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多木浩二『都市の政治学』

2007-01-30 21:34:58 | 読書
 グローバル化の進展する現代における新たな人間学の視座を見出すための試論。ここで筆者が選び取ったキーワードは表題にもある「都市」ということになる。
 では、「都市」とは何か。
 もともと都市は「十九世紀のネーション・ステートの首都として成立した大都市に由来する『都市』概念を、普遍化したもの」だが、現代の都市はこうした近代に起源する概念では把握できないと考える筆者はあらたに、現代の都市を「集合状態にある人間が作りだす、完全にはダイアグラム化不可能な複雑な接触の構図として存在するもの」であり、「人間的な関係、権力、ずっとあとになると資本といってもいい力など、超個人的な力が組み合わせを変えながら、言説を介して作用する場」である、と定義し直す。
 その上で、筆者は郊外ニュータウン、コンビニエンス・ストア、イヴェントとテーマ・パーク、デザイン、「都市」を成立させる条件としてのインフラストラクチュアといったものの観察を通じて、「都市」の、「欲望をすみかとして人間が夢と覚醒のあいだの日々を送る場所」としての現在を素描していく。そこで描かれていくものを具体的に挙げるならば、それは資本主義の成立とその文化の広がりによって変化していった人間の関係性や消費のモードであり、ユートピアを構想しえなくなった現代の群集の集団的な夢想の行方であり、安全と自由のパラドックスであり、これらを通じてフィクショナルな物語を消費しながら変貌していく「都市」とその変貌の基底にある欲望や力の「ゲーム」のありようをあぶりだしていく。
 では、この「都市」に作用する力はどのようなものか。たとえばオスマンのパリ改造のように近代の都市はそれを行使する主体を想定することは可能だった。だが、人間の集合のスケールが拡大し、テクノロジーやメディアが高度に発達した現代の「都市」には非人称的で抽象的な力がネットワーク状に張りめぐらせられる。筆者はこの主体の見えない過剰な力を、たとえば資本とも呼ばれるものも含めて、ゼロの権力と呼ぶ。こうした力はローカルなものをグローバルな網の目に組み込んでいく。「都市」は今や空港というゼロの空間を媒介にして、ネーション・ステートの境界を超えて他の「都市」と結びつけられる。
 多木浩二という人は、ベンヤミン同様、ある時代の物質的な文化の中に、その時代を生きる人間の欲望や感情や思考といったものが刻印されると考える。したがって「都市」を構成する様々な「もの」を観察し、その底流に網状にはりめぐらされた諸力の関係を問うことは、同時に人間とその世界を認識することを意味する。ゆえに「都市」は変貌する現代を生きる人間を考察する有益なツールとなりうる。それが「都市」を論ずる筆者の意図するところとなる。
 「あとがき」を見ると、内田隆三、大澤真幸、吉見俊哉の三人の名前を挙げて謝辞が記されている。この三人のその後の著作を読むと、そこかしこにこの本と響きあうものを容易に読み取ることもできる。そのことからもここでの筆者の試みの成否については推察されるだろう。

2007.2.4 修正

多木浩二『都市の政治学』(岩波新書・1994.12)


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