孔子・中庸:天の命ずるこれ性(たましい)と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。
道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。
この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。
このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。
そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。
そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。
時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。
それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。
儒 教 存心養性 執中貫一 (一を貫く) 忠恕 聖(ひじり)
仏 教 明心見性 万法帰一(一に帰す) 慈悲 仏(ほとけ)
道 教 修心煉性 抱元守一 (一を守る) 感応 神仙(せんぶつ)
耶蘇教 洗心移性 黙祷親一 (一に親しむ) 博愛 神(かみ)
回 教 堅心定性 清真返一 (一に返す) 清真 僕(しもべ)
※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じ道の心印です。
このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。
教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。
孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。
これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。
道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。
教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。
その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。
なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。
道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。
故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。
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