読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

村田喜代子「雲南の妻」

2008-09-19 23:54:47 | 本の感想
 「決断主義」のところで引用した宇野常寛×宮台真司の対談の最後の方に
宮台 でも宇野さんが「頭のいいネオコン」的立場に立つなら、時代に取り残された中間管理職的知識人や少し頭の変な連中が、安全に吹き上がれる論壇誌や文芸誌が存在するのは、いいことじゃない?居場所の提供という意味で。

という発言があって、「論壇誌はともかく、文芸誌で吹き上がっている『少し頭の変な人』って、たとえばだれよ?」とちょっと気になった。

 もしや、論座6月号で特集が組まれていた私の好きな笙野頼子さんかっ?!あ、あのロリコン嫌いと容姿コンプレックスと憑依体質はあの人独特のスタイルで、そこがいいところなんで・・・違うか・・・はっ、もしや「核シェルター」のところで引用した春日武彦氏?・・・いや、あの人は「頭の変な人」を治療する側だって・・・いやいやもっと近い知識人っていえば「素粒子」並みに怨嗟たっぷりの「モテない男」小谷野敦氏?・・・はたまた逆に「モテ過ぎて困る男」し、し、し、(以下略)
 もっと大物かもしれないけど「頭の変な」だけで思い浮かぶ人がいろいろいる文芸誌ってのはちょっといかがなものか。論座も休刊してしまうし、文芸誌もあぶないんじゃないか。
 
 先月(8月27日)の朝日新聞 文芸時評「デビュー後のレース」で斎藤美奈子さんが「最近の新人の作品はどうも換気が悪い、閉塞的だ」というようなことを書かれていた。「群像」の「新鋭創作特集」でデビューした作家たちの短編小説のタイトルが「教師BIN☆BIN★竿物語」「ちへど吐くあなあな」「ちんちんかもかも」だそうだ。
 うそだろー、と思ったらほんとのようだ。(読まれた方のブログのメモ)「ちんちん」と「あなあな」で換気が悪かったらインキンになるだろーが。とても読む気になれない。「ちんちん」はほのぼの日常系で、「あなあな」は妄想炸裂系だそうだ。元気で暇な人が読んでくれ。私的には、歯がどーしたこーしたとか、卵子がどーしたこーしたというような感覚に訴えるのもちょっとパス。もーこの年になったら、わび・さびが入ってて「遠山に日の当たりたる枯野かな」みたいなんで十分です。


 と、思っていたところ、スカートの中をさわやかな風が吹き抜けていくような滅法風通しのいい小説にあたった。村田喜代子「雲南の妻」(講談社 2002年)。図書館でたまたま借りたのだけど、やっぱり村田喜代子はいいよねー。

 ちょっと前に読んだので忘れてる部分もあるけど以下はあらすじ。

 主人公は、以前ある団体で講演会を主宰したのだが、その時の講師であった地雷撤去のボランティアをやっている男性から不思議な話を聞く。その男性が昔、交通事故で重傷を負って生死の境をさまよっていた時に見た夢の話だ。一か月もの間ずっと意識不明でいる間、夢の中でどこか別の国にいて、別の人生を生きているという夢だ。東南アジアの田舎らしい小さな家で老いた父親と妻と子どもたちとでおだやかな生活をしているというのだ。夢の中でとても幸福であったのだが、目が覚めてしまった瞬間、元の自分に返っていて、猛烈な激痛と、長い闘病とリハビリ生活が始まったという。

 主人公はその話を聞きながら25年前の自分の体験を思い出す。改革開放が始まったばかりの中国で、中国茶の輸入の仕事をしていた夫とともに雲南省に住んでいたときのことだ。希少価値のあるような高級なお茶は僻地の少数民族の村でつくられていることが多いので、夫の北京語だけでは用が足りず、英姫という通訳の娘を雇っていた。少数民族出身の英姫は才色兼備のキャリアウーマンだ。夫は警戒心の強い少数民族の村でなんとか信用を得て取引をしたいと悩む。そこで英姫がひとつの提案をする。主人公と英姫とが結婚すれば、出身の村で姻戚関係ができるからお茶の仕入れに食い込むことができるだろうと。
 彼女の生まれ故郷あたりでは女同士で結婚する風習がある。男嫌いだったり、仕事を大事にしたいのでまだ結婚をしたくないという娘が、それでは社会的に一人前と認められないので、仲の良い年上の女性のところに嫁ぐのだ。女性がすでに夫持ちでもかまわない。一緒に暮らし、茶摘みや家事で協力する。夫の2号さんになるわけではない。あくまで夫婦なのは女性の方となのだ。えー、と最初主人公は躊躇するが、だんだん英姫のことが気に入り、その気になってプロポーズをする。夫には商売のためだからと言うが、実はそれだけじゃないいろいろな心の動きもある。だけど、とうてい説明してもわかってもらえそうもないからそこらへんは黙っている。なんかわかるなあ。大学のころ、同じ下宿で生活していた上級生と毎晩ご飯を食べながら話をするのがとても楽しかった。同性同士で一緒に暮らすということはこんなに気楽で、以心伝心で、楽しいのかとしみじみ思ったものだ。「結婚したいくらいだ」とあの頃言っていた。もし、あのまま独身であの人と一緒に暮していたとしたら私はきっともっとましな人間になっていただろうとちらっと思うこともある。
 主人公はひとつ屋根の下、夫と英姫の寝室を代わる代わる訪ねて泊まる。合歓の木か何かの下に二人座り、夕飯のもやしの根を取りながら英姫は村に伝わる昔話をする。(男は黴の息子なのだそうだ)。足を開いてスカートに風を入れ、「風を入れたほうがよいのです」と言う。なんて風通しのよい小説だ。世の中は広く、いろんな人がいて、いろんな風習もあるんだということを思い出させてくれる。ちんちんとあなあなだけじゃないよ。こういう、友情でもなく、男女の恋愛感情でもない同性のおだやかな愛によって結ばれた関係ってものもあるのだ。

 やがて突然の別れがやってきて、日本に帰った主人公は半身をもぎ取られたような喪失感を抱きながらも決して雲南のことを誰にも話すことはないのだ。まるで、あの男性の夢のように、雲南で妻を持ち、幸福に暮していたという記憶が、どこか遠い別の世界の出来事だったように、ほんとうにあったことだったのかどうか自信がなくなるくらいおぼろに霞んでくるのだった。


 やっぱり村田喜代子っていいなあとそのあと図書館に行ってありったけの本を借りて読んだが、やっぱり短編も長編もよかった。よい小説を読むと、よい中国茶を飲んだような、寿命が延びたような気がする。

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