思考の踏み込み

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過去帳其の一 2

2014-06-21 12:45:38 | 日記
苦痛の元となるなんらかの外的刺激を変換し、苦痛として感受させるのは脳である。
脳は身体の不調や欠損を知覚させ、自衛のために注意をそこへ集めさせる。



例えば何らかの外傷があった場合、"痛み" としてそれを知る事ができなければ生物としての生存そのものに関わってくるだろう。

しかし精神的な "外傷" の場合、わざわざそれを肉体上の不調に作り変えて脳に認知させる必要があるのだろうか?

もし生存だけが生命にとっての課題であるとするならば、これはむしろ矛盾することではないだろうか?

精神的な苦しみが元となっての衰弱、さらには死に至るといったことは、なにも感情が高次元に発達した人間に限ったことではないからだ。

(鶴などは連れ合いが怪我で動けなくなると、死んでしまうまで側を離れないという。それは自らの死のリスクも背負った深い愛であるが、同時にそれだけの悲しみも感じているだろう。動物には感情などないなどとは言えるものではない。)



もちろん苦しみと歓びは表裏一体であるから、苦しみがなければ歓びも存在しえない。

地上のあらゆる "力" はどんな質のものであれ、それに抵抗する力の存在なしにはそれ自体が存在しえない。

従って "苦しみ" というピースは進化というプロセスの中には必要なエッセンスであったことは間違いがない。

とはいえ、"進化" が純粋に宇宙の目的に適ったことだとするならば、それを推進する要素としては生存競争、適者生存とかいったシステムだけで十分だったのではないか。
要するに身体の変化だけを "苦" に変換すればそれで良くて、心の傷まで相手にする必要があったのだろうか、ということである。

ー それはより前に進む為だ。
そのためには必要なことであった。

というのはここで問題にしている事と、本質においてズレている。

では問題の焦点をどこに絞ればよいのか?