、自分に魅力がなかったと認めるより、『他にもっと好きな男が居る』と言われてライバルに負けたと思う方が傷つかないで済みます。」
とアドバイスをくれたのだった。
男性というものはそういうものなのか、とその時芳香は思っただけだったが、今にして思えばそれは新庄自身が振られる立場になった時を想定して言ったことだったのか、或いは『もっと好きな男』というのは新庄自身のことであり、他の男に対して優位な立場からのせめてもの温情のつもりだったのかもしれないとも思えて来た。
 芳香はいつしか「新庄の言葉が真理だとするなら、芳香と新庄も素知らぬ顔で友達関係を続けて行くことは出来ないから、一切の関係を断つべきなのだ」と思い込んでいて、新庄との気持ちのすれ違いに気づいた時から「別れるべきだ、忘れるべきだ」と悩み続けていたのかも知れない。
 その記事には
《一旦恋人になった相手と再び友達に戻る」というのはあまりにも虫が良すぎはしないか。
振られた側はまだ燻り続ける恋愛感情の残滓に縋ろうと思い出を引き摺っているのに、振った側の勝手な都合で「友達」という名の都合の良い関係になりがちなのは生殺しのような状態で残酷ではないのか。
振った側は優しさのつもりで復縁するつもりもないのに「友達だから」と口にし、傷ついたり傷つけたりという罪悪感を軽減するために「友達」でいようとするけれど、それは相手を勘違いさせてしまいかねないし、自身もふとした瞬間に恋人時代の思い出がフラッシュバックし、「もしかしたらやり直せるかもしれない」「いややはりそれは無理」と迷い、仮に結果的に復縁したとしても、それは二重の裏切りであり、拷問のように何度も繰り返し相手を苦しめるだけ。
終わった関係とは言え、今まで恋人として共に過ごした時間の記憶や感情を、恋人でなくなったからと言ってすぐにそれを最初から全て無かったことのようにするのは決して簡単なことではないのは当然のことだ。
愛に変わるものは便宜的な友情ではなく、お互いを縛り合うことのない誠実で前向きな関係、つまりは自立したそれぞれが、少し距離を置いてお互いを大切な思い出にして歩んで行くべきだ。》
と述べられていた。

 8月に入って、殺人的な猛暑の中、芳香はまた北山市桜乃丘の屋敷に住む金満笑子夫人を訪問するため、電動アシスト自転車を走らせていた。
月に一度、それもごく僅かな時間のことなので、たまたまその時の体調にも依るのかもしれないが、笑子夫人の認知症は徐々に進行しつつあるように思われた。
 以前に増して短期記憶が保持できなくなり、以前なら負担金の支払時にもお釣りの出しやすいよう計算をして支払っていたのに、高額紙幣を出そうとするという認知患者にありがちな特徴まで現れた。
勿論その日はたまたま小銭や少額の紙幣が少なかっただけかもしれないから断言はできないが、同じ質問を短時間に何度も繰り返すので、単なる思い過ごしとは考えにくかった。

 笑子夫人がインターホンに応えて現れ、招き入れられた玄関の三和土には蓮の花が描かれた盆灯籠が置いてあり、いつも持参した薬を置く場所として指定されている仏間に通されると、仏壇には入院前は台所にベッドを置いて仰臥していた当主の笑顔の遺影が飾られており、真新しい純白の絹布に包まれた骨箱が傍らに置かれていた。
はっきりと訊ねた訳ではないが、かねてから当主が入院先の病院で既に亡くなっているのではないかと予想はしていたので、それほど驚きはせず、仏壇の前に座って合掌した。だとすれば今年は笑子夫人の夫・金満豊氏の初盆なのであろう。もうお盆が近いので、玄関だけではなく仏間にも同じ盆灯籠が飾られていた。

「お盆にはご家族が帰ってみえるんですか?」
芳香が訊ねると、笑子夫人は寂しそうに答えた。
「皆遠く離れた所で暮らしていますからね。忙しいみたいでほとんど帰って来ませんの。」
いくら遠方で忙しく生活していたとしても、父親の初盆に実家に帰らない子供がいるだろうか。
笑子夫人は夫が亡くなったことがわからないのか、今がお盆前であることがわからないのか、或いは芳香の言葉の意味がわからないのか、いつもと変わらない答えを口にしたので、少し噛み合わない会話を気にすることもなく、暑いが体調はどうか、と訊ねた芳香にまた寂しそうな笑みを浮かべて答えた。
「体はとても元気なのだけれど、もう歳を取ってしまって駄目ね。家の中もなかなか綺麗にはできないけれど、お庭の手入れが大変でなかなか思うようにできませんの。…何しろお庭がとても広いでしょう?こんなにお庭が広いと何だか余計に寂しいわね…。夜になると特にね。主人に『子供たちも巣立ってしまって、家や庭が広いと寂しいわ。』なんて言うと、『そんなことを言ったって仕方がないじゃないか。』と叱られるけれど。主人が入院してからはずっと私一人だから、子供たちに迷惑をかけないように私はいつも元気でいなくてはね。」
閑静な高級住宅街の一角で車が通り抜けられない袋小路の奥にある金満家の豪邸の近隣は恐らく夜になるとしんと静まり返っているのであろうことは容易に想像できた。
 毎回訪問の度に
「お台所がなかなか綺麗にできなくてお恥ずかしいわ。」
と繰り返す笑子夫人に、芳香はいつも思う。きっと若い頃の笑子夫人はいつも家中をピカピカに磨き上げて、庭の手入れもきちんとして、何もかも全て完璧な良妻賢母だったのだろう。
いや、もしかしたら亡くなった当主が神経質で、少しでも部屋や庭が乱れたり汚れたりしていることを許さなかったのかもしれない。
或いはそんな夫の性格を知り尽くしているが故に、何も言われないうちから先回りして全て完璧にしなければ、という強迫観念に圧され、夫に指摘される前に完璧に仕上げておくことが笑子夫人の自尊心の拠り所になっていたのかもしれない、などと過去の自分の姿を重ねた勝手な妄想が芳香には我ながら少し可笑しく思えた。

 初盆と言えば、新庄も今年は身内に不幸があったから初盆になるので実家へ帰ると言っていた。
それでなくても親孝行な彼は親の入院中はまめに見舞いに行っていたり、様子を見るために度々実家を訪ねたりしていたから、盆休みは実家で過ごすのだろうと思っていた。
 帰る家も家族もない芳香はふと若くして亡くなった最愛の父を思い出した。
今の芳香の状況を鬼籍に入って久しい父が存命ならばどう思っていたろうか。
反対を押し切って河西の下へ走った親不孝を悔いて、河西から逃れて独りで生きることを選択したことを、きっと草葉の陰から見守ってくれていて、頑張れよ、と応援してくれているに違いない。
 人生はいつからでもどこからでもやり直すことができるのだから、過ちを正すのに遅すぎることはない。間違いに気づいたら、そこからやり直せば良い。過去は変えられないが、未来はいくらでも変えられるのだから、あれやこれやと言い訳を考えるくらいなら飛び出してみた方が良い。
芳香は再びしっかりと顔を上げ、前を向いて、自分の足で力強く歩いて行こうと自らに言い聞かせながら、急な坂道を風を切って自転車で下って行った。

(つづく)
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小説 Fade-out 4 北の街・南の街

2017-07-01 23:59:03 | 小説
Fade-out 4

§§§§ 北の街・南の街 §§§§

 芳香がかつて暮らした街・北山市は北側の山の影響か近隣の街より体感気温が低くて寒く、にわか雨の多い旧い街だった。かつての城下町であるというプライドを捨てきれず、新参者を受け入れなかったために時代の波に乗り遅れていつしか老人ばかりが暮らすさびれた街になっていた。
芳香は北山市に生まれ育ち、おそらく一生涯北山市を離れることはないだろうと漠然と思っていた。大人になって幼馴染が次々と進学や就職、結婚などで街を去っても、自分だけはきっと北山市に住み続けるのだろうという気がしていた。いつか北山市ではないどこか別の場所で暮らす日が来るなどと想像だにしていなかった。地元で実家から通える学校、地元で実家から通える職場。それ以外の選択肢はなかった。

 社会に出て間もなく芳香は一人の男に出会った。この時はその男が自分の人生を狂わす元凶になるなどと思ってもみなかった。
学生時代片思いの末に大失恋をして、それがトラウマとなって新しい恋をする勇気すら失っていた芳香の前に現れたその男はおよそ芳香の理想の男性像である父親とは正反対だった。
粗暴で癇癪持ちで、思い込みが激しく自分勝手ではあったが、機嫌の良い時は芳香のことを、
「美人じゃないが質素で地味だし、上品で賢いし、素直で従順で良い女だ」
と誉め、大して酒は強くないが、飲んで酔った時だけは「愛してる」と言った。
箱入り娘で男性との交際経験も皆無だった芳香にとっては初めて出会うタイプのその男・河西怜児のことを、
「大人になっても少年のように夢を追い続け、ちょっと気が短くて怒りん坊だけど意外に甘えん坊なところもある人なんだ」
とその時芳香は思っていた。
周囲の反対を押し切り、半ば駆け落ちも同然に河西の元へ走ったが、それが大いなる勘違いであったことにその時の芳香はまだ若過ぎて気づくことができなかった。
芳香はトラウマから完全に自信を喪失していたため、極めて自己価値が低かったが故に、愛されること、必要とされることを欲するあまり、完全なる共依存関係に陥っていることに気づいたのは芳香自身が無理に無理を重ねて心を病んで、もう少しで命を落とすか或いは何も感じることなく生きながら死んでいるような廃人になる寸前まで悪化しきってからのことだった。
 今にして思えば、本当に河西を好きだったのか、愛していたのかと問われても芳香は即答できなかった。確かに嫌いではなかったのかもしれない。しかし本当は好きではなかったのかもしれない。本当に好きな人なら、好きになろうという努力など要らないはずだ。自然に好きという感情が湧き出て来て止めようとしても止まらないものだ。「愛さなくては」と構えなければならないのは、本当は愛してなどいないからなのだ。

 男の脳と女の脳の違いから、過ぎ去った恋愛を男は「美しい思い出」として「別名で保存」し、女は「単なる記憶」として「上書きで保存」すると言われている。
男はいつまでも別れた女振られた女のことを覚えていて時折懐かしんでいるが、女は新しい男ができると前の男のことはきれいさっぱり忘れてしまうという。いや、忘れてしまうのではないが、色褪せた過去のものになって、思い入れのない、感情を伴わないただの記憶になってしまうのだろう。
男の恋愛の思い出は極彩色の動画で、女の恋愛の記憶はモノクロームのスチール写真のようなものかもしれない。

 もしも芳香が本当に河西を愛したなら、学生時代に憧れ片思いだけで終わった相手のことをいつまでも恋しがっていたりはしなかったはずだ。苦しい、辛い、哀しいなどと言いながらも忘れられなかったのは、上書きする相手に出合っていなかったからだ。寧ろ現実の辛さを忘れるための妄想として片思いの相手の面影を借りていただけだったのだろうと今ならわかる。その人のことを殆ど何も知らないのにそれほどまで執着し続けることは普通ではありえないからだ。つまりは恋に恋して憧れた人の姿を借りた偶像を心のよりどころにするしかないくらい現実が辛かったということに他ならない。忘れられないのではなく忘れたくなかった。現実から目を背けるために縋るべき何か他の対象を必要としていたのならそれは河西を愛してなどいなかったからなのだ。

 「俺を捨てたら許さない。別れると言うなら地の果てまで追いかけてでもお前を殺す。」
などということが平気で言える男がまともな人間であるはずはなかった。
「俺を相手にしてくれる女はお前しか居ない。お前に捨てられたらとても生きていけない。」
などと言いながら、河西は芳香を束縛し、暴言を吐いて恫喝し、手当たり次第に物を破壊して、恐怖と不安で支配しようとし、思い通りにならないと癇癪を起す。それはまるで分別のつかない幼児のようだった。ただ、言っていること考えていることは幼児でも、体は成人男性であるから当然力もあり、暴れられたら抑えは利かないのが恐ろしかった。
 更に困ったことに知能は一応は普通なので、どうすれば一番効果的に相手を攻撃できるかわかっているし、世間体を気にして外面良く振る舞うこともできる。そして全く悪気がない、と言うよりも悪いのは自分ではなく自分を怒らせた芳香の方であると確信している。躾と称して子供を虐待する親と同じ理屈だ。いつも正しいのは自分であるというゆるぎない自信がある、というよりは寧ろ本当は自分の非を自覚しているからこそ、そうして自分を正当化しようとするのだろうけれど。

 そんな男・河西と共に芳香は長い間北山市桜乃丘で暮らしてきた。
一生涯北山市を出ることがないのと同じく、死ぬまで河西との縁を断ち切ることなどできはしないのだと諦めて、芳香は只管(ひたすら)自らの死を願った。あの男か自分か、どちらかが死ぬまで終わりのない地獄の日々が生きている限りどこまでも続く。
(頼むから死んでくれ、でなければ私が死んでしまうしかない…)
所謂(いわゆる)鬱状態だった。しかしそれはまだ物語でいえばほんの序章にしか過ぎなかった。
河西と出会ってから共に暮らした月日の間に闇は徐々に芳香の心を蝕み、次第に芳香は自身の心の闇に飲み込まれて行った。

 たまりかねて心療内科に通い始めたが、決して状況が好転することなく、寧ろそれから数年間芳香は精神世界の泥沼にはまって溺れていたようなものだ。辛さの原因を取り除くことも壊すことも、どうすることもできないのなら辛さを感じなくなればいい、と薬を飲んでごまかした。それでも辛いと訴える度に薬は更に増え、より作用の強いものに変わって行った。躁転(作者注:鬱状態から転じて躁状態が生じ、躁鬱病とも呼ばれる双極性障害を発症すること。双極性障害(BP)には遺伝等によることが多く躁と鬱の振れ幅が大きいⅠ型と、躁状態が注意力が低下する等の軽度に留まるⅡ型がある。)や体重増加等の抗鬱剤の副作用にも苦しんだが、薬剤師でありながら、その時にはもう既に思考力も判断力もなくなっていたので、薬を止めようとかいう発想など起こりようもなかった。リストカット(作者注:精神的苦痛を肉体的な苦痛にすり替えるため、或いは自分が生きているという実感が乏しくて痛みや出血により自分が生きていることを確かめるための自傷行為)やオーバードーズ(作者注:主に向精神薬や睡眠導入剤、精神安定剤の過量服用)を繰り返し、キッチンドランカー(作者注:キッチンドリンカーとも言う。主婦等のアルコール依存で、酒を飲まないと食事が作れないなどの状態)となって毎日酒を飲まなければいられなくなり、仕事は辛うじて続けていたものの、家事をするのも苦痛になり、休日はずっと布団から出られずにいた。インターホンや電話に応対することも出来なくなり、居留守を使って息を潜めていた。
 回復するどころか悪化する一方の症状に将来を悲観し、病気のせいで客観的に見れば馬鹿馬鹿しいような貧困妄想に苛まれて日々の生活を憂い、情けない自分を嫌悪し、それを如何ともし難い自らの弱さを責め、さりとて命を絶つだけの度胸もなく、いつかどこかで事故にでも巻き込まれて死ねたら良いのに、とただ只管願い続けていた。(作者注:鬱状態特有の3大妄想、心気妄想(不治の重病に罹患しているのではないか等)・罪業妄想(人を傷つけたり罪を犯しているのではないか等)・貧困妄想(貧乏になって生活に困窮するのではないか等)を総称して「微小妄想(自分は小さいものである)」という)

 それでも河西が仕事の都合で別の部署に出向することになり、あちこち長期出張を繰り返して不在がちになったことで断続的にではあるがゆっくり心身を休めることができるようになったためか、ちょうど病状がようやくどん底まで辿り着いて底を蹴って浮上し始めたのか、以前から芳香の身を案じてくれていた友人の徳田仁美の「病院を変わったら?」という勧めにもやっと耳を貸す余裕が生まれて、多少なりとも気力が出てきた時に、同業の友人の紹介で出合えた医師が精神世界の底なし沼から救い出してくれて、辛うじて命を落とすことも廃人になることもなく、芳香は初診当日即座に向精神薬を止めることができたし、心配していたリバウンド(作者注:向精神薬等は医師の管理下で漸減することが望ましいが、急に服薬を中止すると離脱症状で一気に症状が悪化することをいう)も全くなかった。

 自信満々に「必ず治す」と断言する主治医を信じて治療を始めて数年、かつては心療内科で精神障害の認定を受けて21公費(作者注:自立支援法に基づく医療費の公費負担制度により、重篤且つ遷延性の精神障害患者の医療費の一部ないし全額を公費で負担するが、受給者番号が21で始まるため通称21公費という)の適用を受けることになった時、「遺伝から来る先天性の素質に加えて劣悪な精神的環境がもたらした精神障害であって、有効治療域の狭い治療薬の血中濃度測定のための定期的な血液検査を含めて生涯治療を続けなければならないが完治することはない」と言われて絶望するしかなかった心療内科医の診断を、初診で「誤診」と一刀両断に切り捨てた主治医の言葉の通り、生活習慣その他を全て見直して主治医の指示通りに改善して行くと、目に見える体の不調は徐々に回復して行った。河西が居なければ症状は安定していたが、河西が居る時は悪化するという、極めてわかりやすい構図で、原因のほぼ全てが河西から受けるストレスであることは明らかだった。

 河西が荒れる度に今までの苦労が無駄になりかねないくらい目に見えて芳香の体調は悪化し、その度診察室で芳香は取り乱して号泣した。1年ほど前に主治医はついに芳香に言った。
「逃げなさい。相手の知らない、どこか別の所に逃げて、一人で暮らしなさい。現実があなたの話通りだとすると、あなたが精神障害なのではなくて、相手の方こそ発達障害の疑いがある。相手はどうにもならんよ。そんな相手に頼らなくてもあなたは一人で生きて行ける。あなたには薬剤師の資格もあるのだから、仕事だったらいくらでもあるだろう。今までよく頑張って来たね。もうこれ以上頑張らなくても良い。逃げて楽になりなさい。」
主治医の言葉に再び芳香は号泣した。
 だがその涙は、今までの先の見えない絶望の涙ではなく、これから先の新しい人生に対する希望の光を見出した感動の涙であった。

 それから約1年の間、河西に気取られぬように細心の注意を払って芳香は密かに逃避行の準備を始めた。慎重かつ大胆に芳香は作戦を立て、着実に実行した。そして再び河西の仕事の都合で出向が終わり、河西から
「これからは元のオフィスに戻れるから、毎日早く帰れるようになるし、やっとずっと家に居られるようになる。」
と聞かされた時、芳香はいよいよ時が満ちたと思った。

 あの診察室での主治医との会話からちょうど1年を過ぎたある日、芳香は河西が仕事に出た後そっと河西と暮らした家を出た。
 これから住む場所も、働く場所も既に準備はできている。引っ越し荷物など何も要らない。ほんの僅かの身の回りの物だけを持ち出して芳香は北山市を去り、生まれて初めて暮らす南川市へと向かったのである。
 それがどんな所かはわからないが、一つだけはっきりとわかっていることがあった。それは例えどんな所であったとしても、河西さえ居なければ遥かに居心地の良い場所に違いないということだった。例えどんなに不便な生活を強いられたとしても、河西と暮らすよりは遥かに幸せな生活になると思えた。

 格安の家賃が決め手になって芳香が南川市で借りた部屋は、古い小さな3階建てのマンションの最上階で、部屋は広くはないが南側のルーフバルコニーのおかげで明るかった。
今まで暮らした北山市桜乃丘の古い戸建ての借家の近くは近隣地域では有名な桜の古木ばかりの並木道があり、春風に舞い散る満開の桜からの桜吹雪は圧巻で、春には花見に来る人も多かったが、この南川市のマンションの近くには金木犀の木が多かった。引っ越して来たのはまだ桜がちらほら咲き始めた頃だったが、きっと秋になるとマンションの近くの金木犀の木々が一斉に小さく可憐な橙色の花をつけ、辺り一面に甘い香りを漂わせるのだろう、と思った。

 そのマンションは袋小路になった路地裏の迷路のような住宅街の奥に隠れ家のようにひっそりと建っていた。表通りからは見えない路地の裏側の入口を入ると廊下や階段にも灯りがついていなくて、廃墟のように静かだった。
 隠れ家のようなそのマンションの住人たちもまた世の中の片隅でひっそりと息を潜めるように静かに暮らしていた。真っ暗な廊下にドアの下の僅かな隙間から漏れる細い一筋の灯りだけが、そこに人が暮らしている証だった。そして芳香もまたその時から、おそらく今頃は芳香が家を出たことに気づいて怒り狂っているに違いない河西に知られぬように、ひっそりとそこに隠れて暮らす住人の一人となった。
(つづく)
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小説 Fade-out 3 止まない雨/蜘蛛の糸

2017-07-01 23:59:02 | 小説
Fade-out 3

§§§ 止まない雨/蜘蛛の糸 §§§

 窓の外は雨。雨音が厚地のカーテンの向こうから聞こえて来る。防音サッシを閉めているのに聞こえて来るくらいだからかなり降っているのだろう。
あの街に居た頃は、芳香の心の中にずっと降り続けて来た雨は永遠に止むことがないのだろうと思っていたが、あの街を離れてからはいつの間にか心の中の激しい土砂降りの雨は上がり、霧のような小雨が時折降ったり止んだりしているような気がした。
おそらくかつての芳香にとって新庄の存在はこの世の終わりまで降り続きそうな土砂降りの雨の中で見つけた雨宿りの場所。
冷えた体を縮めて丸まれば、包み込んで温めて癒してくれるところ。
ずっとこうしていたいと思っても叶うことのない仮の宿り。
それ以上望めないことはわかっていたし望むつもりもなかったが、ただそこに居る間だけは果てしなく続く雨のことを忘れていられた。

 だが、芳香はほどなく自分の大きな勘違いに気づかされることになった。
芳香が新庄の言葉に以前とは違う積極的な態度を感じ取ったのは、去ろうとする芳香の心を繋ぎ留めたいという彼の焦りだと思っていたのは間違いだった、というより、少々意味合いがずれていた。
新庄が大胆になったのは、「芳香が他の男友達の中から自分一人を特別な存在として選び、『恋人』と認めてくれたと思い込んだからだ」という彼の言葉に驚いた。
 芳香には何をきっかけに新庄がそう思い込んだのか、見当もつかなかった。
いや、そうではない。
今にして思えば、本当は彼の気持ちに気づいてはいたが、鷹揚で温厚で寛大な彼に甘え、おもねることで良いように利用していたに過ぎなかったのかも知れない。芳香は自分の狡さを認めたくなくて気づかないふりをしていたのだと認めざるを得なかった。

 何気なく告げた他の男友達の話をきっかけに、思いがけず嫉妬から新庄の態度が一変したことで改めて新庄の想いの強さを知って芳香も驚いたが、芳香にとっての新庄への想いは彼の想定していたそれとは似て非なるものであることを知り、新庄もショックを受けたようだった。
新庄にしてみれば、最初は単に気の合う友人に過ぎなかったとしても、毎日SNSで会話をし、極めてプライベートな相談にも応じるうちに、きっと芳香は自分に好意以上の感情を抱いてくれているに違いないと思っていたのだろうし、新庄自身の中で次第に高まって来ている芳香への恋慕の情を認め受容してくれているものと思っていたとしても何の不思議もない。新庄が芳香を愛するのと同じように芳香もまた新庄を愛していると思い込んでいたというのは、決して誤りではないけれど、二人が互いを思う気持ちには温度差というよりも微妙なベクトルのずれがあったことに、お互いが気づけずにいたという方がより正確なのかも知れない。

[正道:貴女とこうしてSNSで毎日挨拶を交わすうちに、僕は段々貴女に夢中になって行って、貴女も他の誰にも出来ない相談をする相手として僕を頼ってくれて、僕は貴女の恋人になれたのかも知れないと思っていました。僕が貴女を想う気持ちが通じて、貴女も僕を、僕だけを、愛してくれていると信じ込んでしまいました。]
[正道:だけどそれは単なる僕の思い上がりだったんですね。僕はとんだ勘違いをしていた訳だ。僕はやはり哀しい道化に過ぎなかった。貴女の愛が得られたなどと思い込んでのぼせ上がり、舞い上がってしまっていた。落胆なんて遥かに通り越してもう嗤(わら)うしかありません。]
 [芳香:そんな哀しいこと言わないでください。悪いのは私です。]
[正道:貴女はわかってない。貴女は自身が思っている以上に魅力的な女性なんです。綺麗で聡明で健気で、しっかりして見えるが、どこか儚げで守ってあげたくなる。男なら誰だってそう思いますよ。実際徳田さんの飲み会メンバーの他の男たちの中でも貴女のことが気になっている人は何人もいるはずだ。訊かなくても同性なら見ているだけでわかります。]
[正道:貴女を大切に思うあまり、僕はあと一歩を踏み込めずにいたんです。僕の中で燃え滾る熱い想いを貴女に告げてしまえば後に退けなくなる。男のくせに情けないと思われるかも知れませんが、もしも貴女に拒まれたらと考えたら、僕はきっと立ち直れないだろうと恐ろしくてたまらなかったし、貴女をも傷つけてしまって、永遠に貴女を失ってしまうかもしれないのが怖かった。だから平静を装って貴女に接して来たんです。]
[正道:僕は馬鹿ですね。貴女を失うことを恐れる反面、心の何処かで根拠のない自信のようなものがあった。貴女はきっとわかってくれている。そしてきっと僕と同じ気持ちでいてくれている。…なんて勝手な妄想を抱いていたんです。]
 [芳香:ごめんなさい。貴方に甘えてばかりで、結果的に貴方を傷つけてしまいました。許して下さいなどと言える立場ではないのはわかっています。でも、わかって下さい。私は本当に心から信じていたんです。貴方とは魂で結ばれたソウルメイトだと。]
[正道:貴女が謝る必要はありませんよ。貴女は何も悪くない。僕はとんでもない勘違い野郎だった僕自身に呆れているだけです。]
[正道:心配しないで下さい。例え僕が貴女の恋人ではないことがわかったとしても、貴女が僕を必要としてくれるなら、僕が貴女を遠ざけることはありません。いつか僕は全力で貴女を守ると約束しましたよね。男に二言はありません。貴女の側に居て貴女を支えることが許されるなら、僕はずっと貴女の側に居ます。ただ、今夜一晩は僕をそっとしておいて下さい。今は貴女に優しくできる自信がありません。]
それきり新庄の送信は途絶えた。芳香もまた彼に対してかける言葉が見つからず沈黙したまま眠れぬ夜を過ごした。

 新庄の投げつけて来る自虐的な言葉は諸刃の剣となって芳香の心をズタズタに切り裂き、更に新庄自身をも酷く傷つけていた。似た者同士だけにどうすれば最も効果的に相手に心理的なダメージを与えるかはわかり過ぎるほどにわかっていたから、直接相手を攻撃するよりも寧ろ己を蔑み疎んじて自らを貶めることこそが、相手にとっても何よりも激しく深く心の痛みに苛まれる方法だと知っていた。

 新庄のことが好きか嫌いかと言えば好きだが、それは恋人というよりも父や兄のように支えてくれて甘えられ頼れる相手としてであった。
側に居て安心できて安らげる、裸の心でその懐に飛び込める大きくて温かな存在、魂で共鳴し繋がり合える関係だと思っていた。
 新庄があまりにも節度ある紳士的な態度で自らの情念を抑制してきたばかりに、芳香は自らの都合の良いように新庄を利用して来たと言われても仕方がない。
芳香にとって「ソウルメイトは恋人よりも優位な存在である」などと訴えたところで、新庄にそれを理解してもらえるはずもない。
芳香が仮に「体を重ねるよりも心を、心よりも魂で繋がれる方が遥かにかけがえのない存在である」などと言ってみたところで、新庄には詭弁としか思えないだろう。
 芳香と新庄は気持ちがすれ違っていたことに気づき、互いに傷ついた。

 男と女はやはり分かり合えないものなのだ。
女は精神的な繋がりを求め、心と心が通じ合えることを至上と思うけれど、男はそうではない。
決して下心ばかりという訳ではないが、所有欲はある。惚れた相手を『自分の女』として独り占めしたいと思うものなのだろう。
或いは男というものはプライドとメンツを重んじる生き物だけに、惚れた女からも惚れられていると思っていたのが、実際には思い過ごしで独りよがりだったという忸怩たる思いに甚(いた)く自尊心を傷つけられたのかも知れない。

 どちらが悪いのでもなく、間違っているのでもない。
男女の気持ちの違いは芳香と新庄だけの問題ではなく、古今東西ありとあらゆる男女間で多かれ少なかれ起こりうるものなのだ。
世間で言われるように、男は体の浮気が許せないが、女は心の浮気が許せないというのも肯ける。
男というものは女に惚れられたと思うと自分のものとして所有したくなるものなのだろうが、女にとっては、その男に惚れているとまではいかなくても、親切で優しくて頼れる人だと思うだけで甘えて頼り切ってしまい、特に悪気もなく、騙すつもりはなくても男に勘違いさせてしまいかねない。
良い人だとは思うけれど…と女は言う。男はそれを裏切られたと逆恨みしてしまいかねない。

 翌日SNSの着信があり意外なことに新庄からメッセージが届いた。
[正道:昨夜一晩考えました。情けないことに僕はまだ貴女への未練を断ち切ることが出来ないでいます。それはきっと貴女が昨夜謝罪の言葉を繰り返していただけで僕にきちんと自分の正直な気持ちを伝えてくれなかったから、諦めきれないのではないかと思います。やはりこんな気持ちのままで一度は愛した貴女とただの友達に戻ることは難しいと思います。貴女の恋人になれないのなら、いっそ一思いにはっきりと僕を振ってくれなければ、僕は一歩も前に進むことができません。]
芳香は新庄に対して返信しなくてはと思ったが、どんな言葉を選んでも自分の胸の内を正しく伝えられる気がしなくて、どうしても新庄にかける言葉が見つからなかった。
 [芳香:ごめんなさい。何と言っていいのかわからなくて、うまく説明できません。]
[正道:だからもう謝罪は要りません。もう僕を必要としていないのならはっきりと引導を渡して下さい。そうしたら僕は貴女の前から姿を消して二度と現れません。]
[正道:でも、もし貴女がまだ僕を必要としてくれるなら、いつか貴女と約束した通り、ずっと貴女の側に居て、全力で貴女を守ります。]
[正道:貴女は昨夜僕に許しを乞いましたね。今もその気持ちは変わりませんか。]
 [芳香:貴方を傷つけてしまったことは本当に申し訳なく思っています。]
[正道:それなら約束して下さい。他の男と関わるなとは言いませんが、決して僕を裏切らないと誓って下さい。]
芳香は思いもよらない新庄の言葉に絶句した。あまりに衝撃が大きくて、激しく動揺するばかりでどうにも答えが見つからない。
はっきりと振ってくれと言われても、今まで頼り切っていた新庄に別れを告げることは不安だったし、仁美や仲間たちとの繋がりを考えると、もし新庄ともめて別れたとなればこの先素知らぬ顔で付き合うのも、逆に避けて皆に不審がられるのも辛いだろう。そしてあまりにも今まで彼に全てを曝け出して来てしまったために、何もかも知り尽くした新庄が万が一悪意を持って報復に出たらと思うと恐ろしくて仕方なかった。
結局その日もそれきり会話が途切れ、互いに沈黙したまま終わった。

 その後新庄は何事もなかったようにSNSでの会話を再開したが、新庄は以前のように優しい時ばかりではなく、芳香の思い過ごしかも知れないが、まるで芳香を束縛するかのようになったと芳香には思えたし、芳香は再び新庄に激昂されることを恐れてすっかり怯えてしまっていた。

 ショックを受けたのは新庄ばかりではなかった。芳香もまた別の意味で大いにショックを受けていた。
(これでは「あの男」と同じ…。)
芳香が悪縁を断ち切るべく逃げ出して来た相手の男・河西玲児(かさい・れいじ)との関係と何も変わらない。
子供じみた河西との共依存に苦しみ、恐怖と不安だけしかなかった生活からやっと解放されたのに、ずっと相談に乗り精神的に支えてきてくれたはずの新庄ともまた共依存の関係になるなら、相手が変わっただけで何も変わりはしない。芳香は愕然とした。こんなはずではなかった。どうしてこんなことになってしまうのか。自分には男運がない、いや、むしろ男を見る目がないのだ、と芳香は嘆くよりも我が身の愚かさ加減に呆れ果て、嗤うしかなかった。
新庄を頼りに思い、依存していることは自覚していても、まさか新庄もまた芳香に依存しているとは思っていなかったが、冷静に考えて見ればこれもまた明らかな『共依存』に他ならなかった。

 河西と違って現実世界ではなくSNS上ではあるけれども、突然束縛が厳しくなり、返事がないと威嚇するところなど、まるで河西の生霊が取り憑いて、新庄を操っているかのようにさえ思えた。河西のそんな精神的暴力に怒り、芳香を労(いた)わってくれた新庄はどこへ行ってしまったのだろう。
善良な人に悪霊が取り憑いて人格が変わってしまうとか、長い間共に旅をして戦って来た仲間に裏切られ、結局最終局面まで来て信じていた仲間が真の敵であったことがわかるとかいうようなファンタジー小説やロールプレイングゲームのストーリーのようで、俄(にわか)にはそれが現実の出来事であったとは信じられなかった。
これはきっと酷い悪夢を見ているだけなのだ。目を覚ませばそれが夢であることに気づき、いつもの優しい新庄が居て、「こんな夢を見た」と話せば「酷い夢を見たものだね」と笑ってくれるのではないか。そう思いたかったが、これは紛れもない真実だった。もちろん文言だけのやりとりだから真意が伝わりにくいことは否めないが、それを差し引いてもやはり全てが芳香の思い過ごしであるとは思えない。

 溺れる者に縋りつかれたら一緒に溺れてしまうのと同じで、精神世界の泥沼で溺れかけている者に安易に手を差し伸べてはいけない。絶対に引きずり込まれないだけの強さを持つ者か精神医学や心理学を熟知した専門家でなければ救うことなどできない。憐憫の情に絆(ほだ)されて手を伸ばせばそのままもろともに冷たく深く昏(くら)い沼の底へ引きずり込まれてしまう。相互依存は、依存されることによって初めて自らの存在価値を承認されたと思えるほど自己価値が低いために、恐怖と不安で支配されつつも離れることが出来ず、反動で与えられる僅かばかりの優しさに縋るかのように、そこでしか生きることが出来ないと信じ込み、依存してくれる相手が居なくなることを恐れて自らもその相手に依存することで形成される。
 医療関係者ですらうっかり心を病んで深い哀しみに囚われた患者に共感し感情移入するとメランコリーが伝染して心を蝕まれかねない。芳香も経験上それは実感していたし、医師である新庄ですら、まだ経験の浅い若い頃には心を病みかけたこともあったといつか言っていた。強靭な精神を持ち、常に冷静に対応できれば良いのだが、真面目で真摯な性格が災いして、木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になることだって往々にして在り得ることなのだ。
 それは芳香にとっては嫌というほど身に染みてわかっていた。自分もまた弱き者であり、河西に情をかけたばかりに心を病み、危うく廃人になる寸前だった。そこからやっとのことで逃れてここまで来たのだ。腐れ縁を断ち切って、河西の顔も思い出さずに済む平和な生活をやっと手に入れたばかりだというのに。

 それでも涙はとうに枯れてしまっていたし、不安や恐怖もすぐに薄れていく。その時は動揺するとしても、知らず知らずのうちに少しずつ受け流す術を身に付けていたのかもしれない。先のことを思い悩んでもどうにもならない。今この場をどう切り抜けるか、そこに意識を集中しようと思えるようになってきた。
(できるはず。今までやってきたんだもの、きっとできるはず。)
芳香はうまくやれるはずだと自分に言い聞かせた。

 一人で生きる覚悟を決めて、新庄に頼る気持ちも薄らいでいたが、ここへ来て河西を彷彿させるような新庄の態度が芳香に深刻な恐怖を与え、芳香の新庄への気持ちを一気に冷めさせた。新庄もまた過去になりつつある。また河西と同じように怒らせないようにそっと静かに離れていくだけのことだ。

 逃げられたら追いたくなることの裏返し。追われるとますます逃げたくなる。
逃げないことは美徳ではないと、芳香はもう既に知っている。何よりも自分自身を一番に大切にすることだけ考えればいい。そのためには他人を不幸にしたとしても。人生の大半を誰かの犠牲になって過ごして来たのだ。これからは自分が幸せになる番だと決めたのではなかったか。住み慣れた生まれ故郷の街を捨てて、何もかも新しい別の人生を歩み始めようとしているのではなかったか。

 今まで支えて来てくれた新庄が河西と何ら変わらないと知ってしまったことは残念だけれども、言葉は悪いが新庄の役目はもう終わったということなのかもしれない。血の池地獄に垂らされた蜘蛛の糸は芳香を引き上げてくれたが、今やその糸が芳香をがんじがらめに縛ろうとする以上、糸を切って逃れるしかない。恩を仇で返すのかと言われても、折角手に入れた自由を再び手放すことだけは耐えられない。

 雨が上がると照りつける太陽の熱が飽和した大気中の水分を全て蒸気に変えたかと思えるほどに湿度が高くなり、皮膚の表面に滲み出た汗が乾かず全身がじっとりと湿りべとついて堪らなく不快だった。
 湿度が一番の苦手で、一年中で梅雨の時期が一番嫌いだといつか新庄が言っていたことがあった。
まとわりつくような不快感がいつ終わるとも知れないこの時期を好きになれないのは芳香も同じだった。

 年々何に対しても堪(こら)えることができなくなることを人は老化と呼ぶのだろう。それはきっと心に余裕がなくなるからなのだと思う。残された時間はどんどん減って行くことを無意識に怖れているからなのかも知れない。
 時間の流れは歳を重ねれば重ねるほど加速度的に早く感じられる。
子供の頃は早く大人になって勉強から解放されたいとか、いろいろできることが増えて楽しく幸せになれるのだろうとか想像していたが、いざ大人になってみるとただ辛いばかりの毎日ではあるけれども、あっという間に時が過ぎ去る感覚は良きにつけ悪しきにつけ何もかも押し流してしまうという利点があった。
どんな大変なこともいつか終わるし、気づけばすぐに一年くらい経ってしまっているから、些事に拘泥しては居られない。今この瞬間は半永久的に続くかのように思えることでさえ瞬く間に過去へと押し流されて行く。どんなに辛く苦しい日々も過ぎればまるで一夜の悪夢のように記憶の片隅に追いやられ、人生という物語の一部として折り畳まれ積み重ねられてしまう。
 (きっと、寂しかっただけ。一人では恐怖と不安に押し潰されそうになって息ができなくて誰かを必要としただけ。そんな時にたまたま居合わせた彼に頼り切ってしまっただけ。)
芳香はそう思おうとした。
(つづく)
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小説 Fade-out 2 心のフィルター/すれ違う思い

2017-07-01 23:59:01 | 小説
Fade-out 2

§§ 心のフィルター/すれ違う思い §§

 それはとても不思議な感覚だった。
長年暮らした街を離れてからそれほど年月が経ってもないのにまるで初めて訪れた街のようによそよそしく感じられた、あの居宅訪問の時の感覚に似ている気がした。

 その夜芳香は以前の職場の同僚である徳田仁美(とくだ・ひとみ)に誘われて参加した酒席に居た。
元々は核となる仁美の共通の友人を介して派生したグループで、メンバーは医療業界の者が多いがそればかりではなく、社交的で顔の広い仁美が歴代の職場の同僚や個人的な友人知人を誰彼構わずまとめて誘うので、最初は互いに初対面でも何度も顔を合わせているうちにまるで昔からの友達のように感じられるようになっていた。時により出入りはあるが、主催者である徳田仁美(とくだ・ひとみ)の人望の厚さを物語るように、常時最低でも十人前後は参加していて、中でも数人はいつもだいたい同じような面子が揃う。
その夜もいつも通り約十人ほどのメンバーが集い、仁美の行きつけの店で酒を酌み交わしていた。
 その中に「彼」は居た。

 「あははは、やめて、やめてよ。お腹の皮がよじれちゃう。」
「おいおい、今日はまた特別激しいな。」
激しく動き回りながらの滑稽な踊りと調子っぱずれで大音量の可笑しな替歌に皆が大爆笑していた。

 真面目な話をしているかと思えば、急に猥談になり、音痴だと言いながら調子に乗って珍妙な即興の替歌を熱唱しながら独自の振り付けで滑稽な身振り手振りを交えて歌い踊っている「彼」。
 好色漢を演じてはいるが、本当はそんなに遊んでいる訳ではなく、現実の自分が真面目すぎるが故に、できることならそんな男になってみたいという憧れを体現しようとしているだけなのだ。
本当の「彼」はただ人恋しい寂しがり屋で、友達の前では楽しくて面白い奴を演じているだけなのだと、芳香にはわかっていた。
 それは心に深い闇を抱えながらも「カラ元気をフル回転して」陽気な人物を演じていたかつての自分自身を見ているようで、少し切なく思えた。

 「彼」のその姿形はどこも変わらないのに、その声も口調も、親しい人の前ではわざとお道化を演じてみせるところも何一つ変わってはいないのに、その日の芳香には「彼」がまるで見知らぬ他人のように感じられた。
「髪、切っちゃったんだね~。最初誰かわからなくてびっくりしたけど、すごく似合ってるし、ショートの方が元気そうで雰囲気が明るくなって良いよ。」
と仁美が微笑んで言った。
(寧ろ、変わったのは私の方…か…。)
胸まであった長い髪をショートヘアにして別人のように見えるのは寧ろ自分自身の方であったことに、芳香はその時やっと気づいた。

 それと同時に、変わったのは髪型だけではないことにもまた芳香は気づかされたのである。
「覚悟」と言うとあまりに大袈裟だが、「決意」というと物足りない気もする。

 この先の人生を自分一人で生きて行こうと決めた時、過去の弱い自分とは違う新しい自分に生まれ変わるための儀式のようなものとして、芳香は長い黒髪を切った。
女が失恋した時髪を切りたくなるのは、髪に思いが残るからだといつかどこかで聞いたことがある。
体内に摂取された重金属等の毒素も髪に蓄積するように、過去の不幸までが髪に染み着いて重く垂れ下がり、身も心も地獄の底まで引きずり下ろそうとしているかのような気がして、髪を切れば身も心も軽やかになり、新しい自分に生まれ変われるように思えた。

 世の中の全て、眼に映る全てのものは自分の心というフィルターを通して見ているという当たり前のことに、今更ながらに芳香は気づかされた。
変わったのは「彼」ではない。彼を見る芳香の心が変わったのだ。

 ほんの少し前まで、「彼」、新庄正道(しんじょう・まさみち)は芳香の心の支えだった。今になって思えば、完全に依存していたと言っても良いかも知れない。
新庄は公立病院に勤務している麻酔科医師である。医師と言っても開業医とは違い、勤務医は忙しいばかりでそれほど高給でもなく、開業医でさえ週に1、2回は代診の医師に医院を任せて別の医療機関にアルバイトに行くことは決して珍しくはないから、勤務医であればむしろ時間さえ許せばアルバイトをする方が自然と言っても良く、かつてのアルバイト先である地域の中小病院で医事課に勤務していた仁美と知り合ったようだ。奇しくもその中小病院には芳香もまたかつて勤めていたことがあり、共通の話題があったことから会話を交わすうちに、互いの趣味や性格が似通っていることから親密になったのだった。

 それぞれに他の友達は居るし、友達と一緒に居る時はそれなりに楽しいけれど、友達にはべったりと依存したくはないし、皆の前ではお道化て見せて明るく愉しい人物を演じては居ても、本当の自分の心の闇を決して見せることはない。時には皆と一緒に居るのに、独りで居るよりももっと寂しく感じる時さえあった。そんなところが自分と同じだとお互いに感じていた。と、彼の心情はいざ知らず、少なくとも芳香はそう思っていた。
 二人きりで居る時には互いの心の闇が共鳴して、傷を舐め合うような切ない心地良さを感じた。
父を早く亡くし、男兄弟も居ない芳香にとって新庄は、父代わりであり兄代わりのような、大きくて暖かくて頼もしい存在だった。
 それと同時に、人前ではお道化て見せながらも心の底に闇を抱えている新庄は芳香にとって同類だという共感を与えた。
誰にも言えないことが、新庄にだけは言えた。本来なら彼に相談すべきではないような話でも新庄は何でも聴いてくれた。忙しい仕事の合間にもSNSを通じて芳香を見守り、励まし、気遣ってもくれた。
 時には新庄の言葉が辛いこともあったが、それも思いやり故の厳しさだとわかっていた。どうでもいい相手には、厳しい言葉などかけはしない。その場かぎりの優しげな言葉でごまかしてしまえば済むことだ。耳に痛い言葉も芳香を思えばこそだと有り難かった。
 そしていつしか芳香は新庄に依存していたのだった。
芳香自身の気持ちが兄妹のような友愛なのか、男女としての恋愛感情なのか定かではないまま、そして新庄の真意もまた同様に不確かなまま、彼の温情に甘え続けて来た。

 
 端末の通知音が鳴り、SNSの着信を告げた。
[正道:こんばんは。月が綺麗ですね。]
その言葉が単に文字通りの明るい満月を愛でる気持ちを表現したものなのか、それとも以前二人が『文豪が英語の「I love you 」を「月が綺麗ですね。」と翻訳した』という話で盛り上がったことがあったので、そんな気持ちを込めて二重の意味で言ったのかはディスプレイに並んだ文字からは判然としなかった。
 [芳香:こんばんは。今夜は満月ですね。]
芳香の返信もまた、正道の意図に気づかないのか、或いはわかっていて気づかないふりをしているのかわからない言葉を送った。
そんな二人だけの秘密の世界のようなやりとりを楽しんでいたつもりでいたのは芳香だけの妄想だったのか、それとも新庄もまた芳香と同じように思っていたのか、それはわからない。
それでも良かった。
新庄とは魂で繋がっているソウルメイトであると芳香は信じたかったし、実際その時はそう信じていた。

 それがディスプレイに並んだ文字の形であったとしても、他愛ない天気の話や日常の些細な出来事の話だけでも、SNSで新庄と言葉を交わすだけで良かった。直接姿を見ることも体に触れることもなくても、同じ夜空の下で同じ月を見上げ、心と心で繋がっている。そう信じていた。
それが手前勝手な思い込みに過ぎないとしても、「おはよう」とか「おやすみなさい」の一言だけでも毎日言葉を交わすことで、新庄に支えられていると感じることが出来た。

 だから今までは直接会う機会を得たら、物理的に離れていた時間と距離を埋めるように積極的に眼を見つめて声を聴いて会話をしたかったし、別れ際には握手して掌の温もりを感じたりしたかった。もしかしたらそれは芳香にとって新庄が自分の妄想の産物ではなく、確かに生きて目の前に存在する人間であることを五感で感じ取りたかったのかも知れない。

 だが、今回は違った。
何故だかはわからないが、いつもなら周囲から一人浮き出ているかのように真っ先に眼に飛び込んで来たのに、もう少しでそこに新庄が存在することにすら気づけなかったかも知れない。芳香は定刻ギリギリに会場に到着したので、殆ど新庄の側に近づいたり直接会話したりする機会もなかったが、宴も終わりに近づいた頃になって皆がそれぞれ話したい相手の近くへと席を移動し始めて偶然芳香の向かいの席が空き、席を交代してそこにやって来た新庄とやっと向かい合って座った短い間も、店の外に出てから次の店へ移動する間に並んで歩いた時も、その姿は確かに記憶の中にある彼に違いないのだが、目の前に居る新庄はまるで知らない誰かのように遠く感じられた。

 その不思議な感覚を言葉で表現することはとても難しい。
不適切な例えかも知れないが、精神を病んだ人が脳内に鮮明に浮かんで来た景色を表現しようとしても難しいように、或いは薬物等で幻覚を見た人がその光景を表現しようとしても難しいように、感覚器の病での他人とは違う物の見え方や聞こえ方をする人がその感覚を表現することが難しいように、芳香にはその時の何とも言えない違和感をうまく言葉にすることはできなかった。

 一番近いと思えたのが、かつて暮らした街を訪れた時に感じるよそよそしさだった。
毎日のように通った道や、利用していた店、その街並みの外見は何一つ変わらないし、そこで暮らす住民も何一つ変わることなく生活していて、ただそこに自分だけが居ない。
長年その街で暮らしてきて、離れてからまだ数ヶ月しか経たないのに、まるで初めて訪れた街を見るような感覚。映像でしか見たことのない遠く離れた何処か知らない街と同じようにしか感じられない。
彼に対するその時の感覚は、まさにその「自分だけが消えた街」という感覚が一番近いと思った。
何も変わらないはずなのに、自分の心が離れると、その印象ががらりと変わってしまう。

 その日新庄と会った時の何とも言えない違和感が、かつて経験したことのある感覚、即ち以前暮らしていた街を訪ねることになった時の感覚に似ていたということは即ち自分自身の心のフィルターが変化したということに他ならない。
新庄は何も変わっていないのだから、変わったのは芳香の心の方だとしか思えない。
一人で生きて行くと決めたら、新庄に依存する気持ちも薄れたのだろう。
それは極めて自然に無自覚のうちに芳香の心に浸透していた変化だった。

 望むと望まざるにかかわらず、人は変わって行くものなのだ。
殻を破って脱皮すればもう元の殻へは戻れない。
捨て去った過去に対する一抹の寂寥感と未知の世界への不安感を抱きつつも、振り返らずに先へ進むしかない。

 名残は尽きないが、皆それぞれに帰るべき家庭があり、医療・看護・介護関係のメンバーが多く、全員が明日休日という訳でもない。
二次会では帰りを急ぐ者から先に席を立つことが暗黙のルールだった。
 いつもなら自宅が一番遠い新庄が席を立つ時に、僅かな時間でも側に居たくて、少しでも言葉を交わしたくて、何かと理由をつけて一緒に席を立ったものだったが、何故かその時は皆と一緒に彼を見送ることに何の違和感もなかった。
それは今の芳香にとって新庄だけが特別な存在ではなく、皆と同じ仲間の一人としか感じられなかったからだろう。
 後になって思えば、ふといつもとは違う自分の感覚に気づいてはいたが、彼の去り際にも全く動く気にならなかった自分に、芳香は少し驚き、同時にほんの少しだけ寂しさを覚えたが、それはほんの一瞬で薄れて行った。

 逃げれば追いたくなるのは人の常である。
芳香は逃げたつもりではなくても、新庄もまた芳香の違和感を肌で感じ取ったのだろう。芳香の心が自分から離れていきつつあるような気配に気づいて少し不安になったのかもしれない。
今まではSNSでの何気ない会話の中ではいつも新庄の意味ありげな言葉で会話が終わると、それが実際にはたまたま疲労のあまりただ寝落ちしただけのことであったとしても、元来ペシミスト(悲観論者)で心配性の芳香がつい必要以上に深読み裏読みしてしまうために彼の真意を測りかねて不安になったものだが、今は寧ろこれまで縋(すが)るような言葉を返して来た芳香の返信が何となく素っ気なく感じられて新庄の方が不安になったのかもしれない。

 追われる者から追う者へと、彼の立場が反転したことを新庄が自覚しているのかどうかは定かではないが、熱烈な求愛の言葉こそないものの、今までの彼の余裕綽々といった態度は感じられず、言葉の端々に抑えきれない芳香への想いが零れ出て来るのは、一種の焦りにも思えた。
 芳香は新庄の変化を少しだけ寂しく感じながら、最初は当たり障りのない言葉で返していたが、新庄の言葉が熱を帯びて来るようになると、より一層彼を傷つけまいと慎重に言葉を選ぶようになった。
期待させてはいけないけれど、傷つけたくはない。
 我ながら甘いと芳香は思った。
傷つけないなんて不可能なことだと芳香も頭では理解していた。
今までにも何度か新庄との決別を考えたことがあって、その度にもしも本当に別れる時が来たら、お互いに無傷ではいられまいと思っていたはずなのに、何で今になって自分一人格好をつけようとしているのかと芳香は自らを責めた。
それでもなお芳香はできることなら新庄を傷つけたくないと思っていた。
決して嫌いになった訳ではないし、今までずっと支え続けて来てくれたことには言葉では言い尽くせないほど感謝してもいた。
いつしか芳香の気持ちが少しずつ新庄から離れつつあることに気づき、その理由を問われたとしても、芳香にはそれをうまく説明することはできなかったし、これまでのようにべったりと依存するのではなく、少し引いて親しい友人の一人としてなら、これからもずっと付き合っていけると信じていただけに、正直なところ芳香は戸惑っていた。

 芳香は自分自身に冷たいところがあることは自覚していた。
人間として大切な何かが欠落している気がした。
そして以前そのことを自虐的に新庄に話した時、新庄は
「それは貴女だけに限ったことではありませんよ。僕だって自分には人間として大切な何かが欠落していると思っています。でもそれはね、逆に言うと他人(ひと)を思いやればこその、自分の至らなさに対しての忸怩たる思いの裏返しです。他人の痛みや苦しみに気づくこともなければ気に留めることも気にかけることもないでしょう。わかっているが故にそれに対して反応の薄い自分、何もできない自分を恥じて『情が薄い』と感じてしまうのですから。」
と言ってくれたことがあった。

 人前ではお道化て明るく振る舞う新庄の姿はまるで鏡に映った芳香自身の姿を見ているように思えたものだった。
芳香は彼とは魂が共鳴するような関係だと信じていた。
いろいろな不都合は皆単にこの人間社会の柵(しがらみ)に囚われているせいであり、それぞれの背負うものを取り払った魂だけの存在になれば、彼と二人だけしかいない世界であれば、彼とは繋がれる、一つになれると思っていた。
 「生まれる前の世界で男と女は背中合わせに合体した姿の一つの魂であって、背中を切り離されてこの世に生まれて来て、前世は互いに背中合わせだったためにこの世では顔も知らない同士だけれど、魂は失った自らの半身であるソウルメイトを探し求めるのだ」と、いつか聞いたことがあって、きっと芳香にとっての魂の半身、ソウルメイトは新庄なのだと信じていた。
しかし、そんな思いすらも今はどことなく遠く幽かに感じ始めていた。

 二人には未来はない。今という時だけがあり、たまたまそれが続いて来ただけであって、いつ終わりが来るかはわからない。それでも良いと割り切っていた。
「恋の終わりはいつも悲しいものだね」という昔見たミュージカルの歌詞が脳内を過(よぎ)る。ほんの少しだけ寂しくて哀しくて切なくて、でもそれもいつか過ぎ去ってしまうものだと芳香にはわかっていた。J-popの歌詞のように「思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹が空く」。胸を刺す痛みもいつか遠い記憶の中に埋もれてしまうものなのだと。
芳香は生きねばならない。日々生活していかねばならない。世知辛いこの世の中を独りで生き抜いていかねばならない。感傷に浸っている余裕などありはしないのだ。
(つづく)
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