『令和の民俗学』汐留一郎

日本のグランドデザインを考える

地方人の悲哀 書きかけです

2021-04-15 19:30:00 | 東北
秋田行き新幹線最終 東京駅19:20発

気が乗らなくても腰が引けても、列車の切符を買ってしまう。一種のビョーキです。
もっとも医者が診断した訳でなく病気なら保険治療ができる。だから自称ビョーキ。

宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」にこんなくだりがあった。
「ふるさとは遠くにありて‥云々」とは、郷里を離れた人たちが、たまさか帰郷して、幻滅の悲哀を感じたときに口にする言葉とは限らない。むしろ姑息で因循(いんじゅん)なふるさとに、毎日を地方人として生き抜かなければならぬ私らのように、複雑で悪意に満ちた対人関係に悩まされてつづけ、うっ憤とも吐息ともつかぬ、半ば諦めに似た気持ちで吐くときの言葉に、よ。意味が深いのである。

この言葉、ハイウェイとインターネットが発達した現代にあっても当てはまる。
ネットでも現在進行形のネガティブな情報があふれかえっている。

地方で官公庁がピラミッドの頂点よろしく、銀行や信金、大学や高校教師などが地域の文化を守り、医者や弁護士がこれらを垂直統合する。
長男だから親の会社を継ぐと地元に帰り伝統的な価値観を保持する一家。そして、ちょっとあぶれた存在が塾講師なぞをやり、狭い世界で思考が固定しがちな小中学生に清涼剤を与える。しかし、その価値はいまどこも崩壊過程か凋落傾向。

時代の転換期なのだなと思う。

江戸幕府崩壊後、国の形態が農民9割の時代、ある意味「立身出世」は地方民の憧れであり総意でもあった。
疑問も持たず一丸となって突き進んだ時代。
北前船という船舶としては欠陥品しかない時代より100年足らずで戦艦大和という機能美を突き詰めた船を建造している。

文明の発展とは経験工学の積み重ね、地道な試行錯誤の繰り返しでありますか、この100年というのは史上稀にみる価値観や日本における文明の高度成長、一種の狂騒状態。

立身出世が過去の価値観になり、むしろ如何にうまく早く見切りをつけるかになった時代、はたして、明治時代のようなうねりが訪れるだろうか。

次に来るものは。
まだその萌芽もみられず崩壊途上であるようにも見えるが。芽を出そうとしても世論や世相の引力に押し戻される時代がまだ続いている。しかし風向きが変わったときは敏感な人間にはわかるはずだ。

と考えているうちに終点秋田。
いつもながら最後は車両にひとり、全国を歩きまわりながらも、ここ数年、心はずっと内向きであった事に最近気付いた。
まだまだ課題があるので後10年位は内向きの生活を続けたい。


翌日です。秋田は晴れ
秋田駅前からノースアジア大学の送迎バスに乗り込む学生たち、子羊のように大人しい。

まあ大学もそれなりに価値はあると思うが、金がなくて高卒でいったん就職し、三年くらい貯金し入学してくる学生とかは真剣勝負。真面目にやるようですが、現代の学生はそれは駄目、嫌なんでしょ。
ミネソタ州立秋田校が消滅し国際教養大学を作ってしまうのは、さすが教育県秋田らしいところ。


中央に富と人と情報が集まり、地方の「残った」人たちは敗北感にう



男鹿のナマハゲ館













結果を出す

閉塞感

男鹿半島という土地は能登と同じく、海流からの贈り物を多分に受け取るとが山深く、個々の集落のゆるやかな連携がありながらも、それは雪と懸崖に阻まれた厳しい土地であった。



そして修験と民間信仰

一地方神の
来訪神、それは異境からやって来る。
そして閉塞感に悩む社会においと改革者は辺境から出現する

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