Mey yeux sont pleins de nuits...

読書、映像・音楽の鑑賞の記録など

スティーヴン・スピルバーグ『ターミナル』

2009-06-23 23:34:04 | 映画
『ターミナル』THE TERMINAL
 (アメリカ・2004・129min.)

 監督:スティーヴン・スピルバーグ
 製作:ローリー・マクドナルド、ウォルター・F・パークス、スティーヴン・スピルバーグ
 製作総指揮:ジェイソン・ホッフス、アンドリュー・ニコル、パトリシア・ウィッチャー
 原案:アンドリュー・ニコル、サーシャ・ガヴァシ
 脚本:サーシャ・ガヴァシ、ジェフ・ナサンソン
 撮影:ヤヌス・カミンスキー
 プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル
 衣装デザイン:メアリー・ゾフレス、クリスティーン・ワダ
 音楽:ジョン・ウィリアムズ

 出演:トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、
     スタンリー・トゥッチ、シャイ・マクブライド、
     ディエゴ・ルナ、バリー・シャバカ・ヘンリー、
     ゾーイ・サルダナ、クマール・パラーナ 他

 スピルバーグは、かつてのアメリカ合衆国という国の「良心」をあからさまに体現するような人情喜劇など撮りたくても今日ではもはや不可能になったと考えながら、今日における人情喜劇を作ろうとしたのかもしれない。確かにかつてキャプラなどが描いた世界を再現するかのように進行し、主人公が最後に目的を達成するというハッピー・エンディングにもって行きながら、すべてが「幸福」のうちには終わらないというほろ苦さを残している。
 それにしても、空港とは確かに待つための空間だった。さまざまな手続きを待つ。離陸を待つ。誰かが帰ってくるのを待つ。それとともに奇妙な空間でもある。空港という場所での経験について、多木浩二は「孤独の極みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる」と述べているが、この映画の主人公もこのすべてを経験する。さらにまた多木浩二によれば、空港は常に、完全に国家に属しているわけではないが、「どこにも属していないように見えて、その実こうした自由を無化する空間」、つまり監視する権力の管理下に置かれている空間であると述べている。そして、この映画もそのような空間を舞台としている。
 (確か国家安全保障省に属する)空港警備局のディクソン監督官は主人公に「君は法の隙間に落ち込んだのだ」と語る。この映画は空港というある種「法」の真空地帯であるとともに、権力の監視下にある空間において繰り広げられる遵法と違法をめぐる駆け引きの物語であり、「法」の前で待ち続けるという主題がどこかしらカフカの有名な掌編を思い起こさせる。

 前半と後半にちょうど合わせ鏡のように主人公を中心としたズーム・オフがある。
 前者は母国で起きた政変が原因で、入国ビザが無効になった主人公が自分の身に起こったことが呑み込めず、右往左往するうちに空港内のテレビのニュースから事態を察し、途方にくれる場面。定石通りといえばその通りなのだけれど、そこに至るカット割も含めて焦燥感から、言葉のハンデからくる疎外感とともに先が見えない絶望的な状況に途方にくれるに至る心理を的確に表出している。
 後者は主人公がはじめて空港の外に出たところで、晴れやかな表情を捉えていたカメラがクレーンの動きとともに引いていくと、空港のガラスの壁面にビル群が映し出される。今、彼がどのような景色を見ながら喜びを噛みしめているのかをワン・ショットで知らしめるとともに、それまでの密室劇から一気に開放感を感じさせられたシーンだった。
 そういえば、この映画ではガラスに映る像によるさまざまな工夫もなされていた。ユーモラスな主人公のスーツ選びもさることながら、前半、はじめて主人公が空港のガラスの扉の前に立ったとき、ガラス越しに捉えられた彼の額には”No Entry”という文字が映っていた。
 ストーリーを組み立てる重要な小道具である主人公のピーナッツ缶は冒頭からそれとなく強調しつつ、他の人物たちの台詞によって注意を促し、やがてその謎が解き明かされる流れといい、主人公が次第に周囲の人間と関係を築くにつれて、寒色のトーンから暖色のトーンに変わっていくライティングといい、比較的丁寧に作られたウェルメイドな映画だと感じる。(そのように感じるのは、この映画に先立って、さまざまな技巧がストーリーを語ることに何ら効率性をもたらさぬ、いわば技巧が自己目的化したような映画を立て続けに見てしまったからかも知れない。)

 ともあれ主人公はJ・F・ケネディ空港で足止めをくらう。彼はあくまでも合法的に目的のニューヨークに出られるようになる時を待つ。空港の中の空間は法的にどこの国でもない。そこにはインド人の清掃員に見られるように非-場所=訴追免除の含意もあるだろう。厄介な事態から逃れたがっている空港の監督官は、主人公が、自ら責任を負わねばならない圏域から消えることを望む。そこで故意に違法行為が可能な状況を作り出したり、あるいは法の網の目を潜り抜ける方法を示唆したりするが、それでも主人公は待つことを選ぶ。彼が親しく関わる空港の中で働く人々が何かしら違法行為を犯しているのと対照的に、苦境にあってもあくまでも合法的に、知恵とユーモアで切り抜けていくことで、次第に人々の共感を集めることになる。
 だが「人間的な」裁量より「規則」の適用を優先させてきた監督官は、やがて嫉妬という「人間的な」理由から主人公が合法的にニューヨークに出られるようになったにも関わらず、一転して空港の外に出ることを阻む。その妨害は空港内の人々の「違法行為」と部下の「命令違反」が契機となって、主人公自身によって打ち破られる。それはまた、マジョリティの命令によってマイノリティがマイノリティを抑圧するという構図がマイノリティの反抗によって打ち破られる物語であるとも見なしうる。そして、この主人公は、カフカの短編の旅人のように、本来、自らのために開かれていた法の門前でひたすら待ち続けて挙句に死んでいくということはない。

 にもかかわらず、はじめに書いたようにこの映画はかすかに苦みを感じさせる。古典的な人情喜劇を作るつもりなら、吹き上がる噴水が主人公の客室乗務員への恋の成就を祝福したことだろう。しかし、これはあからさまなヒューマニズムを謳歌する喜劇が成立するとは思えない現代を舞台とした映画だった。最後に監督官のデスクの引き出しに並んでいる薬の容器が、主人公が周囲の人々の敬愛を勝ち得る契機となった「ヤギの薬」(のように見えたのだが、)もしそうだとしたら、その意図は徹底していると言わなくてはならない。主人公は二度、「家に帰る」と呟く。一度目はその監督官のオフィスで、二度目は所期の目的を達したあとのタクシーの中でだが、その二度目の呟きにしても、だからこそ単に達成感と満足だけにとどまらぬ陰影が感じられる。
 ピーナッツ缶とならぶ映画のもうひとつの鍵はサイン(署名)だった。それは主人公がニューヨークを訪れる理由であり、空港監督官による主人公への嫌がらせにおいても意味を持つ。エンド・クレジットは確かにそれにふさわしいものだった。

 スティーヴン・スピルバーグという監督の映画の時間感覚と私自身の時間感覚の間にはどうもズレがあるようで、いつももう少し短くまとめられないかと思ってしまう。この映画もそうした一本ではあったのだが、上にも書いたようにいろいろな意味で興味深く見ることのできた映画でもあった。

 


 



最新の画像もっと見る

post a comment