師尊様は弥勒浄土10800年の道統の師です
苦難の意味は、死地に置かれた後に生きることである。重生とは、一つの脱胎換骨(完全に新しくかえること)の蛻変であり、さらに全く新しい姿で無数の生命を養育することである。
人はもし死ぬような過程を経験しなければ、生きることの貴さを体得できない。
経に言う・・『一人一人がみな死の味わいを受けて、復活の日に、あなた達ははじめて完全な報酬を享受できる。火獄から遠く離れる事ができ、楽園に進入するものは、すでに成功しているものである。今世の享受は、ただ虚幻の享受でしかない。』
末日の死は、新世の誕生のために準備をすることである。
いわゆる死とは、人心が作用して変化をおこした一切の情識慾念を死なせて、さらに本心が作用して生発するべき一切の理性道愿とすることである。これをもって重生の重要な案内板とする。
本当の苦難は、決して劫難からくるのではなく、人が乱世の中で、どのようにして互いに対応するのか、どのようにして互いに護念するのかである。
イエスは言った・・『わたしは真にあなたに言う、人がもし重生しなければ、神の国を見ることはできない。』
ニコデモは言った・・『人はすでに年をとった者が、どのようにして重生することができるでしょうか?どうして再び母の胎内に入って生まれてくることができるでしょうか?』
イエスは言った・・『わたしは真にあなたに言う、人がもし水と聖霊から生まれなければ、神の国に入る事はできない。肉体から生まれる者は肉体であり、霊から生まれる者は霊である。』
私は言った・・『あなた達は必ず重生しなければならない。あなたは不思議だと思ってはいけない。』
何のために重生するのか。決して義を行う事を重視し、名を立てることを重視し、施捨を重視することを経由するのではない。
このようなステップを経過すれば、神に召され悦ばれると思う、
そうではない。
重生とは 上帝の導きをかりて、神に対して、自分に対しての真実の面目を確実に自分に認識させることである。
ゆえにここで言うと、人がもし重生しなければ神の国に入ることはできない。必ず重生しなければならず、あなたは拒絶や逃避するわけにはいかない。
ただ完全に 上帝の改造に預け(託して)、 上帝の賦与を信じれば、すっかり新しくなることができる。
完