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神々の島【壱岐島】Ⅳ.神宮皇后と壱岐国一之宮 天手長男神社

2021-09-20 | パワースポット

【神功皇后の三韓征伐】の島。

壱岐の島には「神功皇后」とその息子「応神天皇」の関係の神社が多い。

神功皇后の三韓征伐に由来すると思われ、島内各地に壱岐の島から三韓征伐(新羅、百済、任那)へ出征したと思われる言い伝えが残り、郷ノ浦にある温泉では、応神天皇が産湯をつかったという伝承があります。

(😌諸説ありますが、、)

今回はその神功皇后ゆかりの古代の神社を紹介します。

【住吉大社】壱岐神楽

長崎県 壱岐市 芦辺町住吉東触470

⛩️創 建 神功皇后

⛩️御祭神 住吉三神

 (底筒男命、中筒男命、表筒男命)

神功皇后は半ば伝説上の人物の様に語られてますが、仲哀天皇の皇后で、こちらの住吉神社を創建されています。神楽は中世のものですが、神社は神功皇后の創建ですので、1600年以上の歴史があると、思われます。

壱岐神楽は他のお神楽と違い、宮司さんら神職によって奉納される唯一の神楽。保存会や芸能集団による奉納ではなく宮司さんが伝承してきた奉納で、神統性が高く、無形文化遺産に指定されている。

その壱岐神楽を、様々な導きと配慮によりなんと夜神楽で奉納させて頂きました。

壱岐神社の宮司さん。この後、回転します😳

月読神社の宮司さんの 二本弊 

演目は35種あり、全部やると6時間以上は掛かるという。

毎年12月20日にはその全演目が奉納される。😳⛩️必見

【寄八幡神社】

長崎県壱岐市芦辺町諸吉本村触1732

小島神社や高御祖神社の御朱印は電話で予約をしてこちらで頂く。

【御祭神】 

神功皇后(息長足姫) 仲哀天皇

応神天皇(誉田別尊)

寄八幡神社の海上の鳥居⛩️

八幡宮は、応神天皇(誉田別命)を祭る土着的な海の神様でしたが(宇佐)、応神天皇が弓矢の名人だったことから桓武平氏、清和源氏ら武士の時代になると武神として崇められ、「弓矢八幡」とうたわれ全国に広がりました。

こちらはまだ「弓矢八幡」という言葉で武神として祭られる前の、海神様としての名残りを感じます。

壱岐国一之宮【天手長男神社】

長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730

壱岐島は、東西15 km 南北17 km の小さな島で神社密度が最も高いとされ、神社庁に登録されている神社は150社、登録されていない神社も150社ほどあり祠や摂社など合わせると1000基以上になると言う。

その中で、一ノ宮(地域で1番の神社)が2つある。

天手長雄神社は、元寇により島が壊滅状態になり所在不明となった神社だが、江戸時代の学者が復興した。しかしこちらは誤りで、もうひとつの一ノ宮である興神社(長崎県壱岐市芦辺町湯岳興触676)が本来の一之宮ではないかと言われている。

【御祭神】天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命

他に天手長姫神社、物部経津神社などが合祀されている。

神功皇后の三韓征伐の折、「御手長」と書いた旗を立て出征したことが

天手長雄神社という名の語源らしいです…。

階段は登らずとも1番上の駐車場まで車で行ける。

【神宮皇后】

神功皇后の子・応神天皇が産湯に遣ったという温泉がある平山旅館。

神宮皇后は、新羅攻めに反対する夫・仲哀天皇と袂を分かち三韓征伐を決行した。(三韓=新羅、百済、任那)

実際に朝鮮半島まで出征したのは将軍や家臣で、神功皇后は壱岐島か対馬まで来ただけかもしれないが、いずれにしろ壱岐の島には神功皇后の由来が色濃く残る。

一説に神功皇后は

息長足姫(オキナガタラシヒメ)と言い息長族の姫ですが、

母方が天日槍(アメノヒボコ)という新羅王子の子孫であり、

新羅に対して自分の王統性を主張しにいったとも云われてます。

かつて新羅は、他の和韓諸国のどこよりも血統を大切にしている国で

【大元神統】という血統聖母が伝国の宝の様に存在していました。

【聖母宮】

壱岐島では、神功皇后は聖母として祭られている。(中津神社)

ちなみに、キリスト教の聖母マリア様とは関係はないです

※聖母=『しょうも』と読み中国でいう海の女神様。中国人が海の女神を聖母と言う様になったのは神功皇后よりもっと後の時代からのことのようで、

日本では8世紀頃既に「聖母宮またの名を香椎宮」とあり三韓の聖母廟ともあるのでメイドインチャイナの聖母とも違うようです、

が、大分の宇佐には神功皇后は「中国(チン)の王女だった」という謎の伝承もあります。

何れにせよ大陸側との由縁の深い存在です🤔


聖母宮は、神功皇后の三韓征伐の時にこの地で風待ちをして行宮を建てたのが起源とされ、神功皇后が「風本」と名付けたのが、ここ「勝本」の語源と云われてます。

対岸の福岡にも、神功皇后縁りの神社や三韓征伐の伝承は沢山ありますが、壱岐の島の神功皇后さまはとても身近に感じられます。

【爾自神社】壱岐市郷ノ浦町有安触。

三韓征伐の折、勝本浦で風待ちをしていたが追い風が吹かず、

神功皇后がここ爾自神社で祈願をすると、石が割れ東風(こち)が吹き始めた。

割れた石は「東風石」といわれ今も祭られている。

出航が可能になったと言う、割れた東風石(こちいし)

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲

少しまた歴史ヲタクなことを長々語らせて下さい🙏

古代ミステリー的なお話しです。

【易姓革命と血統聖母の違い】

、、

古来より

中国では【易姓革命】といって、

王朝が倒され、新しい王朝にとってかわられると、前王朝の血統は断絶してしまい、全く繋がりのない別の王統の国が誕生します。

血統より力こそ全ての文化で、禅譲と言う国を譲り受ける儀式もありました。

しかし、

古代東アジア諸国にはそのような男権的な全て力ずくという習慣はなく、

前王を倒し覇者となった新しい王は、

「必ず前王朝の王女に婿入りするという形で王権を継ぐ」

という合併策がとられます。

こうして王女の血統が、新たな王朝と結ばれ続けていけば、

(人間が女性から生まれてくる限り)

王の跡継ぎか、王権簒奪者かに関わらず、例え誰が王になったとしても

必ず最初の王、その次の王、その次の王の血統を継いでいることになります。

この様な血統聖母を皇后とする事が王たる証、誰しもが認める最高権力者の証でもありました。

男権的な勢力と共に母系を大切に守ることで、中国の様な【易姓革命】を起こさずに血統を大切に守っていたのが東アジアのやり方です。

いかなる時においても

相手と戦い殺していくのではなく、

相手と交わり産んでいくという王女たちの大いなる有り様は、

古代アジア世界で、東アジアにやってきた王達全ての血統を継いでいて、

私達日本人にもその世界の王たちの血が流れてるのかもしれません。

(聖なる国日本って😳そゆこと?)

今でこそ男系社会でとても想像できませんが、古代女系社会だった頃は女性が戸主となりずっと母方の姓を受け継いできました。

そもそも、『姓』という漢字自体、
どの女性から生まれてきたかを示すもので、寡聞にして私が知らないだけかもしれませんが、
もしかすると中国でも遥か古代は女系社会(母系社会)だったのかもしれません、、😌

古代アジア世界で、

国を滅ぼされたり、亡命する時は、

【西】にローマ・エジプト

【南】にインド王朝

【北】に勇猛な遊牧民

【中央】には中国があった為、

大国や強国の少ない東アジアにまで逃げることが常でした。

「日本にやって来た」というより、

アジア大陸の果てにあるという安全な島を目指して逃げてきました。

日本列島においては、

東北大名の争いに負けた、柿崎氏や武田信広が「北海道」に逃げ、

戊辰戦争では旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三が「北海道」に渡り「蝦夷共和国」を造り明治政府と戦ったように、

中央勢力が及びにくい、最果ての島へ逃げ込むということが繰り返し起こりましたが、(来られたアイヌ側にとってはたまったものじゃない)

古代アジア大陸においては、最果ての島である日本列島がその役割りを果たしていました。

特に北方ルートは、北アジアの草原地帯を移動し続ける遊牧民族が支配していた為、土地に縛られた農耕民族の様な城や城壁などは殆どなく比較的自由に行来することができた。

そして、

東アジアの境界にあった高句麗という国は千年近く中国の支配を食い止め、亡命者らは受けいれましたが「庇を貸して母屋を奪われる」こと無いように自国には留めず、積極的に朝鮮半島や日本列島に送り出しました。

この為、中国の史書に「百余国和国の大乱」と記されている様に

渡来部族同士や先住民で争いが続いてれば、高句麗は後方の強国の出現に煩わされるということがありませんでした。まさしく、夷を以て夷を制す、、

アジア世界で大乱がある度に、日本列島にも渡来部族が逃げてきて

母系を大切に守るアジアの伝統によって古代に滅んでしまった国や亡命してきた王の血統は保存されてきた。

また現代でも皇統が続く、日本の天皇も

アジア世界で唯一無二の存在です。

伊勢神宮は

天照大神を祭る天皇家の皇祖神ですが、

神功皇后と応神天皇が祭られる

八幡宮も第二の祖神とされている様です。

神功皇后も、謎の深い人物で

オオヒルメ(天照大神の別称)

という説や、卑弥呼説もあります。

機会があればまた、、そのあたりもまた深堀りしてみたいと思います。⛩️🙏

【聖なる国 日本】



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