navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

遥かなるバルカンの空の下へ-20

2009年01月11日 | 日記
結局途中のオフリド湖畔の街ポグラッデツァでは両替もATMで現金の引き出しもできなかった。

街の入り口近くに一見まともな構えをした銀行があった。ガードマンらしき体格の良い制服姿の男が入り口に立っていたところだったのでなんとかなると思ったが営業休止中らしく期待はずれに終わった。
アルバニアの通貨レクが無くても手持ちのユーロでなんとかなるだろうと思いなおして先へ進むことにした。

オフリド湖を後にしてからはカンダヴェ山脈が源流のシュクゼン川に沿って走る国道SH3/E852でエルバサンを抜けそして平野部を北上してアドリア海に開かれた港湾都市デュレスまで行く。
道程は180kmぐらいなので道路状況にもよるが3時間弱でたどり着くはずである。
そのデユレスで適当なホテルを探して宿泊する予定である。

国境をあとにしてからずっと対面交通路で道幅は狭く見通しの悪いコナーが連続する山峡路を走る。オフリド湖半の南端にあるポグラッデツァの街並みを抜け出たあたりで運悪く大きなダンプカーみたいな車に前をブロックされしまった。
一向にスピードが上がらぬままそのダンプカーの後ろに仕方なくついて走ることになった。

山峡を縫う様にして建設されている道路ではあるが最近舗装されたばかりのようでアスファルト路面状態は予想していたよりもはるかに良い。

シュクゼン川の中流域と思われるあたりで右手側に水量の少ない河原砂礫がみえてきた。
日本のどこにでもある中流域を思わせる大きな石ころや砂礫の上を数頭の茶色い牛と牛飼い一家らしきの人たちがのんびり下流へ向かってうごいている。
しかしそこには牛が食べるような草はなく石ころや砂礫以外は川の水があるだけである。たぶんほかの草地か家へ帰る途上だったのだろう。
この辺りまで下ってくると道路の両側からせまる山々の傾斜面も幾分ゆるやかになって山峡を流れる川幅もきゅうくつさが和らぎのどかな風景がひろがりはじめている。

今日走る予定のルートは古代ローマ帝国時代に建設されたエグナティア街道と呼ばれている軍用道路に沿っている。
エグナティア街道は紀元前2世紀に帝国東方地域とローマを結ぶ“すべての道はローマへ通ず”のひとつとしてローマ主要幹線街道として建設された街道で総延長距離1200kmもある。
この街道はこれから向かうアドリア海沿岸のデュレスからオフリド湖北岸を経由して南下しギリシャを東進して今のトルコはイスタンブール(当時はヴィザンチウム)が向こう側の終着点となる。
ヴィザンチウムは地勢上ボスポラス海峡対岸の小アジア(アナトリアとその東方地域)や黒海沿岸地域への重要なアクセス拠点であった。

一方デュレスからはアドリア海を挟んで対岸イタリア半島東南部のブリンディジからカプアを経てローマまでこっちは最も有名なアッピア街道がつながっている。その街道は約500kmの道程がある。
この二つのローマ街道はその帝国史上ジュリアス・シーザー、ポンペイウス、アントニウス、オクタビアヌス、カッシウス そしてブルータスとそうそうたるきら星の面々がその役まわりを競い演じた舞台ということでもある。
そのはるか後にエルサレムへ向かう十字軍の遠征にもまた平和時には交易路としても東西ローマ帝国史上最も重要な街道といわれている。

実はこのローマ街道のことであるがわが国の新幹線とつながりがある。
舗装敷石に刻まれた戦車の轍の幅が新幹線のレールの幅(1m43.5cm)とまったく同じなのである。
なんとも中途半端な寸法のようであるがそもそもの源はローマ帝国軍戦車をひく軍馬2頭分のお尻の幅なのだそうである。
大帝国ローマ軍でつかわれた軍馬の尻幅がはるか2,000年のちわが国中に張り巡らされた交通大動脈としての新幹線とつながっているとはなんともおもしろい。

ちなみにローマ街道の道幅はすべてがまったく同じには造られていないが標準値としては主道が約4~6mで排水溝を挟んで両側に各3mの歩道がついている。
舗装部の敷石はその1個の大きさがなんと70cm立方体が基本となっているのだそうである。
そういえばローマから南東へ向かっているアッピア街道は今でも幹線道路と平行して現役として残っているところさえあり、また所々には掘り起こされたそのごつい大きな敷石が道端に無造作に転がっている。

ローマ帝国の街道網は幹線と支線を合わせると総延長23万kmにもなったそうである。
特に欧州大陸では1830年代のはじめに英国ですこし送れて欧州大陸でも鉄道網が敷設されはじめるまではずっと馬車交通が主役をつづけて来た訳だからローマ帝国隅々まで張り巡らされたローマ街道網の意味と存在は長い欧州歴史上とても大きいと思う。

ナチが構想をたて建設したドイツを中心に国境を越えて張り巡らされたアウトバーン網もその概念や目的は同質である。
俗っぽい一例だが邦人観光客に特に人気があるドイツのロマンティック街道も古のローマ街道網の一部である。

エルバサン近郊を走っているとゆく手ひだり側、ぴかぴかと午後の陽光を反射してまぶしいま新しいガードレールのむこうに思いがけない風景が拡がった。

全身すべてこれ赤さびの衣装で覆われた巨大な製鉄所らしき建造物群がこつ然と現われた。
抜けるような青空を背景にして実はこれハリウッド映画のセットですと言ったほうがぴったりするような巨大な建造物群が広い敷地のあちこちにまるで廃墟のように建っている。
隣り合った2組の巨大な高炉の近くにさらに一番高いもので100mはあろうかと思われる巨大な煙突が3本そそり立っている。
不気味な威容を放っているそれら巨大な建造物の間にはこれまた巨大な三角屋根の工場らしき建て屋がいくつも連なって並んでいるのがみえる。
しかしどの煙突からも煙はたちあがっていない。
どこを見ても作業車や人影もまったく見えない。

この全身赤さびた巨大建造物群は19070年代毛沢東が健在だったころの社会主義中国からの経済援助のひとつとして建設された製鉄所だそうだ。
当時アルバニアが国交を持っていたのはその中華人民共和国だけである。
その中国との密月は1978年に終わる。
アメリカと国交を開始し市場経済へ方向転換して行く中国とは袂を分かった。
アルバニアは妥協を一切断ち切ったスターリン型社会主義の実践として正真正銘孤独な鎖国体制を選択していったのだ。

孤立社会主義を地で行くこの国は自給自足で自立するためにはこの旧式中国製製鉄所でも役に立ったのだろう。
最盛期には30000もの人たちが働いていたそうである。
しかし80年代後半からの旧ユーゴ諸国を含めた東欧革命による急激な体制変化と開かれた市場経済の激しい急激な変化のまえには旧式で低効率の製鉄所では生産性とコストがとても太刀打ちできないことは明白だったようだ。

そして徐々に溶鉱炉の火が消えて行ったのだ。
2006年に最後の火が消えてからは今見るようなまったくの廃墟になってしまった。
それからはこれも下手なジョークのようであるが生産した鉄材の販売ではなく高炉施設自体を削るように鉄材源としてすこしずつ切り崩して近隣諸国の業者へ身切り売りしているのが昨今の状況らしい。

ただ今も昔も工業国とは対極に位置するようなアルバニアという小さな貧しい純農業国にたとえ中国の援助があったとしてもスーパー重工業の製鉄所を建設してしまったという事実は独裁者ホッジャ社会主義体制の妄想のばからしさとそら恐ろしさを感じる。
そしてあの膨大な建設費をかけて設置したアルバニア国中に今も700,000個もある侵略者を迎え撃つためというブンカーの像がダブってくる。

「ゴォーオ~」という大きな轟音をあたりにひびかせながら後方左側から大きな黒い車が猛然と加速しつつ自分たちを追い抜いて行った。
*(車)**(ダッシュ)**(涙)**(青ざめ)*

それは山のように大きく真っ黒な車体にフロントグラスのぞく3面すべてこれまた真っ黒な窓グラスを配した独国製大型SUVである。
ハザードライトを点けっぱなしでさらに前方の車達を威嚇するためにパッシングライトを機関銃のように撃ち放ちつつ同時にけたたましいクラクションの咆哮をあたりにまき散らしながらとんでもないスピードで対向車線どまん中を強引に突進して行く。

日差しが長い夏とはいえ太陽がアドリア海の向こうへ落ちかかっている時刻である。
目指すデュレスの街はここから10km足らずのところまで近づいて来ている。
夕方ということで交通量もまた先を急ぐ車がますます多くなっているような感じがする。

そしてその黒い大きな車であるが自分の車を含めて十数台もの先行車を強引にかつ一気に追い越そうとしているのだ。
その車が走っているところは対向車線上である。
そこには、当たり前であるが進行方向がまったく反対方向へ進む車たちが100km/hぐらいの速度で途切れなく走行中である。
だからどう考えてもその大きな黒い車が走れるところはない筈である。
だがその大きな黒い車は走れるはずのない対向車線の路上どまん中を轟然と突き進んでいるのだ。

いま目の前で起きていることはこういうことである。
対向車線を走っている車たちは急ブレーキを駆けつつ左路肩ぎりぎりまで寄ってその大きな黒い車のために本来は自分達が当然の権利として走るべき道路を無理やりゆずらされてしまっている。
そうしなければほぼ確実にその場で事故死するかよくても重傷を負うのは避けられない状況にあるからだ。
たった今まで走っていた道路が、そう自分たちが走るべき場所が、とつぜん消えてなくなってしまったのだ。
躊躇する時間さえない。有無を言わせない。避けるしかない。
いま自分たちへ向かって突進してくる大きな黒い車=黒い狂獣との正面衝突を避けるためという単純で必死な理由である。

ふつう路上では場所と状況によっては追い越したり追い越されたりする。
どこにでもあるごく普通の光景である。
そして車の流れが混んでいるようなときはたとえ急いでいてもしばらくは前を走る車のあとについて走ることは当たり前のことである。
たとえばつい1時間半前の自分がそうであった様に。

ところがここではどうやらそうではないらしい。
秩序や節操をもった走り方とはまったく無縁である。
われ先に走りたいという自己中心的な我欲だけしかないらしい。
だからほかの車たちは無条件で道を譲らねばならないという一方的で横暴な論理を通すための他者への強制である。

モラルはおろか交通ルールへの尊守などはみじんもみられない鳥肌が立つような殺伐としたふるまいである。
まったく狂気の沙汰としか思えない。
外の世界からやってきた私のような旅行者にとっては衝撃的ですらある。
あいた口がふさがらない危険な運転である。

さらに状況によっては最悪な事態へ発展しかねない。
なぜならその同じ道路の路肩にはしばしば牛や山羊あるいはロバを連れた大人や子供も歩いている。
また農産物を運搬中の馬車もまたトラクターとあまり違わないスピードでのろのろと走る運搬トラックなども走っている。

しかしここでは日常茶飯事な出来事なのだろうか。
そしてそういう無謀な運転に起因する痛ましい交通事故が。
今日アルバニアへ入国してからエルバサンへ向かう途中でいちばん最初にそういう場面へ出くわしたときは偶然遭遇したごく稀なケースかと思っていたのだが実はそうではないらしい。

午後に入国してから140KMたらずの道程を走ってきた訳だがここに来るまでにこういうとんでもない運転をする輩にもう数回出くわしている。
そのうちの一度は逆方向つまりこちら側走行車線を逆送して突進してくる黒い狂獣に出会っている。
その時はほかの車とともに路肩端へ避難してなんとかやり過ごした。

しばらくは心臓のドキドキ音が聞こえ、そしてうなじから背筋に冷や水がながれおちたようにうすら寒くなった。
正直なところ殺気さえ漂っていたようで恐ろしかった。
ひょっとするとあの黒い狂獣を運転している輩はコソボ解放軍に連なるアルバニア過激派組織の大兄い達かもしれない。
突進して行く黒い狂獣からはそんな強面する迫力満点のオーラがあたりに発散されているようだった。

そうかと言ってほかの車はマナーがよいかというとそんなことは無くけっこうでたらめでひどい運転をする。
ほとんど例外なくむやみやたらとクラクションを乱用する。
そのことは翌日たっぷり思い知らされることになった。

アルバニアでは社会主義時代は個人所有の車はなくすべて政府の管理と所有だったそうである。
個人所有車として運転できるようになったのはついこの間1992以降からだそうである。
ついこの間まで馬車しか乗ったことの無いような人たちが一気に車社会へ参加したのだから交通ルールやマナーなどは付け焼刃ほどにも身についていないのは仕方が無いことかもしれない。

どうやらこの国では“サバイバル”モードでとくに注意して運転せねばならないようだ。
生きて無事この国を出るためには。

今日の目的地デュレスの名が書かれている標識が見えた。
たぶんあと10km足らずでデュレス市街へ入るはずである。
この辺はアドリア海岸線に沿って南北に走っている平坦で単調な直線がつづく幹線道路である。

入国してからここまで走ってくる間にひとつ気づいたことがあった。
この街道の両脇には豊かな農耕地の広がりのほかにはまばらな人家やガソリンスタンドそして農産物の集積所風の建屋がときおり目につくぐらいで活発な商工業を思わせるような建造物はほとんど見当たらない。

そんな景色の中に妙に目立つものがあるのだ。
それは道路わきに花を添えたお墓のようなものの存在である。
道路の両側に平均すると1km区間に1基かそれ以上ある。それらのほとんどが比較的あたらしいもののように見える。

あくまでも推測でしかないがおそらくそれは交通事故でなくなった人のお墓のようにみえる。
たいていは道端に道路縁から1mぐらいのところにこちらへ向けてポツンと1基か稀に2基並んで建てられている。
大きいのもわずかにあるがほとんどは小さなつくりの墓石ように見える。
たいてい切り花が供えられている。
ま新しいのもあるがすぐに炎天に焼かれてしまうのでしおれるかすでに枯れかかっているのがおおい。

正教徒とカトリック教徒についてはお墓についての知識を多少は持っているがイスラム教徒の場合はよくわからないから信仰宗教に関わるものだろうか判断がつきかねる。
そのお墓のように見えるものがたとえば交通事故の犠牲者に関わることだとするとこの国の風習で信仰宗教を問わず祠のようにつくってあって身近な故人を弔うためなのだろうか。
とはいっても実際にそこに遺体が埋葬されているわけではないだろうが?

旧ユーゴスラビアを含む旧東欧地域でとくにカトリック信仰の篤い人たちが住む地域へ行くとよく村道の道端や辻かどなどに小さな聖母マリアの祠が奉られている。
日本では道端のお地蔵様のような存在である。
そしてここにあるものはやっぱり故人を弔うお墓のように見えるのだった。
するといま自分はお墓が並んだ間の道路を走っているのか…

そう思うとなお更注意して運転しようと心がけて先へ進んだ。

夕方の混雑で込みあう道路を道路標識に従ってデュレスの市街へ入って行ったつもりであるがなかなか街中らしき所へたどり着けない。
ましてやホテルらしき建物もまったく見つからない。
せいぜい目につくのは埃っぽくくたびれた風体の店がつづく街並みぐらいである。
いよいよ赤い陽が落ちてきて街並みに夕暮れの闇が漂い始めている。
今日はオフリ湖半の青空市場でもとめた葡萄ひと房以外にはなにもお腹へいれていなかったのですきっ腹が堪える。

デュレス市街地の地図もないしそれ以前に道路標識がいい加減なのでどうしてもホテルのあるデュレス中心街へ入っていけないのだ。
中心街はおそらく港に面した一角にあるはずだが。
さらに夕闇が深くなりもう一度だけと自分に言い聞かせながら別な街路を進んで行った結果、狭い暗い貧民街のような雰囲気が漂う袋小路のようなところ入ってしまった。
この時点で予定変更をすることにした。

どうしてもホテルにたどり着けないここデュレスの街で宿泊することは諦めて、もっとホテルが探しやすいと思う首都ティラナへ向かうことにした。
手持ちの500、000:1 F&B地図によればここデュレスからティラナまではアウトバーンでつながっていてその距離わずか30kmほどと示されている。

今晩休むことになるはずの快適なベッドと何かわからぬがとにかく美味しい夕食メニューを想いうかべつつ先ほど走ってきた道路を逆戻りする。
*(温泉)**(ビール)**(紅茶)**(カレー)**(ラーメン)**(そば)**(パスタ)**(天丼)**(グッド)**(ニヤ)*

あいかわらず読みにくい道路標識にてこずりながらそれでもほとんど夕闇に塗り込められつつある“幻の街デュレス”を後にしてティラナへ向かって走りはじめた。
しかしどうしたことか道幅は狭くなり街灯などはまったく設置されてない真っ暗闇の道路に入ってしまったようだ。
それも大きな穴ぼこだらけのひどく荒れた峠越えみたいな勾配が繰り返される道路を走ることになってしまった。

ダッシュボードの時計はすでに
午後8時30分をすぎてしまった。
*(時計)**(三日月)*

このまま進んで行って本当にホテルへたどり着けるのだろうか?
すきっ腹と疲れがこの心細さを逆なでしてくる。
そんなところをのろのろ走っていたら道端の家から姿はまったく見えないが飼い犬の吼え声が窓から飛び込んできた。

お前までこの俺を苛立たせるのか!
*(最低)**(激怒)*

ドアが開かない

2009年01月07日 | 日記
今朝車に乗り込もうとして鍵穴へキーを差し込んでドアを開けようとしたらキーシリンダーがっちり凍結していてまったくいうことを効かなかった。
*(車)**(汗)**(汗)**(怒り)*
*(涙)*
それではと助手席側のドアーで試してみたらそちらの方がやや凍結ぐあいがゆるかったようで、しばらく続けていたらやっと開錠(セントラルロック式である)することができた。

やれやれと今度は運転席側のドアへ戻って中へ入ろうとドアを開けようとしたらしたらまだロック状態のままだった。
このドアのキーは頑固に凍結しているらしい。
なんとか内側から明けるべくあれこれ試していたらとにかくドアを開けて中へ入ることができた。

さてと、ではエンジンをスタートして出かけようとしてそのドアを閉めようとしたらこんどはキーがバカ(開いたままの状態)になってしまっていてドアをしっかりと閉められないのだった。

色々あれこれ試してみてみるうちになんとかドアを閉めることができるようになったのでやっと出発することができた。
このために10分以上も費やした。

原因は今朝の極端な冷え込みと高い湿気である。
私達が住んでる北海沿岸に近いこの辺でも降雪はないが氷点下8℃だった。
朝のテレビニュースを観ていたら欧州内陸部のドイツ東部では氷点下24℃で吹雪とか軒並み猛烈な寒波に見舞われている。*(結晶)**(結晶)**(結晶)**(青ざめ)*

おかげで家の周りの水路や近くの湖は氷がガチンガチンに張ってきた。
今日はその氷の上でスケートをする人たちをあちこちで見かけるようになった。

今現在の外気温は氷点下8℃だから明朝はもっと寒くなりそうである。
鍵穴へ不凍結液を注しておいたが明朝はドアが開くだろうか?

*(グッド)**(最低)**(怒り)*





物足りないんだよなぁ

2009年01月01日 | 日記
新年明けまして
おめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。*(音符)**(晴れ)**(ウインク)*

ここも例年の様に花火と爆竹で年が明けました。
今はもう静かなもんです。外は氷点下2度ぐらいかな。

この年明けを花火と爆竹っていう風習はいつからどこからやってきたのかな?

新年は明けたけどそれだけ…
日本で言うお正月の文化を敬って祝うなんて粋なならわしはまったくなし。
明日(2日)からはしらっとまったくいつもと変わらぬ日々がつづくだけ。

キリスト教信仰が来るまではここ西欧にも風土に密着した土着信仰があったはずなんだけど。
クリスマスだってもとはミトラ信仰の冬至を祝う習慣を4世紀頃にキリストの誕生日って勝手に決めた習慣だしね。

どうも味気ないな唯一神教の世界は人工的すぎて。

という訳でせいぜい日本のお正月っぽい食事をいただいて幾分なりとも雰囲気を味わうこととします。*(みかん)**(お茶)**(日本)**(ニヤ)*