読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「思想地図」VOL1

2008-09-25 23:22:37 | 本の感想
 「ロスジェネ」創刊号と一緒に買った「思想地図」VOL1(東浩紀・北田暁大編)でおもしろかったのは、「社会的関係と身体的コミュニケーション」韓 東賢(ハン トンヒヨン)だ。ほとんど、それだけ。あとは難しくてあんまり読めなかった。これもむずかしそうなタイトルがついているけども、要するにケンカの話だ。副題は「―朝鮮学校のケンカ文化から」
 
 かつて1970年代の東京では東京朝鮮高校と国士舘高校の乱闘事件が頻発していたという。映画「パッチギ!」で高校生たちがガラの悪い格好をして喧嘩ばっかりしているのに呆れたけども、あれは校風だったようだ。
 東京朝鮮中・高級学校は、「異国の地にあっても民族の魂を持ち祖国の発展に寄与し日本の社会で活躍できる人材の育成を目的に在日朝鮮人子弟の中等教育機関として祖国解放の翌年(1946年10月5日)に創立」した当初は中級部のみだったが、48年に高級部が併設された。中、高級部ともに朝鮮学校において日本最初に設立された同校は、開校から一貫して日本最大規模の朝鮮学校でありその中心的存在である。GHQと日本当局による朝鮮学校閉鎖政策による都立化の時期(49年~55年)を経て、北朝鮮の海外公民路線を取る在日本朝鮮総連合会(朝鮮総連)の管轄のもとで自主化し、現在にいたっている。

この学校と連日バトルを繰り返していたのが国士舘高校。
 国士舘高校は1917年に国士舘義塾として創立し、48年の学制改革により国士舘中学校・高等学校となった。(中略)近年、改革が進んでイメージも大きく変化したが、80年代頃まではバンカラ、武闘派を代表するような校風で有名だった。創立者で初代総長の柴田徳次郎は保守主義的、右翼的な教育方針を掲げ、50~60年代の天皇誕生日(現昭和の日)には柴田自ら馬に乗って学生を観閲したというエピソードもあるほどだ。(中略)
(1973年入学した木村三浩 ~ 新右翼一水会代表 ~ によると)当時の国士舘高校では、入学式で「軍艦マーチ」が演奏され、入学直後には「共産革命を食い止めるため命をかけろ」などと書かれた創立者柴田徳次郎の著書が配られ、天皇誕生日には奉祝の「分列行進」があり、週一回の「訓話」という授業では関東軍作戦参謀でシベリアの収容所に強制収容された経歴を持つ校長代理が「日本のすばらしさ」を語りながら「維新の志士のように生きる」よう説く講義をし、ガクランを着て教育勅語を暗唱しろという教師が存在していたという。

これはヤバイです。どっちもどっちというか・・・出会ったらケンカになります。朝鮮高校の男子たちはグループを作って駅や電車の中を巡回し、バンカラ系の雰囲気芬々ふりまいているやつを見たら見つけ次第にケンカを吹っ掛けたという。
 彼らはこのように毎日列車内を「流し」て、「敵」を見つけると自らしかけて片っ端から制圧していった。一方で、誰かがやられたとか生意気なヤツがいるという情報が入ったり、「天敵」である暴走族が集会を開くという知らせがあれば「出張」することもあった。「国士舘は象徴的な相手で、他の学校は最初から向かってこない。まともに相手になるのは暴走族と国士舘だけ」(Eさん)だったらしい。


一方、彼らのケンカは、周囲にはどのように受け止められていたのか。
 (先生や大人は)やるなら負けるなとか、そんな感じとかね。あとは捕まらないいようにやれとかね。・・・・・(停学などは)あまり聞かれなかったね。・・・・ケンカではね、怒られるけど、そりゃ学校側もメンツがあるからね、怒られるけど、でもそんなには怒られないかな。(Aさん)
 
 誰に聞いてもだいたいこのような感じで、ケンカで警察に捕まっても停学や退学などの処分を受けることはほとんどなかったという。ではそれは学校の方針だったのか。「学校の方針としてというのは別になかったが、そんな風に厳格にしていたら、どれだけ多くの生徒が退学になって、いなくなっていたか」と語る元生活指導担当教師のFさんは当時、「生徒たちの学ぶ権利を守る生活指導部」というスローガンを掲げていたという。


お、おもしろい。「パッチギ!」のあの一種ヤクザ映画みたいな天真爛漫な明るいケンカはそれだったのか。 そのような朝鮮高校の「ケンカ文化」が日本の不良高校生たちの畏怖や尊敬の対象となり、また一種のカッコイイスタイルとして隠語に取り入れられたりしたらしい。
 そして、それだけ毎日毎日集団で乱闘して、警察にもしょっ引かれてたのに、死人が一人も出ていないっていうのはすばらしいことだ。
 集まってケンカするのはいけないことだったかもしれないけど、団結することを知り、団結してケンカするのが、自分たちの権利を守ることだと思ってたし、生活を守ることだと思ってたから。(Fさん)

 彼らの論理の「正しさ」はケンカでの勝利はもちろん、周囲の好意的な対応を通じて再認識され、警察沙汰になった際の差別的対応などを通じてさらに補強され、「伝統」となっていく。このように、彼らにとって「正しい伝統」であったからこそ、恐怖を感じながらも使命感を持ち、決死の覚悟、捨て身の「ハッタリ」で、強い敵を相手に精神的優位に立つ先手必勝の戦法で挑んでいけたのだ。

 彼らにとって、ケンカは「集団的伝統」であり、一種の「身体的コミュニケーション」であり、「マジョリティー/マイノリティー間の権力関係を(一時的にでも)無化するフィルター装置としての機能」であり、「マイノリティーとしてのアイデンティフィケーションの困難を回避するための一つの装置」となっていたのではないかと著者は推測している。めちゃめちゃおもしろい。死人が出ないのならどんどんやるべきじゃないのか?

 しかし、実際にはそのような「ケンカ文化」は80年代後半から90年代には限りなく下火になり、その代わりに「チマ・チョゴリ切り裂き事件」のような個人、弱者をターゲットにした陰湿な襲撃事件が頻発するようになった。で、著者は言う。
そこに身体の対等性や、アイデンティフィケーションの困難を回避するフィルターとしてのコミュニケーションは、おそらく、存在しえない。
 こうした「コミュニケーション」の様態の変化は、当然のように日本社会の変化の問題でもあるが、同時に、60~70年代の高度成長80~90年代のバブル経済を経て、「変化」してきた在日の側の問題でもあるだろう。では内と外の境界線は変わったのか、変わらないのか。その裂け目は埋まったのか、深まったのか。

 うーん、やっぱり、こういうネアカな乱闘が可視的に存在するっていうのはいいことじゃないのかなあ。一見穏やかで平和に見えても、親が子を殺したり、陰湿ないじめが全国津々浦々で頻発して死人がボロボロ出るような今の社会はとても健全とはいえない。朝鮮高校の生徒も国士舘の生徒も、イデオロギー対立が背後にあったわけだけど、それが韓国のように流血の大惨事に発展するのじゃなくて小競り合いをやってるうちにガス抜きができて、またそれを容認するような雰囲気が当時の日本社会にあったということだろうと思う。韓国の反共主義者たちは当時の日本を批判していたらしいけど、私はこういう緩衝地帯(日本)があったことはよかったんじゃないかと思った。もちろん、朝鮮総連の活動と韓国の民主化運動とはいっしょくたにしてはいけないけども。そして、ちょっと誤解されるかもしれないけど、人間多少のストレスがあった方が長生きするらしいから、こんなふうに「相容れない思想」の他民族が隣に住んでいて、時々はらわたが煮えくりかえるような思いをして、健全なバトルをするっていうのはかえって日本社会にとってプラスの方向に働くのではないかなあと思った。

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