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リドリー・スコット『ブレードランナー ファイナル・カット』

2008-09-27 23:53:16 | 映画

『ブレードランナー ファイナル・カット』BLADE RUNNER: THE FINAL CUT
 (アメリカ・1982-2007・117min.)

 監督:リドリー・スコット
 製作:マイケル・ディーリー
 製作総指揮:ハンプトン・ファンチャー、ブライアン・ケリー
 原作:フィリップ・K・ディック
 脚本:ハンプトン・ファンチャー、デイヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
 撮影:ジョーダン・クローネンウェス
 特撮:ダグラス・トランブル
 デザイン:シド・ミード
 音楽:ヴァンゲリス

 出演:ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤング、
     エドワード・ジェームズ・オルモス、ダリル・ハンナ、
     ブライオン・ジェームズ、ジョアンナ・キャシディ、
     M・エメット・ウォルシュ、ウィリアム・サンダーソン、
     ジョセフ・ターケル他


 映画『ブレードランナー』は、自分がどこからやって来たのか、そしていつまで生きていられるのかという問いの答えを求めて、「創造主」に会いにいくレプリカントたちを描いているが、同時に記憶とイメージとアイデンティティの連関をめぐる問いを誘発せずにはおかない映画でもある。ただし、監督リドリー・スコットの野心は案外視覚効果面での完成度をいかに高めるかにあったと思われ、この映画の主題ももともとは『デュエリスト』や『エイリアン』に連なる、立場が反転する追う者と追われる者という構図として捉えていたのではないかと感じる。最初に挙げた問いは、むしろ、のちにクリス・マルケルの『ラ・ジュテ』リメイクに関わることになるデイヴィッド・ウェッブ・ピープルズの主題だったのではなかろうか。

 デッカードが人間であろうと、レプリカントであろうとアイデンティティをめぐる問いは成立する。レプリカントたちは自らの「人間」としてのアイデンティティに決定的な疑念を抱いたとき、人間に反抗(=逃亡)する。仮にデッカードが人間か、レプリカントかが曖昧であったとしても、レプリカントであるレイチェルが抱く自己のアイデンティティへの不安や脱走したレプリカントたちのアイデンティティの探求に照らし返されることで、デッカードも自らのアイデンティティが深刻な危機に晒された、と考えうる。そしてたとえ、それが彼をいつも監視しているガフに非公式に認可されたものであったとしても、反抗するレプリカント(レイチェル)とともに逃走することによって、実は「人間」であったかも知れないデッカードが「レプリカント」として人間に反抗したと見なすこともできる。それはそれで興味深いものと感じる。デッカードがレプリカントであることをより明確に示そうとする劇場公開版以降のリドリー・スコットによる改変作業は、この問いを単純化しつつ、彼の関心の中心がこうしたアイデンティティをめぐる問いとは別のものにあったことを知らしめているように感じる。

 さて、レプリカントたちは写真というものに固執する。彼らの「人間」としてアイデンティティは私たち同様記憶を拠り所とし、その記憶の蓋然性を保証するものが写真であったと見える。しかし、このことは私たちが自らのアイデンティティを証明する上で、常に何らかの形で外部の他者を必要とし、また場合によっては、証明にあたって写真やモノを媒介とすることのアナロジーだろう。

 しかし、写真は常に、そのフレームの中に収められたものと収められなかったもの、フィルムに写し取られたものと写し取られなかったもののあわいに私たちが想像力を働かせる余地を残している。写真は記憶の蓋然性を保証するだけでなく、新たな記憶を培養する温床ともなりうる。こうした写真の二面性が、レプリカントたちに与えられた贋の記憶を担保する媒体としての写真という設定に反映されていると感じる。

 ところで物質的な記録としての写真は、それを記憶の便としていた個体が滅んでも残りうる。しかし記憶そのものはそれを想起し物語る個体が消滅すると同時に消え去る。ちょうど「涙のように、この雨のように」。想起され、物語られた記憶の記録は過去の完璧な再現とはなりえない。物的証拠もまた過去そのものではない。だからこそ個体が有した記憶は誰のものでもない唯一無二のであり、アイデンティティの拠り所ともなりうる。記録ではなく、この記憶のかけがえのなさに思い至ったとき、レプリカント(ロイ)は唯一無二の「人」となる。

 最後にリドリー・スコットのこだわりの部分にも触れておこう。劇場公開時に見逃したこの「ファイナル・カット」というヴァージョンを今回ブルーレイ・ディスクで視聴した。フィルムの質感を残しつつ、深く沈み込む闇の中に浮かび上がる巨大な建造物群は圧巻だった。それはダグラス・トランブルとシド・ミードの仕事の見事さともいえる。また多様な言語のざわめきが織りなす年の喧騒から主要人物たちのセリフが浮かび上がるさまも新鮮だった。だが、タイレル社の放つ青い光のひとつひとつを滲ませずに描き出す高精細な画面は、一方でJ・F・セバスチャンの住むビルを捉えたカットがそうであるように、セットの部分とペイントによる合成の部分の相違もありありと分からせてしまう。そうした点をカバーするためだろうか、この映画では焦点深度の浅いレンズが多用されていたことに気づかされた。





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