打撃理論を始めたら、「やめられない、止まらない」で「かっぱえびせん」の異名まで取った山内一弘さんの指導には、賛否両論ある。それは、門下生として結果を出したのが俺ぐらいしかいないからだ。失敗例といったら失礼かもしれないけど、1995年に山内さんが阪神のコーチを務めた際には、劇的な飛躍を期待された新庄剛志や亀山努も、かえって成績が悪くなった。
確かに山内さんの言うことは難しいんだ。最初に「おいヨシヒコ、ボールには打つ場所が何か所あると思う?」と聞かれたときには面食らった。俺はそんなことを考えたこともなかったから「1点ですか?」って自信なさげに答えると、山内さんはこう言った。「ボールの内側、外側、上、下、真ん中の5か所だ」。しかも、その5か所を打ち分けられるようになれって言うんだから驚いた。
もちろん最初から、そんなことをできるわけじゃない。イメージとしては理解できていたけど、満足に打球を前に飛ばすことさえできなかった。それでも山内さんは「それでいい。打撃ゲージから出なくてもいい」って言うんだ。
今になって思うと、ここが運命の分かれ道だった。「何をさせたいのかさっぱりわからん」と諦めていたら、そこで終わっていた。でも、俺は諦めなかった。山内さんの言うことを信じて、来る日もボールの内、外、上、下、真ん中を意識して打撃練習を続けた。すると不思議なもんで、ボールの5か所を打ち分ける感覚っていうのが体に染み込んできたんだ。
これは「俺だからできた」わけじゃない。続けたからこそ、できるようになったんだ。たとえて言うならはしと一緒なんだよね。日本人は当たり前のように使っているけど、誰もが最初から使いこなせるわけじゃない。
朝、昼、晩と3度の食事で使っているうちに、こぼさず食べられるようになったり、米粒のような小さなものでも挟めるようになるわけでしょ。大事なのは、繰り返し続けることなんだ。
俺の取りえなんて足が速いことぐらいで、才能らしいものは一つもなかった。唯一、人より優れていたのは練習を続けても「飽きない」こと。謙遜でもなんでもなく、俺がプロ18年間も選手として食っていけたのは、そのおかげだったんだ。
山内さんの指導で、飛距離を伸ばすための筋力アップを細部に及んだ。手首だったり、腕のインナーマッスルだったり、必要なパーツを全て鍛えて、その結果として飛距離を出すという手法を取った。
オープン戦でもすぐに結果は出なくて、初本塁打を打ったのは3月20日に下関で行われた大洋戦の第1打席。でも、山内道場に入門してから2か月足らずで゛つかんだ゛んだから早い方だったのかな。もちろん練習量もハンパじゃなかったよ。スイッチヒッターに転向した時と一緒で、短時間のうちに新たな技術を体に染み込ませようとしたんだから。
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