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小林 康夫『建築のポエティクス』

2006-12-31 22:57:26 | 読書
 ポイエーシスに関わるあらゆる行為は始原の「生産」であり、人間に根源的空間を与えるもの、つまり「建築的なもの」といえるだろう。

 設計図や建築家自身の思想よりも、「実際の建築のなかにみずからの身体を置き、そこから出発して」考え、「そこで営まれる生活、住みつきの現象、社会的なものの侵入、身体的な感覚性、詩的なダイナミズムといったさまざまな要素、とりわけ時間のなかでの変容のファクター」に眼差しを向ける。こうして「絶えず生成する空間組織」として現れた個々の建築に触発された身体が織りなす思考のプロセスがそのまま言葉となる。

 ちなみに著者の身体はわけても光に強く感応するようだ。安藤忠雄の「光の教会」を最初に訪ね、最初の章に置いたことは理由のないことではない。「光のオペラ」(「オペラ」とは「作品」の謂いであり、小林康夫には同名の著書がある)としての建築。「光の井戸」たるロンシャンの教会堂に三日続けて通い続けた著者は、この建築を「レフェランス」と呼び、「約束の場所」と呼ぶ。それは建築内部に横溢する光がもたらした圧倒的な経験によるものであろう。(「光の教会」の安藤忠雄その人もまた、著者が訪問した 30年ほど前にロンシャンの教会堂の光に圧倒された人だったと記憶している。)このロンシャンの教会堂から「闇の井戸」であるユダヤ博物館にかけての三章が全体のクライマックスとして布置される。

 著者が建築をどのようなものとして捉えているのか、序論「建築のポイエーシス」から引用する。

 建築とは ― 言語と並んで ― 人間的な世界のすべて、文化というあり方をする世界のすべてであると言うことすらできるかもしれない。つまり建築は人間の文化の根底にかかわっている。それどころか、みずからの根底や基盤を問い、そこから出発してそれまで存在しなかったひとつの世界を打ち立てるという意味において、建築は本質的に根底的であると言うべきかもしれない。

 建築とはある根源的な空間を人間にもたらすものだと言い換えてもいいだろうか。アリストテレスも『形而上学』で言っているように、建築(architecture)とは、ひとつの起源(アルケー)を作り出す技術であり、建築というポイエーシスを通じて、人間は世界の根源的空間を基礎づけ、時間の根源的な次元に参入する。それゆえ、たとえばリベスキンドの建築に顕著にあらわれているように、建築は人に過去と未来にかかわる歴史的存在としての輪郭を与えもするだろう。

 だからこそ著者の関心は、建築の起源にではなく、むしろそれ自体に「投影されたみずからの起源の光景そのもの」としての建築へと向かう。「起源の光景」とは、「未来という来たるべき時間の分有を搬」ぶ方舟(arche)であり、「大地に向かう重力とそれから離反する反-重力の緊張の軸」のなかにみずからの場を持つだけでなく、「『いま、ここ』と『いまではなく、ここではない』とのあいだの関係への問いを空間化」する塔であり、「生と死、内部と外部を分かつ分割・分有の線に触れさせ」る墓である。ただし、「船―塔―墓として、どれほど閉ざされた空間」に造形されていようと、一方でそれは、「いま・ここ」と「いまではなく・ここではない」何かを遭遇させながら、世界を人間の行為や実在に向かって開示しており、それゆえ「他者とともにある」ことを感受させ、「公共的な開けのひとつの可能性を開示」する広場としての光景でもある。

 このような自らの起源の光景を表象する建築として、ここで取り上げられるのは、

 安藤忠雄「光の教会」
 ピーター・アイゼンマン「布谷東京ビル」
 槇文彦「TEPIA」
 マリオ・ベリーニ「東京デザインセンター」
 荒川修作「養老天命反転地」
 内藤廣「海の博物館」
 鈴木了二「佐木島プロジェクト」
 ジュゼッペ・テラーニ「カサ・デル・ファッショ」ほか
 ル・コルビュジエ「ロンシャンの教会堂」
 ル・コルビュジエ「ラ・トゥーレット修道院」
 ダニエル・リベスキンド「ユダヤ博物館」
 ジャン・ヌーヴェル「カルチエ財団ビル」
 田窪恭治「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクト」

といった十三の建築(とその建設現場)であり、本書にはそれらの訪問記に加えて、リベスキンドやヌーヴェルとの対談が収められている。

        2003/03/30

 小林 康夫『建築のポエティクス』 (彰国社:1997.5)







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