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スティーヴン・フリアーズ『クィーン』

2008-03-03 23:54:48 | 映画


『クィーン』THE QUEEN
 (イギリス/フランス/イタリア・2006・104min.)

 監督:スティーヴン・フリアーズ
 製作:A・ハリース、C・ランガン、T・シーウォード
 製作総指揮:F・イヴェルネル、C・マクラッケン、S・ルーディン
 脚本:ピーター・モーガン
 撮影:アフォンソ・ビアト
 美術:アラン・マクドナルド
 衣装:コンソラータ・ボイル
 編集:ルチア・ズケッティ
 音楽:アレクサンドル・デプラ

 出演:ヘレン・ミレン、マイケル・シーン、
     ジェームズ・クロムウェル、シルヴィア・シムズ、
     アレックス・ジェニングス、ロジャー・アラム 他


 ダイアナ元皇太子妃の死亡事故当時、マスメディアが競って流した(あるいは流そうとした)事故の模様とその現場に残された大破した車、そして遺体、あるいは王室と元皇太子妃の確執といったものをこの映画は直接画面の中に映し出そうとはしない。スティーヴン・フリアーズは、あからさまであることをその本質としているかのような現代のマス・メディア(映画も含む)とは一線を画す姿勢によって、ともすれば、そっくりさんによる下世話な内情暴露ものになりそうな題材を洗練された映画にまとめ上げることに成功している。そして、それゆえにこの映画はマスメディアに対する批評(あるいは批判、というべきか)を含み持っている。

 ストーリーの軸となるのは、”Duty first, self second.” という考え方に象徴される現代の大衆社会における The Queen (「女王というもの」とでも訳せようか)のあり方であり、それが不在の元皇太子妃との関係、および首相との関係を絡めて対マスメディアという構図の中で浮き彫りにされていく。実際にここに描かれている王室の人々はよくテレビを見、また机の上にはタブロイド紙まで置かれている。この映画に描かれたダイアナ元皇太子妃という女性については、エディンバラ公の口からマスメディアとの関係の持ち方に長けた人物であることが語られる。さらに、”Self first, duty second.” という生き方によって、”People’s Princess”(映画の中に登場するブレア首相の声明の中の言葉)となりえた、いわば女王と対極にある人物と見ることができる。この元皇太子妃の突然の死によって引き起こされたマスメディアの狂騒(つまり元皇太子妃の死の直接の原因を作り出した側が批判の目を逸らすための格好の標的を見つけたということだ)とそこから浮かび上がってくる不可視の「大衆」の存在が、王室のしきたりを重んじ、自分の(人間的)感情を包み隠すことこそが女王としてのあるべき振る舞いと考える女王のポリシーを揺るがす。

 エディンバラ公はマスメディアをあえて無視することで王家の矜持を保ちうると考える人物として、皇太子チャールズはマスメディアにおもねることで「現代」という時代を生き延びようとする人物として、女王と対比される。女王も当初はマスメディアの狂騒とは距離を置こうとはする。しかし、そのような姿勢が「大衆」の王室への不信感を募らせていることに気づく。そして「神に選ばれた人(王権神授説)」である女性は、「人に選ばれた人(大衆政治家)」トニー・ブレアの進言に不服ながらも耳を傾けるようになり、「異例の」元皇太子妃の死によって巻き起こった事態を王室としては「異例の」仕方で収拾していく。すなわち「人間的である」ことによって「大衆」に愛された元皇太子妃の死について、マスメディアを通じて声明を出すことにし、さらに、より「人間的」な言葉、つまり「遺児たちの祖母」としてのひと言を加えることで、ひとりの「人間」として王室への信頼を取り戻す。

 首相ブレアについては、女王のもっともよき理解者であると同時に、マスメディアの力をうまく利用しながら元皇太子妃の死に乗じて自らへの支持を確固たるものとし、またマスメディア対策に関して王室に恩を売るしたたかな人物として両義的に描かれていた。いずれにせよ、マスメディアを利用することで「大衆」の信頼を取り戻した女王は、つい恩着せがましく「僭越」な態度をとった首相に自らの矜持を見せつけるラスト近くのシーンは興味深い。そういえば二人が直接会う場面は、映画冒頭の首相就任を認める場面とこの場面の二回だけで、あとは間接的に意向を伝え合ったり、電話で会話するだけであったりする。ただし、二度目の対面において確実に両者の距離は近づいている。

 女王が遺児たちの祖母として、また「大衆」と乖離したことを自覚する孤独な人間として、人間的な弱さを垣間見せるシーンは、自ら四輪駆動車を駆って川を渡ろうとして故障させた場面からの一連のシーンだろう。このシーンがこの映画の静かなクライマックスとなっている。表情に感情があふれだすことを押しとどめる術もなく、ふいに涙ぐむ女王は自分の近くにあらわれた立派な角を持つ一頭の鹿の姿を見て我に返ったように涙を拭う。この美しい鹿は女王にとって失われゆく「超然とした王権」の象徴とでも映ったのだろうか。夫エディンバラ公は母親を亡くした孫たちの気晴らしにと鹿狩りをしている。この鹿が狩人たちの手にかからぬことを願うが、やがて王室の領地から出て行ったところを投資家(という、現代大衆社会を象徴する人物)によって射殺される。そして、それはまた、多くの者に追い回された挙句の無惨な死でもある。だから、この鹿の死体と対面する場面では、愛する孫たちの母親との別れをも重ね合わせられているのかもしれない。

 映画の中に散りばめられた、こういった両義的なもの(多義的なもの)の存在が皮肉の効いた余韻をもたらしており、当時のニュースの映像をテンポよく挟みながら、最初に書いたような節度のある描写と抑えた演出によって良質な映画にまとまっていると感じた。そしてまた、フリアーズという監督が『靴をなくした天使』というこれもマスメディアと大衆社会をテーマにしたほろ苦い映画の作り手であったことを思い出した。






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