思考の踏み込み

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過去帳其の一 6

2014-06-25 00:14:32 | 日記
面白いことはこうしてみてくると、命の本質とは、心とか肉体とか心身不二であるとか、あるいは霊的なものとか魂とか ー 。
それ以前にもっと根源的な部分で存在しているモノは、この ー "力" なのではないかと思えてくることである。



いわゆる「本能」と呼ばれるモノでさえ、この "力" を持続させる為の一つの物理的なシステムに過ぎないのではないか?

ー なぜ生きるのか?

"人間が考えるより先にまず生きたいという欲求があった ー "

と、いうN先生 (D先生の師) の言葉はそう考えるとより理解する事ができる。

だとすれば人がいかに幸せに生きたらいいか、といった事を問題にする場合、この "欲求" (エネルギー) といかに関わっていくのか、といった事が結局において本質的な課題となる。

なぜなら一番初めに "在った" モノはその "力" だけであり、どんな時も最優先される事はその "力" の処理の問題であるからだ。

それは本能の力さえ押しのけて人間の行動原理を支配している。
まして意志の力など大海に浮かぶ木の葉ほどもない。



一見理解し難い他人の行動も、自分でもよく分からない行為や感情の理由も、全て背後にあるエネルギーの質と角度を見つめればその正体をつかむことは難しくない。

そこから上手な "力" の処理の仕方も見つけられるだろう。
これはほとんど処理しなければ消えないモノである。
処理せずに無理やりに抑えつければ、産まれるモノは病だけである。
(というより全ての病気の背景にはこの未処理な力の変形があるといっても過言ではない。)






過去帳其の一 5

2014-06-24 05:49:01 | 日記
強いショックはエネルギーを抑圧、中断、凝固させる。

それはほとんどの場合自らの身体にぶつけられる。
いわゆる自己破壊である。



精神的な苦痛の正体はここにあるのではないだろうか?

多くの者はこのことには気付きにくい。
辛いと感じるのは「心」であると感じて身体の僅かな変化に気付くことがないからである。

このことは個人個人の強さ、弱さとは関係がない。
それを苦しみと感じる時点で (何を苦と感じるかという差はあるが) 強い人間であろうが、精神的な苦しみは自己破壊といった現象を引き起こし、身体の変調を生み、心を苦しめる。

問題はなぜすぐに自己破壊へと向かうのか、という点であろう。

他にもエネルギーの処理の仕方はいくらでもある。

これはやはり精神的な苦痛の場合の衝撃の強さと速さが原因ではないかと思う。



その速度に追いつくには一番身近な自己の身体を破壊するしかないのではないか。
もしくは別離など、物理的にはどうしようもない現象だからこそ、鬱散することができずに、苦しみ ー つまり自己の破壊に向かう以外にないのではないのではないだろうか。



過去帳其の一 4

2014-06-23 00:51:05 | 日記
渋滞しているとはいえ、歩いているよりも遥かに速いのはずなのに、歩いている方が全身を使っているからエネルギーの処理は上手くいきやすい。

エネルギーは停滞もしくは抑圧されると、圧縮され噴出するときの力が徐々に高められていく性質を持つ。



渋滞が終わる。

圧縮されたエネルギーが引き起こすモノは速度超過である。
超過でなければ先ほどの圧縮された部分が鬱散されないのである。
渋滞がなければ法定速度内で十分に処理できていたハズのモノが、一度抑圧されると質が変化していく。

あるいは速度超過による噴出でもことたりなければ、事故が起きそうな危険な運転がはじまる。

ついには事故が起きる。
起こった事故に対して発動されるエネルギーは多大であるから、エネルギーの鬱散としては強力な現象だが、そんなことでは世の中危なくて仕方が無い。

だが、速度超過も危険運転もできずに最後まで渋滞だったケースはどうなるだろう。

その圧縮されたエネルギーは家庭に持ち込まれ、そのはけ口を何かしらの理由を付けて見つけようとするだろう。

亭主は仕事で疲れた上に渋滞の中を帰ってきた。妻はそのことをわかっているから、亭主の不機嫌な様子に何も言えずに我慢している。

ここで妻の側にまでエネルギーの抑圧が生じてゆく…。

以上の様なことは極端な一例とはいえ、こうしたものは何処かで必ず、いつかは何らかの形で噴出するモノである。



人それぞれ、こうした抑圧されたエネルギーの処理をモノに当たったり、人にぶつけたり、別の事で気を紛らわしたりして様々な処理の仕方をしているものだ。

だが、精神的な強いショックを受けた場合はどうなるか?







過去帳其の一 3

2014-06-22 15:41:25 | 日記
ー 正確にピントを合わせて、焦点を絞ってゆくと見えてくるのは、どうやらエネルギーの問題である。



"欲求" と言い換えるとイメージしやすいが少し的確な表現ではない。

強いて言えば "力" の問題である ー というのが一番無理のない言葉の選択かもしれない。

精神的な苦痛を負う事で何故身体に変化が起きるのか?

もちろん心と身体は不二のものであるから、精神の外傷が肉体的な外傷と同じ働きをすると、考えることはできる。

だがそれは現象を説明しているに過ぎない。
世の中には現象の説明だけで、その現象そのものを理解したと勘違いしていることが実に多い。
これは実は "思考の停止" なのである。

例えば磁石のN極とS極は引き合うものだ。
しかしこれは現象もしくは性質の説明でしかない。

太陽フレアの磁力線。

磁石の性質など誰でも知っているが、何故引き合うのか、どんな力が働いているか、誰一人答えられはしない。

心身不二も同じことであろう。
ここではもっと本質に近いところに迫ってみよう ー 。



すると、先ほどのエネルギー、もしくは "力" の存在が姿を現しはじめる。

人は思い通りにいかないことがあるとイライラする。
それはエネルギーの処理が頭で思い描いた様にはいかない為に、余ったエネルギーがやり場をなくして困るからである。

わかりやすい例が車の運転だ。

アクセルを踏む。
わずかそれだけのエネルギーでとてつもない距離と速度を生む構造を自動車は持っている。

同じ距離を、歩いて行こうとすれば何倍もの大量のエネルギーを必要とすることから考えると、いかにエネルギーの必要量に差があるかがわかる。

世界最速の市販車 Bugatti Veyron 16.4 Super Sport 最高速度434.211km/h。

ところが渋滞している。
アクセルを踏みたいが踏めない。
踏めばすぐにあそこまでいけるのに踏めない。

ここでエネルギーの処理は停滞する。



過去帳其の一 2

2014-06-21 12:45:38 | 日記
苦痛の元となるなんらかの外的刺激を変換し、苦痛として感受させるのは脳である。
脳は身体の不調や欠損を知覚させ、自衛のために注意をそこへ集めさせる。



例えば何らかの外傷があった場合、"痛み" としてそれを知る事ができなければ生物としての生存そのものに関わってくるだろう。

しかし精神的な "外傷" の場合、わざわざそれを肉体上の不調に作り変えて脳に認知させる必要があるのだろうか?

もし生存だけが生命にとっての課題であるとするならば、これはむしろ矛盾することではないだろうか?

精神的な苦しみが元となっての衰弱、さらには死に至るといったことは、なにも感情が高次元に発達した人間に限ったことではないからだ。

(鶴などは連れ合いが怪我で動けなくなると、死んでしまうまで側を離れないという。それは自らの死のリスクも背負った深い愛であるが、同時にそれだけの悲しみも感じているだろう。動物には感情などないなどとは言えるものではない。)



もちろん苦しみと歓びは表裏一体であるから、苦しみがなければ歓びも存在しえない。

地上のあらゆる "力" はどんな質のものであれ、それに抵抗する力の存在なしにはそれ自体が存在しえない。

従って "苦しみ" というピースは進化というプロセスの中には必要なエッセンスであったことは間違いがない。

とはいえ、"進化" が純粋に宇宙の目的に適ったことだとするならば、それを推進する要素としては生存競争、適者生存とかいったシステムだけで十分だったのではないか。
要するに身体の変化だけを "苦" に変換すればそれで良くて、心の傷まで相手にする必要があったのだろうか、ということである。

ー それはより前に進む為だ。
そのためには必要なことであった。

というのはここで問題にしている事と、本質においてズレている。

では問題の焦点をどこに絞ればよいのか?