IPSO FACTO

アメリカの首都ワシントンで活動するジャーナリストの独り言を活字化してみました。気軽に読んでください。

2足の草鞋をはいたインディアン

2005-08-21 15:24:31 | テロリズム
金曜日、僕の姉がお茶の水女子大の先生と一緒に米国心理学会(APA)の総会で研究発表をした。どんな事をしているのか見てみたかったので、僕も金曜の朝に会場となっているコンベンション・センターまで行った。発表を行う場所は前日に聞いていたので、目的の場所まで行ってみたものの、そこに姉達の姿は無かった。それからすぐ、僕の携帯電話が鳴り、電話の相手は姉本人だった。どうも、僕が発表時間を1時間ばかり間違えていたらしく、すでに全て終わっていたのだ。「申し訳ないなぁ」と思いながらも、みんなと合流し、会場近くのレストランでランチをする事に。僕らはリーガル・シーフーズに入り、そこで姉達のメインイベントが無事に終了した事を、ニューイングランド名物のクラムチャウダースープとビールで祝ったのです。めでたし。ここのオイスター・フライ、何度食べても美味しいんだけど、フレンチフライの量がハンパではなく、ウェイターに「これ、多くない?」って聞いてみた。「それで腹一杯にさせるのが作戦だから」、彼は僕にそう耳打ちした。なるほどなぁ…。でも、オイスターは本当に美味しいので、機会があればトライしてみてくださいな。

ランチのあと、僕は少しだけ仕事に戻り、夕方になって再びみんなと合流した。国会議事堂近くに昨年オープンした国立アメリカン・インディアン博物館というのがあって、普段は夕方5時頃に閉館するが、この日は7時からAPA関係者の貸切となり、僕らもチケットを手に博物館を覗いてみる事にした。僕がアメリカ原住民に興味を持ったのは、ザ・ドアーズやダニエル・デイ・ルイスの映画の影響からではなく、アメリカに来てすぐの頃に読んだスポーツ記事がきっかけだった。1910年代にアメリカで最も有名なアスリートの1人にジム・ソープがいて、アイルランド系の父親とネイティブ・アメリカンの母親の間に生まれたソープは、野球(ニューヨーク・ジャイアンツ)とフットボール(当時オハイオ州にあったカントン・ブルドッグス)を掛け持ちでプレーした最初のプロ選手だった。昨日も感じたことだけど、アメリカに8年近くいるのに、恥ずかしながらアメリカ原住民についてほとんど知らない。近いうちに、博物館にもう一度行こうと、昨日の晩から考えている状態。

18日に国立公文書館のウェブサイトに掲載された文書によれば、アフガニスタンのタリバン政府は1998年に米国務省の代表者らと秘密会談を行い、当時すでにアフガニスタン国内に潜伏していたオサマ・ビン・ラディン氏の暗殺や国外追放について協議が重ねられた模様だ。ウェブ上で公開された文書は国務所内で作成されており、ケニアとタンザニアで発生した連続爆破テロ事件の首謀者とされるビン・ラディン氏の処遇をめぐって、アメリカとタリバンは911同時多発テロ発生の3年前からすでに外交活動を展開していた事実が明らかになった。公開された文書では、当時パキスタンの米大使館で要職にあったアラン・イーストハム氏とタリバン最高指導者ムラー・オマルの側近ワキール・アーメッド氏が、1998年の11月と12月に会談を行っており、アフリカの米大使館で200人以上の死者を出した連続爆破テロから数ヵ月後の事だった。

1998年12月19日に行われた会談では、タリバン側がビン・ラディン氏の大使館爆破テロ事件関与に驚きを隠せない様子が記録されており、アーメッド氏も「彼がこんな事をするなんて、今でも信じられません」と語っている。アーメッド氏はイーストハム氏に対し、アメリカ側のビン・ラディンに対する懸念をオマル師と話し合ったと語っているが、タリバンは最終的にビン・ラディン氏のテロ事件関与は無かったと判断したようだ。しかし、これより以前の1998年11月28日に行われた会談では、アーメッド氏がアメリカ側に対し、アメリカによるビン・ラディン氏暗殺のシナリオにタリバンが協力する事も可能だとの申し出を行っている。アーメッド氏は、米軍が巡航ミサイルを使用するなら、ビン・ラディン氏を特定の場所に連れ出せるだろうとも語っている。しかし、イスラム戦士の象徴的存在として迎え入れたビン・ラディン氏をアフガニスタンから追放するアイデアについては、タリバンの支持基盤が大幅に揺らぐ可能性があるとして、実行に移そうとはしなかったようだ。

秘密会談が行われる前、クリントン政権はアフガニスタン国内のアルカイダ訓練施設に巡航ミサイルを発射し、これによって22人が死亡している。犠牲者の中には多くの民間人も含まれていた。アーメッド氏はアメリカの軍事行動に怒りを隠せず、イーストハム氏との会談の中で、「あなた方はビン・ラディンを人殺しと言うが、アメリカの軍事行動はどうなんだ?これは犯罪ではないとでも言うのか?」と激しく抗議している。今回の国務省文書はアメリカとタリバンとの秘密交渉の内容を要約したもので、ワシントン以外にもパキスタンやエジプト、サウジアラビアなどで勤務する米政府高官に電信で送られていた。別の国務省電信(1998年10月)によれば、アメリカ政府はタリバンによるビン・ラディン氏引渡しをサウジアラビア経由で実施する事を強く希望していた。タリバン側がビン・ラディン氏の「無実」にこだわったため、秘密会談は物別れに終わってしまった。しかし、1998年の段階で、これまで伝えられてきた「人権侵害」ではなく、ビン・ラディンの存在が米政府にとってアフガニスタン問題の最重要課題に位置づけてられていたのは確かだ。

国内第4位のノースウエスト航空の整備士達が20日からストを開始したが、同航空会社のハブ空港として知られるデトロイト・メトロポリタン空港では、すでに2件の旅客機トラブルが発生している。210便が空港の滑走路に着陸した際、車輪タイヤの4つが破裂している。また、デトロイトからピッツバーグに向かって飛行中の1412便は、客室内で煙が出たとの報告から、離陸から数時間後にデトロイトに緊急着陸した。ノースウエスト航空によれば、デトロイトで発生した2つの事故で、怪我人などの報告は入っていないとの事。ノースウエスト航空は19日にもグアム国際空港で旅客機が着陸時に軽い接触事故を起こしており、日本人を含む3人が怪我を負っている。

全米航空整備士友愛会(AMFA)に所属するノースウエスト航空の整備士達は20日からストに突入しており、今回のストはノースウエスト航空側が計画する賃金カットやレイオフが原因となっており、ストライキに参加した整備士達は経営側の合理化プランに激しく反対している。アメリカ国内の航空業界では7年ぶりになる本格的なストライキだが、各空港でのメンテナンス業務は代替スタッフによって行われている。1998年にノースウエスト航空のパイロット達によって行われたストは20日間に及んでいる。今回のストは整備士達だけで実施されており、パイロットや客室乗務員らは参加していない。また、関連会社のメサバ航空でも、ノースウエスト航空の整備士に共感した一部従業員の間でストが計画されていたが、連邦裁判所によって却下されている。

労働組合と経営者側との話し合いは19日夜まで続けられたが、労働組合の調停役を務めるジム・ヤング氏がAP通信に語ったところでは、整備士達は「たとえノースウエスト航空が破産する恐れがあっても、会社側の要求に納得はできない」との主張を変えることは無かったのだという。AMFAにはノースウエスト航空勤務の整備士や清掃作業員ら合わせて4427人が加盟しており、これはノースウエストの従業員全体の約11パーセントに及ぶ。整備士の平均年収は約7万ドルで、清掃作業員は約4万ドルとなっている。経営難に苦しむノースウエスト航空は、整備士や清掃作業員の給与を25パーセント減らしたい意向を明らかにしており、これによって年間1億7000万ドルの経費削減が期待されている。しかし、整備・清掃部門は2001年にそれまでの半分の規模に縮小されており、さらに半分のサイズへの縮小に反発の声も多い。

午前中に姉達がワシントンを離れた。学会で来ていたため、わずかに4泊5日の短い日程だったけれど、久しぶりに家族とゆっくり話ができた事もあり、僕にとっては本当に楽しい1週間だった。姉達を空港に送ったあと、今日は1週間ぶりに部屋の掃除に取り掛かった。普段も、毎週土曜日が掃除デーになっているものの、今週はバタバタとしていたためか、掃除に気合を入れなきゃダメな状態に。リビングルームの机にはニュース原稿や新聞が散乱し、寝室の床は脱ぎ捨てたTシャツや靴下が文字通り積もった状態になっていた。掃除を済ませ、洗濯物を乾燥機に入れると、僕はそのまま友人らとコーヒーを飲みに近くまで出かけた。その時、近くの大型書店で新しい本を購入。「How Soccer Explains the World」は保守系雑誌「ザ・ニュー・リパブリック」のフランクリン・フォー編集主任による、サッカーを社会学的に見つめた1冊だ。僕は彼の雑誌を好きになれないけれど、この本には強い関心を持っている。サッカーと社会学をテーマにした本、ヨーロッパや南米では星の数ほどあるものの、アメリカ人によって書かれた物は極めて少ないからだ。ワシントン・ポスト紙のスティーブン・ゴフが僕に前に話していたように、サッカーをめぐる環境は確実に変わってきているのかもしれない。

に始まった事じゃぁ無いけれど、真夏ということもあってなのか、Tシャツを着てる女の子の二の腕には漢字のタトゥーが目立つ。単純な線だとか、チェ・ゲバラの顔なんかではなく、去年の夏あたりから漢字タトゥーが本当に多くなってきている。昨年5月にボストンに戻った時、久しぶりにダウンタウンでアメリカ人の友人と再会すると、彼女は開口一番、「漢字のタトゥーをいれたの」と言い出した。真昼間のダウンタウンで、ジーンズの後ろ側、ちょうど腰の下あたりに彫られたタトゥーには、「一号」という意味不明の文字が。「いい感じだね」と言ってみたものの、中国製ロボットの製造番号にしか見えなかったのも事実…。「愛」とか「友情」みたいなオーソドックスなタトゥーが多いんだろうけど、中には漢文そのものがモチーフの場合も。「漢字なら何でもいいや」と、その言葉の意味も調べずにタトゥーを入れてしまうケースも結構あるそうで、「肉野菜炒め:広東風」という中国語を「ラブ・アンド・ピース」という意味だと信じきってタトゥーにした奴が本当にいるような気がしてきた。