思考の踏み込み

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それ以前8

2013-12-04 11:07:02 | 
さて、願いによってスタートした宇宙において最後に生まれた知的生命体である我々人類は、その宇宙そのものが物質的であるが故に有限なものであるという当然な事実に突き当たってしまう。

ここで4のメフィストフェレスのセリフに戻るわけだが、我々にはこの問題の解決が可能なのだろうか?



悲しみに始まった宇宙は再び悲しみに帰すだけなのか。

しかし、我々を生んだ彼らは我々に知性を与え、我々はそれを "智"へと高めてきた。
そのもう一歩先に有限世界に対する態度としてのある種の超越があるのではないか?
そのことは決して虚無的な原初への帰結ではなく、絶対的な永遠性を持つ光の世界への到達であるはずだ。

これは終末思想を煽り、人々の心の虚につけ込む宗教家の戯言ではない。

宗教における"信"というものが偏った心の状態であることに気づけば、宗教に騙されることはなくなる。
(極限まで追い詰められた者にはその偏りが力になることもあるが、それは結局、応急処置でしかない)

昭和日本における最高の名医といえるN氏はいう。

「 ー 本当に整えられ、統合された人間の身体は呼吸をするだけで"快" を感じるようにできています。」

彼らの"願い"に対する答えは実はすでにここに用意されている。

生の喜びを、苦しみも悲しみもー 全力で生きて味わい尽くすことである。
それは即ち、「熊楠」でふれた "顕花"
である。

百花誰がために咲くー

誰のためどころではない。
宇宙はそのために、いやそのためだけに創られたのだ。



そしてそのために必要なのは一呼吸分の時間があれば十分ではないか。
これはすでに有限な世界など超越した瞬間である。
そのときこそ時間は垂直な時間軸へと変化する。

ファウスト博士はそのことを悟り最期に叫ぶ。

" ー その「瞬間」に向かって私はこう語りかけてもいい!

時よ止まれ。お前は美しい! "




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