(十二)円通無礙の天性に戻し、不死の境界に至る法
霊性は円沢透明であるが、心は色声香味の感覚や喜怒哀楽の情に流されて還源できなくなったために須(すべ)からく道に依(よ)り、正法を得て本性に戻すのが当然の真理であります。
道は中心ですから、この神髄を体得し、倫理道徳を心とすれば、自然に進退は従順にして礼儀にかない、中和を得て天道に則する生活ができます。
ともあれ、まず習性を改め、気質性を浄化することが肝要です。
霊明なる天性をもってすべてを指導しさえすれば一挙手一挙足に至るまで身を益し、家を興し、社会を向上させ諸人との和が得られます。
これは単なる理想ではなく、虚無の本性から発する一切の行動は間違いお引き起こすことはありません。
物事は心の支配を受け、心はさらに天性の支配を受けて処理すれば、考えること、言うこと、為すことに物議を醸し出すようなことはありません。
昔の行者は、欲心を断ち切る手段として、凡俗一切の名利恩愛、妻子田地を捨てて深山幽谷に入って心身の邪念を除き、天性を回復しようとまで意を決せられ、相して色受想行識の五蘊(ごうん)を皆空になるように勉められました。
天性は純陽であり、曇りはありません。
ただ心は陰陽五行の交換所である関係でややもすれば理を脱し、本性を蔽(おお)ってしまうだけであります。
老子様は、「人心死せずば道心生まれず。」と論じ、それを立証するに世の富貴栄華を捨てて函谷関(かんこくかん)を通って深山に入ってしまわれました。
道心とは天性のことであり、人心とは気質性・習性を指しています。
老〇様(ラウム)は、現今の三期の世に、我々に昔のごとき苦行や禅行を求めておられません。
俗塵の仕事と家庭の営みをしつつ務めればよいのです。
そして凡中に聖を離れず、聖中に凡を離れない在家修道を許されています。
何事も履中(りちゅう:偏りのない、中庸の行い)を執り、心の欲するまま、放縦に走ってはなりません。
よく慎思熟慮、静を守り、本性に問うて、然る後に行うべきです。
さらによく性・心・身の妙合を悟り、三界を一緒に修めるべきです。
本性には、八つの美徳が出生と同時に備わっています。
八徳とは、孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥です。
一人一人八徳を兼ね行えば、孔子様の説く仁徳の心、孟子様の惻隠(そくいん)の心、キリスト様の博愛の心、老子様の感応の心となり、正しく行動に現れてきます。
この心は親から与えられたものでもなく、師から授けられたものでもありません。
我が老〇様(ラウム)が霊性とともに授けてくだされたものです。
たとえ、悪人でも無心の赤子が井戸に這い落ちるのを見て抱き上げる徳を持っています。
たまたま懺悔したり、過ちを愧(く)い改めている所があるのを見ても分かります。
習性が凶悪粗暴になっても霊性は真であり、善であり、美であります。
しかし、本当の中庸道を全うし、至善明徳に至って玲瓏体(れいろうたい)に回復できる人は極めて少人数であるのが実情です。
正しい修め方を知らないために、大方の人は迷途暗黒に陥って悲惨な破目に苦しんでいるのが多いようです。
今まさにこの理に気づいた人ならば、妙智を働かせて危険に臨むまぎわに懸崖勒馬(けんがいろくば)、手綱を引いて立戻らねばりません。
修められた本性は世の経綸を勤められるだけではなく、天地の造化参賛することもできます。
天道は普(あまね)く人々を輪廻転生の苦から救うと同時に、歴世の因果の因果に付着した汚れや曇り拭き払います。
心法玄機を得て本性に豁然大悟(かつぜんたいご)すべき時です。
六万年来の矇蔽(もうペイ:膜に覆われてはっきりしない)の帷(とばり)を破って珠玉の如き清明無垢なうるわしい天性を復活する時であります。
何事も大衆の先覚者となり、模範となって巨歩を進めるべきであります。
躊躇(ちゅうちょ)することなく、虚偽の仮心を脱ぎ捨てて猛省し、志を立て永遠に朽ちない功徳を後世に残すことが大事であります。
性と命をともに修めて一体に妙合できれば上は仙仏から信任を受け、下は人類から広く敬慕を受けられます。
神人ともに歓喜・尊敬して我々を受け入れてくれます。
昔の聖者が人々に、「親からもらった真の面目を吸取せよ。」と教えているのも、本性の純善に返ることを力説しているからであります。
聖人は凡人と違い、理性に長けておられるのですから、陽気の未だ尽きない青壮年の時に先天の道を学び、純陽を保持するべく後天命を先天性に還源するために無我の道、天道を求め、修め、行い、以て聖なる基を築かれました。
天道は人間の一番大事な霊を生じた母胎で、天道降世は我々の失われた過去のすべてを取り戻して下さる救いの船であり、一服の妙薬であり、起死回生・明善復初の液です。
病状に応じて薬を配合するのと同じく、危篤の状態に例えられるべき今の世道人心の腐敗を医(なお)す道なのです。
すべての業報と苦厄を解脱して、人生最高の目的に至らしめ、絶対善として悟りを得て、無限楽である理天へ帰ることができます。
聖天の果のみを受けていた我々は始めて不死の境界に住み、不安恐怖なく安楽と歓喜を尽きることなく受け続けることができます。
一日も早く天真を現し、天の心に背かず、老〇様(ラウム)の御心に酬(むく)いたいものであります。
続く