真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第八章 天道の修道法(二)内功の行法ーその3

2023-01-18 22:45:10 | 天道の淵源

(二)内功の行法ーその3

始めは朝晩の空気清浄時に、姿勢を楽にして半時間から一時間、又はそれ以上に増やします。

開目は陽にして動じ易く、閉目は陰にして沈み易く、従って軽く閉ざして陰陽相通ずる状態にするのが望ましく、先に濁気を出し尽くしてから徐々に清気を吸入すべきです。

吐く息と吸う息の間隔は長いほど法輪が大きく転じ、ついには始まりも終わりもない大円鏡智となり、綿々として果てるところがありません。

その中にすっかり虚無幽玄の境に入り、一切の煩悩・雑念を遠離してしまいます。

調息に入る前には予(あらかじ)め何かを思念したり、一つの幻相に執われたりしてはなりません。

玄関は天地の根に相当する所ですので呼吸息々として根に帰さなければなりません。

玄関は谷神の処であることは、道徳経の「谷神は死せず。是を玄牝(げんぴん)と謂う。

玄牝の門、是を天地の根と謂う。

綿々として存するが若(ごと)く、之を用いて勤(つか)れず。」の中に証(あか)されています。

玄牝の門、すなわち玄関に綿々として絶えることなく霊気を存続し、これを用うれば、いつまでもその働きが継続し、自身は少しも疲労を覚えることがない意味です。

道は尽きざる生命を持ち、無限の働きをなすものですから、道を得れば無限性に通じます。

得た道の中心が玄関ですから、玄関に全心霊を集めていれば霊光の輝きは日とともに盛んになります。

谷神とは、道に譬(たと)えた詞(ことば)で、道は万物を生じ養うから、養いの神と解されます。また、谷は低く底をなしているのであり、あらゆる水などの流れ込む所です。

老子は、谷の姿が道に似ているために谷をもって道に譬えられました。

従って人身を一小宇宙に譬て言えば、凡(あら)ゆる霊気の環(めぐ)リ集まるところは谷なる玄関地です。

玄関すなわち谷神地に霊気が流通し、自然に次第に純熟して来ますと、法雨や甘露が上漕から下漕に流れ、浩然の気となり、更に充実して神霊と化し、大虚に還源して、老〇様の大霊に融合できます。

守玄中、霊気が全身を循環する過程に、もし景色や人物の姿が見えたり、声音や韻律が聞こえたり、動物や草木の幻影が浮かんで見えたりするのは未だ行が熟していないからです。

神仏の姿や過去のことが連想されたり、未来のことが予告されたりするのも完全に色相から離れていない証拠です。

すぐに雑念・妄想に冒されたり、睡魔に襲われるのもよくありません。初めの数か月は不慣れのために迷いが生じたり、苦労も多いことですが、徐々に時間と空間を超越して真無に入れます。

心を常に一処に在し、凝り固めの工夫が日進して純熟すれば心念を固(もと)より起こる処なく、去る処もなく、我もなく、住する処もなくなります。

たとえ泰山が崩れても驚かず、美女が前に群をなしても動揺しません。内功の煉磨が加熱して来るとその顔姿から形容できないほどの尊厳と柔和と慈悲の聖気が現れて接する人の頑な(かたくな)な心を温めます。

本性が常道に立ち復(かえ)るから私心がなくなり、寛容な人柄となって太古の聖者の風格が備わります。

自己の本性に目覚め、明らかに見ることができますから、人生の疑惑がすべて自然の中に瓦解(がかい)され、忽然(こつぜん)と無生を悟って久遠の生命を得られるのであります。

守玄の成就を得た状態になれば醍醐感を満喫し、幽雅な仙境に入った趣に浸って感激を抑えられないほどになります。

決して怪・力・乱・神の類ではなく、無限の真理に通じ、大虚空(だいこくう)に融合した喜びなのです。それは言葉の表現や文章の描写では尽くされません。

味覚はやはり自分の舌で味わうべきであって、人の体得を見聞きして会得できるものではありません。

老子様は、「人によく常に清静なれば天地ことごとく帰す。」と言われましたが、全く守玄した時は森羅万象が求心的に我に帰り、修煉によって集結した大霊光が今度は遠心的に人々に及び、波紋が拡がるように、または放射状的にすべての霊に浸透して救いの力となります。

天道は半聖半凡の修道法で許されていますから、従来の苦行的修道法と異なっています。

形式を廃し、心の伴わない戒律を強要せず、隔離された特殊環境での修行に重点を置きません。

在家のまま、凡俗のままで、全ての人々を救おうとされています。

老子様は、「其(そ)の光を和(わ)し、其の塵(じん)に同ず。」と言われたのは、燦(きら)めく霊光を和らげ、坐して守玄統一を行うのは初歩的段階であり、決して究極的目的ではありません。

従って仕事の合間や朝起きてすぐ、または睡眠前に一定の時間を計って心神を調整すればよく、要は道を念ずる心を培うことですから無意識の守玄が肝腎です。

二六時中、玄を守るようになれば特別の坐行を必要としません。

仕事中も対話中も中心を離れないことが内功の要諦(ようたい)です。

一日守玄すると言う事は極めて至難事(しなんじ)で、隙間があると霊気は流れて中心を失い、物に着してしまいます。

長い修行によって自己の心を制御して散漫させないようになれば、霊身一体となって徳を離れず、道を忘れず、物事の判断が正しい尺度に叶います。

たとえ眼を開けていても常に意でもって注視できるように実行できれば人格円満になり、挙動が謙虚になり、独り自ら高し清し的な態度になりません。

位が高くても誇らず、低くても媚(こび)ず、富豪にして驕(おご)らず、貧困にして濫(みだ)しません。

為す事、言う事がみな理に叶(かな)い、五感を通じて見聞味触することは、中を得て和が保たれます。

煩悩が消滅し、恐怖が削除されて妙智に一段と加霊され、無中の真、真中の無を悟って人事の物議を加味しだすようなことはありません。

霊の中和を得ることができ、喜んでも留まらず、怒っても遷(うつ)さず、哀(かな)しんでも傷つけず、楽しんでも淫(みだ)りにせず、人心常に清静にしてすべてに融和ができます。

喜怒哀楽の情は外物の誘惑や刺激に応じて初めて起こるものですから、その未だ発し起こらない時の中の状態に立っていなければ、情に流されて偏ってしまいます。

中に立脚していれば流されても過ぎたり、或いは及ばなかったりする欠点がなく、中節され当然の程合いに適(かな)って情の正しきを得て理に悖(もと)らないものであります。

これが和です。

つまり、中とは老〇様が命じて人間に賦与した性を言うのです。

中を守るとは、本性に帰ることで修行者の大前提であります。

かくて天性が玲瓏(れいろう)となります。

静中に静あり、動中に動ありで、これがまた一切の動の源であります。

釈尊 明心見性(めいしんけんしょう)、孔子様が存心養性(そんしんようしょう)、老子様が修心煉性(しゅうしんれんしょう)、キリスト様が洗心移性(せいしんいしょう)、マホメッド様が堅心定性(けんしんていしょう)と、すべてこの心性の還源を願って世人に教え伝えられていました。

みな純真なる天性を回復して無極に和合・融合することを一致して説いています。

とにかく急速に成就できなくとも漸進的に内功の修得に励み、自他の向上を計るように心掛けることを念願してやみません。

続く


最新の画像もっと見る