思考の踏み込み

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ブッダ31

2014-06-03 10:04:11 | 
"溺れる者がつかむ藁さえも奪う"

ー とはD先生のそのまた師の言葉だが、そうしなければ人間は本気で自ら泳ごうとしない。



本来泳げない人間はいないのである。
なぜなら死体は必ず浮くのだから、カナヅチの者には別の理由があるとみるべきだろう。

だが別に泳がなくとも生きていける。藁にすがって生きることも悪くはあるまい。

だが人としてせっかく生まれたのだから、泳ぐ喜びを味わってみようとしてみてもいいのではないか?

藁をも捨てる覚悟は容易なことではないが、人間の能力は限界を越えたところでようやく真価を発揮するものだ。

古来の行者たちが厳しい修行で身体をいじめ抜いた理由もそこにある。

そして我々はその限界値の設定が常に手前過ぎる。自らの限界値を設けた瞬間に人間はそこまでしか行けなくな
る。
もっと "いのち" の力は無限なものである。




本当は天才も凡人もないのだ。
ただ開発の速度の差があるだけである。
その速度の差が生じるのは身体の状況と使い方なのである。

この研究はD先生が現れるまで誰も系統だててすることができなかった。

だがそのD先生の研究を持ってしても、自分で泳ぐ気のない者、藁どころか浮き袋を二つも三つも掴んで離せない者にはなんの助けにもならない。


ある禅僧は柱にもたれかかろうとして、そこに柱がなく後ろに倒れた。
そのときに大悟した、という。

寄りかかるべき真理は我が内にこそある。それに気づくことはすでに寄りかかることから離れている。

かつて ー 太古の昔に、前足に寄りかかることを止め、二本の足で立つ覚悟を決めた人類は、もう一度自力で立ち上がることを考えるべきではないか。