師尊老大人曰く・・
第四、困境を解脱するのに必要な綱領は貞明(正しく明らかであること)そして中立で偏らない、獨行(自分の力だけで物事をすること)して怠らないことである。
いわゆる困とは、すなわち必要な時に、いち早く準備することをしていない、
例えば停水の時のように、干ばつにも関わらず貯水をしていない、これによって困になる。
この時に責め立てていても効果がない、後悔しても事を補えない、信心は根拠もなく何かをもたらすことができない、唯一君子のみ実際を知ることができ、正しいことを行い、なすべきことを行うのである。
例えば道情にすでに亀裂が現れていたとして、しかしあなたは最初から何一つ恩徳を相手に与えたことがない、
この時に成全しても効果がないし、責め問いても無益である、唯一しかっりと着実に最初からやり直し、付出すべきことが遅いと嫌がらない、率直にするべきことを包み隠さない。
困の中に道が極まる現象があると雖も、しかし時に困するが、人に困せず・・物に困するが、心に困せず、
そうすることで、自然に寒冬が過ぎた後に、春の生機が生じる。
だから君子が困を解決するのは一朝一夕ではないことを知り、また苛立ち急いだり妄りに求めてはいけない。それはゆるやかに解決することである。
もし己が貞明できるならば、困での思う通りに運ばないことに患う(憂う)ことはない、故に困の中においてその道を失ってはいけない。
師尊老大人曰く・・
第五、困境を解脱するのに必要な認識は因縁果報を了悟し、そして困の中で先に施しができることである。
見の危険を救われても、その恩を感じない、その罪は昧となり、必ず困苦により頼りのいない人に転生する。
身の貧しさを救われても、その恩を感じない、その罪は妄となり、犬豚の汚れた畜生に転世する。
身の寒さから助け出されても、その恩を感じない、その罪は讟(とく)となり、孤独で善縁を得られないことに転世する。
修道者が知るべきことは、一切の富貴貧賤は皆前世の定めであり、順境、逆境は言うまでもないことではないか?
今日の困苦はどのように解脱するのか、もし乾坤を回転できる毅力(意思が強くてくじけない力)でなかったら、どのようにしてその困を脱出することができるのか?
故に君子は困の中において、人が欠乏し自分が欠乏しているとき、何か書くと帰したものを必ず先に人に譲り・・
人が需要し自分も需要する時、何か手に入れたものを必ず先に人に譲ことである。
だから皆欠乏し、皆需要するからこそ、はじめて先に施す尊貴の徳性がある・・
もし自分が需要して自分がとるならば、すなわち苦の因は消えない、そして人と争う者は道格が全て喪失してしまう・・
知るべきことは、因縁果報では生死によって隔たりがない、すでに了吾した者は、どうして小さくとるに足りない生死のために、物欲の奴隷に落ちるのか?
得失は心にあらず、一切は先に施すことを以て本分と為す、他人の議論や視線はどうであろうとも、浅く短い褒め称えでさえ求めないならば、はじめて困を亨る(とおる)ことができるのである。
師尊老大人曰く・・
功徳に大小の区別はあるのか?(ありません)
功徳に大小の区別があると思う人は手を挙げなさい。
みなさんは全員、功徳に大小の違いはないと思っていると思っているのですか?(はい)
しかし、実際のところは功徳に大小の違いはある。その大小は形相上の多い少ないによるものではなく、それは彼がその功徳を行った時、彼らにとって困難であるか簡単であるかによるのである。行い難いならば功徳は大きく、行い易いならば功徳は小さい。
だから、実は困苦の中、困窮の中にいる時こそ、正に大きな功徳を立てる機会である。なぜなら、あなたは困難な中にいてもやり遂げられるからこそ、はじめて真に大きな功徳を得ることができる。
皆はなぜこの機会を把握して、よくよく大きな功徳を立てないのか?
(點傳師は班員にどんな時に功徳を立てればよいのかを質問した)
師尊老大人曰く・・
どんな時でもよい。
師尊老大人・・
沢山の大富豪達が、あんなに多くの福の報いがあるのは、すべて自分がまだ貧しい時から善を行うことができ、積み重ねてきた福の報いで彼は長く享受することができるのである‥しかし、後の彼には貧しい機会もなくなり、彼にできることも自然と自分の心境によって小善小福しかできなくなってしまう・・逆に彼が罪と業を造る機会を多くさせてしまい、これは実に人として生きて行く過程の中でとても簡単に墜落する一種の現象である。
ゆえに、真に修道者は、簡単なことを求めず反って困難を求めるべきであり、すなわち自ら成就できることを願うならば、はじめてこのようにできる。皆今後は一緒に努力しましょう、好いか?(はい)
続く