オリジナル「107ソングブック」  Original  natarsher seven

全く、個人的趣味の音楽の一つ。高石ともやとナターシャセブン。
「107ソングブック」の曲をオリジナルの歌詞で

 いもじょ (妹)

2015-04-08 | 鹿児島弁

いもじょよ 襖いんめ べちぃおっどが       

こめか ねいっどん たてちょっが いもじょよ

わいは 夜がね こん夜があくっと            

雪んよな みごてか 嫁じょんべんべんきったろかい 

 

いもじょっよ わいはね めめん わりかたっで    

おいは わっぜか    せわしちょったったど      

あいはおいが どし じゃっでか          

まねけんな 三人で そつでんのんがね     

 

いもじょっよ 親っけしん かかどんがけしんせ

わいひとい わいだっが きいかかっちょった

明日ん朝 わいがはっちっまえん

あん 味噌じゅいん つくいみっ かいちょけよ   

いもじょっよ あいは  わっぜか よかにせじゃっで 

いけんなこっがあってん きばいやんせ       

そうでん いけんしてん いけんしてんか

どげんしてん ぼっじゃたら かえっこんか いもっじょよ

 

「南高節とかぐや姫」が「南こうせつとかぐや姫」になり「かぐや姫」へ変遷していったのだけれど、「かぐや姫」時代の曲に「妹」というのがある。

かぐや姫については以前書いたことがあると思うので。

喜多条忠の「神田川」「赤ちょうちん」「妹」の三部作だという。

もうこの頃には所謂フォークソングと称する曲々にはあまり興味がなかった。世間があまりにも「フォークブーム」になってしまっていたし、ラジオで流れる曲の多さに辟易していた部分がある。

その頃誘致聞いていた音楽番組が「コッキーポップ」くらいのものだった。

とはいえ「妹」の収録されている「かぐや姫LIVE」のレコードを持っているというのもなんだかなぁ。

 

 

 

 


いめじんうっ (イメージの詩)    

2015-04-08 | 鹿児島弁

こいこっじゃち 信じっもんたぁ       こん世さあっじゃろか

信じっもんどな あったちしっせいか     信じらんふいすっど

 

せんねかなんだどん  流しちょわろや    みごてかもんじゃろいや

なんだどんじっしせぃ わろちょわろどん   みごてかもんじゃろいや

 

おんじょだ  いけんしっせおごじょほしっせ  うろいうろいすっとけ

おごじょさぁ いけんしっせおんじょほしっせ  めめんよけすったろかぃ

てげてげな わろたっと  いっしょきなっせぃ  おや あゆんいったかがよ

てげてげな わろたっちゃ いっしょきなっせぃ  おいとあゆんいっじゃろね

 

いさけしっつづくぃ とい きもんなんぞ  だいでん わかっちょいとなぁ

いさけしっつづくぃ とい きもんなんじゃ あげなむゆいこちゃなどなかが

 

きしつくっといが わざえかむかっどな   ぼり むかっこっじゃたが

ふとちゃふとぃ  きしくっよな人には   力があったとじゃろな

 

吹きぬくい風んよな 俺が住んとこいどま  一度どん おはいじゃんせ

荒れはつぃじだどんかぁ  こまんか花さぁ   ひとっ咲かせちょいでね

 

おいもきっとはんがおっ ひさんとこいへ    いっみっがぁ

ほいで きっち言うじゃろう          きっみっせ えかった はんがおっでね

 

長か長か坂を登っせ    後を見っみやぃや  だいもおらんどがぁ

長か長か坂をおりっせ   後を見っみやぃや  皆が上で手どん振っが

 

けんどけきしみっどん したかったはんな  鏡ぃ見やったもんせ

けんどけおはんが映っちょいじゃろや    おはんなじっぱなとぃじゃ

 

空ぁ飛んたぁ鳥に羽があったっで  そいだけんこっじゃが

足どんあっとい歩かんおいどな   羽も生えっこんがあ

 

わっざいか ぼりわっざいか恋しちょおいは    いって誰んもんじゃろ

わがじゃ 言いたかとい わいだんがおいじゃち   はんだっがおいじゃっちよ

そねくぃ恋んなっで    おいはひといきっかしちょっとよ

はっぽかぃ そぬっ つもいじゃったとけ    おいがよかおごじょさぁ

 

人んいのっおわっとぃきっせぃ   人ちゃなんち考ゆぃ

人んいのっけるるぃとんなぁ    人ちゃ笑ろこっばっかぃ

 

ふいか船にゃ にっか せんずどな    乗い込んいっじゃろがぁ

ふいか船どな いま 動かすごなったぁ  ふいかせんずじゃなかじゃろがぁ

ないでけふいか船どん にっか船んごてぃ  にっかうんどな いっが

ふいかせんずなぁ知っちょっといよ    にっかうんなわざいかとを

 

いって おいどんな いっだまんふるさとちゅたぁ  どけあったろかぃ

自然に帰れっちゅうこどんなぁ    いけんせいちゅうこっじゃたろかぃ

 

だいかが言うちょったとい   おいな人間としっ 自然に生きちょっとぃよ

自然に生ちょっといが  わかっこなんだぁ  わっぜ不自然じゃち思もちょっとよ

 

ひといをいんのめぇか とぜんさぁじゃち    かんちげしっせぇ

気取いごろどないうちょいが             そげなおいが おったとよ

 

せんねかおんじょと  せんねかおごじょん  かねてんひといごっ

ほいでんいんのはぜ  かねてんごてっ    慰めおいちょいが

 

 

「よしだたくろう」という人の曲を初めて聞いた(と思う)のが「イメージの詩」だったと思う。

それまで聞いていた関西フォークと違う感覚で聞いたと思う。

それは

明確な「メッセージフォーク」でもなくそれまでの歌謡曲でもなく、まさしく私の中で本当の意味での「ニューミュージック」だったのだろう。

そして後に私の中で「よしだたくろう(的ニューミュージック)」か「関西フォーク」かの選択をするのだけれども、結局後者を選んだ。

それが明確になったのが「結婚しようよ」「旅の宿」だった。

つまり世間が彼を受け入れた時に彼を聞くことがなくなった。それ以来積極的に吉田拓郎は聞いていない。

興味がなくなったからだけだけど。

ただ個人的に面白いのは「他人へ」書いた曲だ。

由紀さおりへの「ルームライト」森進一の「襟裳岬」などなど多数ある。

それらは彼自身が歌っているバージョンの方が好きだ。

結局彼は彼自身のために曲を作って生きたのだと思うしその姿勢は面白いと思う。別に他人に媚びる必要はないのだから。

もちろん「フォークのプリンス」と言われ若者の音楽を世間に受け入れさせその後の様々なミュージシャンたちに影響を与えた功績は偉大なものだ。

彼が歌っていた「ビートルズが教えてくれた」ではないけれども「自分で作って自分で歌って」ついでにレコードを出せる、というスタイルを確立したのも彼だ。まさしく「吉田拓郎が教えてくれた」ものだろう。

ちなみに彼のことを「たくろう」と呼ぶか「拓郎さん」と呼ぶかで度の時代に吉田拓郎を知ったかの指針になるという。

古い時代からのおじさん、おばさんは「たくろう」と叫ぶのだ。

若い人たちにとって「タクロー」はGLAYのTAKUROなのだという。そして吉田拓郎は「拓郎さん」というらしい。

ま、どっちでもいいんだけれど。

 

さらにどうでもいいことを。

彼が「六文銭」をバックにしたのは岡林信康に「はっぴいえんど」を獲られてしまったからで、後に彼のバックをする「愛奴」にはドラムとして「浜田省吾」が居た。