『令和の民俗学』汐留一郎

日本のグランドデザインを考える

埼玉県比企郡 杉山城

2018-11-29 19:01:35 | 日記
埼玉県比企郡嵐山町、京都の嵐山ではなく、こちらは「らんざん」と読みます。市町村合併で熊谷や深谷に吸収されずよく生き残ったというのが感想です。多くの市町村で行政の合理化により細かい配慮がなくなったと訴える住民も多い時代、まあ元々、財源豊かではない自治体でもなさそうだからどうでもいいか。

城跡銀座嵐山「早朝の杉山城」遠景


短い山道を登り


てっぺんに本郭


遺構ばかりで城廓や塀はございませんが、現地に立って想像を巡らすことは重要かと思います。


山頂付近からの眺望


峠付近の石佛。大事にされております。


「いざ鎌倉」
杉山城は城主不詳ですが鎌倉街道が整備され御家人たちが鎌倉まで早駆けして2日もあれば直ぐに駆けつけられる距離になります。しかしこれ両刃の劔、軍事道路にもなりますから新田義貞に攻め込まれ各地に古戦場を残しました。
義貞の地理感覚、地勢を読む力の卓越さ、優秀な武将でしたが人気はいまひとつ。

「中世の地政学」
以前、岐阜、金華山山頂より近江の国を望んだ時分、琵琶湖、山城国が一望でき「信長、天下布武への閃き」が生まれたのは当然と考えました。人間の視覚の範囲で国造りを考えた19世紀以前の世界観にも興味があります。
都から、ある一定の距離には地の利があり、現代でも関東人は受験に有利だし、ヤマダ、コジマ、K's電気にしても北関東より全国区に進出できたのは首都圏の購買力の高さによることが大きいのは確かだと思います。

「東国に重心が移るのは内需主導となった江戸時代以降、もしくは古代縄文」
鎌倉時代、国内はまだまだ畿内と東国と別々な動きをしていて畿内から東海道を下って鎌倉に攻め込むなんてのはあまりない。やはり中心は朝廷と朝鮮支那との貿易を握った財力のある連中が主で内需中心になる江戸時代まで東日本の隆盛は待たなければならなかったと考えます。



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