真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第二章 天人一貫の妙理 (五)創造の不可思議は人間の知能と観念を絶する

2024-03-16 19:18:15 | 天道の淵源

(五)創造の不可思議は人間の知能と観念を絶する

元気の陽は子の刻に生じ、元気の陰は午の刻に生じます。

つまり子・丑・寅・卯・辰・巳は太極の陽儀で午・未・申・酉・戌・亥は太極の陰儀です。

両儀は二至二分(冬至・夏至・春分・秋分)して四相を生じます。

陰陽が固定しているから東西南北の四方の位置は中を抱いて自然に判明し、気は変化して春夏秋冬の四季に大別されます。

春夏秋冬は中節して春分・夏至・秋分・冬至に分別され、これを加えて八節となります。

これが八卦の基本位となります。

冬至を坎(かん)となし、立春を艮(ごん)となし、春分を震(しん)となし、立夏を巽(そん)となし、夏至を離(理)となし、立秋を坤(こん)となし、秋分を兌(だ)となし、立冬を乾(けん)となします。

一節は三気をつかさどり、変じて二十四気になります。

二十四気は季節と暦の日との関係を示す目安となります。

太陽の通る道(黄道:おうどう)は赤道と約二十三度半の傾きをしていますが、黄道上を太陽が動いて赤道の南側から北側に移る時が春分で、以後順次黄道上を二十四等分した点を太陽が通過する時刻を二十四節の入節時刻とします。

春分から六つ目の節気が夏至でさらに六節して秋分、また六節して冬至となります。一気はさらに三候をつかさどり変じて七十二候になります。

一候は五日に奇数し、併せて三百六十五日四分の一になります。

毎年五日三刻余りますが、これを気盈(きえい)といいます。

来年の春を算するには二十四気に五日三刻を加えればよいわけです。

太極の気は半陰半陽であり、陰気は寒く陽気は暖かい両面の気候を有しています。

冬至半夜の子刻(ねのこく)から陽気が漸次上昇してまいります。

子・丑・寅・卯・辰・巳までが六陽であり、万物がそれに連れ立って生盛してきます。

巳から夏至に至るまでは天は陽であり、泉(地下)は陰となります。

ゆえに地上は暖かく変わり、地下は冷気が残ります。

夏至から段々後進して陽気が減退し、陰気が増進してきます。

午・未・申・酉・戌・亥から冬至に入ります。

こんどは泉(地下)が陽気を保ち、天が陰に変わります。ゆえに地下は暖かく地上は厳しく寒気を帯びてきます。

つまり夏至と冬至が一年の陰陽の極点になっている訳です。陽気が上昇すれば春になり、百穀草木が発芽し、夏とともに長じて来ます。

つまり陽が主となって万物は生成するわけであります。

陰気が下降すれば暑さが減退して秋となり、穀物の結実となり、樹木百草は枯れ、黄色を帯びて萎(しお)れ、冬とともに衰退してしまいます。

つまり陰が主となって万物を収蔵するわけであります。

二十四気・六十四卦・七十二候・三百六十度はすべて天地の経緯を表すものであります。一気・一卦、あるいは一度一度ごとに気候は同じではありません。

宇宙天体から地上万物の生育には不可思議な力をもって雑然とした中に正しい秩序と法則を守って変わりない運行を続けています。

あるいは雑然としたように見えて、その実は正しい天意によって組立られた一つの精巧な機械ともいえます。

時計の部分品は約三百六十ほどありますが、雑然として箱の中に入れただけでは動かないでしょう。

一つ一つの部分品を精密に組立ているからこそ正しいときの刻みができます。

よけいな部品に見えても一つの組織の中から見て欠くべからざる存在なのです。

このようにして空中に妙あり、昼夜四季が古今東西を通じて謬(あやま)らず、年々行流して息(や)まず、周天を運転しているのです。

宇宙天体の日月星はなに一つ不必要なものはなく、地球・象天の万物万類も無益の存在のようなものを、老〇様(ラウム)が造られることはありません。

形体として顕れた以上はそれぞれの役目や作用があります。

われわれがそれぞれの物体の正しい用途を知らなければ、真なる天理と神意を理解できたと申せないでしょう。

人体の各部分も同様の貴重な意義をもっています。

老〇様(ラウム)は男女の数を厳格に半分ずつに分けて生じ、万物万類に同様の形の物を造っておられません。

一つしかないものとしてその物を絶対的に価値づけています。

こうして気天・象天は大理天の中に含まれ、ご意志のままに支配され、綿密に合しては離れられません。

天は三つに区分して説明していますが、その連絡は確固として一貫しています。

われわれ人間は大海原の一つの砂にも値しない微小な存在ですので三天を一体にしか見ることができません。

理天を体とすれば、気天・象天はその用です。

理天が本源・上流であれば気天・象天はその支流・末流であるわけです。

樹木でたとえると根本と枝葉の間柄であります。

われわれの限界には気天・象天が大きく反映して、どうしても無限大の理天の広大さが理解でないだけです。

理天は時間と空間を超越した霊のみの世界でありますので、時間と空間の中に制約されたわれわれの知能と観念では想像に絶するものがあります。

霊の世界は霊の悟りの速やかなる人にのみ把握できますが、ただ実験と分析だけで試みようとする究明態度ではいよいよ真理から遠ざかるだけであります。

理は分けるよりも合わせる方がより早く悟れます。

それが妙なのであります。

昔の書に、ある人が、常日頃、自分が使用している荷車があまり重宝なので不思議に思い、一体この車の便利さは、どこの部分にひそんでいるのかと思いました。

そこで車の部品を一つ一つ分解しましたが、車の便利な根元はどこにも見いだせなかった言う話があります。

その必要な部分の一つ一つが無駄なく組立られ合してこそ、その中から妙なる作用が生じてくるのです。

それはなにも車だけに限ったことではなく、われわれの身体の組み合わせにせよ、万象の成立にせよ、同様のことが言えます。

理は用いられてこそ尽きぬ働きを示すことができます。

快い音楽が聞こえ、うまい御馳走が目につけば道行く人は足を止めるでしょう。

でも道といい理というものは語って聞かせても誠に淡白で味も素気もありません。

眼をよろこばせることもなければ耳を楽しませることもありません。

この眼や耳を楽しませるものは理の用であり、道のはたらきであり、用いられたものであります。

道はさまざまな形に現われると、それぞれ区別して名がつけられます。

しかし、その名も区別もやはり道の現れで、やがては混沌未分の「道」すなわち「理」に返るのであります。

この働きはすべて人間の智能と考えを絶するものであります。

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