navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

ウクライナ方面への旅-6

2006年09月26日 | 日記
あさ目が覚めると直ちに部屋のカーテンを少し開けて窓から外をみた。

やっぱり強烈な青空が広がってもう相当暑そうだ。
夏の早朝の光が溢れ目を細めてもまぶしいぐらいだ!*(晴れ)*

窓の下の街路には夏のリゾート地らしくもうこんな時間にもかかわらずよく陽に焼けた水着姿の人たちが歩いている。
家族連れや友達同士らしき人たちで海浜へ出かけるのだろう。

我々の部屋が受付のすぐ前にあるので朝食を食べにドアを開けて外に一歩出るとすかさず受付嬢のこぼれる様な微笑みいっぱいの朝の挨拶がきた。
*(ハート目)*
これも朝の陽射しの様なまぶしさ!!
こっちもそれに負けぬくらいの微笑みで応えた。

今日は市内観光とオデッサ港に行く予定だ。
まだ市街地図も入手できてないのだが...

しかし昨日とは違い今朝は土地勘が冴え, ホテルを出てからわずか15分ほどでまずはオデッサ客船埠頭にたどり着けた。

埠頭のターミナルビル内にある幾つかの旅行会社を探してみたが, 残念ながらルーマニアのコンスタンタ行きのフェリー便は見つからなかった。*(最低)*
土曜日なのか大半のオフィスは閉店で開いているのは2店だけだった。

仕方がないので, クリミア半島へ移ってから改めて本命セベストポーリ港からのフェリー便を探す事にしよう。

港を背にして街並みの方を見やると正に景観のど真ん中に”ポチョムキンの階段”が見える。

まあいわばオデッサ観光の目玉的存在かな。

その反対側はももちろんオデッサ港が構えている。

で, 予想したほどは大きくないオデッサ港の向こうに拡がるのは紛れもなく”あの黒海”でした。

ガイドブックの中で読んだ黒海ではなく, 誰かの旅行記の写真に映っていた黒海でもなく, 何度となくながめ想像を巡らせた手持ちのフレイタク&ベンド地図帳の黒海でさえない“あの黒海”なんだ。

客船埠頭の先端に聳え立つ近代的な高層ビルホテル・オデッサの背後に陽光を受けてキラキラ煌めいて広がる大海原が”あの黒海”なんだという想いがひたひたと押し寄せてきた。

そう一昨年の夏休みに行ったイスタンブールとボスポラス海峡クルーズで無念にも見逃した”あの黒海”です。*(グッド)**(波)*

ほとんど波らしい波が見えないくらい穏やかな海水面で遠くには青空と混ってしまいそうに淡いやさしい水平線が広がっている。

かもめが青空に散らばるわずかな雲と雲の間を舞っている。

日本の海とは違って潮の香りが希薄だ。

そこの客船用埠頭には2隻の大型フェリーボートが停泊中。
いずれも帰港して間もないのか下船する船客らと港の作業員や税関史らでごった返している。

今いるターミナルの最上段にある岸壁の手すりに寄りかかってボートの近辺でうごめく人たちを俯瞰することが出来る。

目の前のボートはここオデッサとトルコのイスタンブール間の定期船らしい。
船尾の乗降口をぱっくり開け放って慌しく大勢の船客と彼らの携行手荷物(殆ど貨物ともいえそうな代物)を埠頭に大量に吐き出している。

またすこしはなれた別の埠頭には大型貨物船が3隻停泊している。

あの貨物船は何を積んでどこへ向かっていく船だろうか。
大きさからして地中海のどこかの港かもしれない。


大昔, いや, ずっうとずう~と昔のことだが以前の黒海は内陸の淡水湖だったそうだ。*(驚き)**(砂時計)*

最終氷河期が終わる頃だから今から約7000年ほど前のことだ。

解けた膨大な氷水が海に流れ込んだため地中海の水位もどんどん上がっていった。
そして今のダーダネス海峡そしてボスポラス海峡の辺りの地峡に溢れだした。

溢れた海水=東地中海の海水がそのときはまだ内陸淡水湖だった黒海に大洪水のごとく流れ込んだらしい。
*(雨)**(雷)*
それまでの水位から一気に170メートルも上昇した為,付近に在った集落は押し流がされまた周辺の集落は新しい湖底に沈められて。

それを裏付ける黒海の海底地層の探査が今世紀に入ってすぐ行われた。

トルコ沿岸近くの湖底には集落跡らしきものが発見された。

また, アメリカの地理学協会グループの探査結果によれば海水性の貝殻がある地層の下に淡水性の貝殻の地層があってそれらの境界層は約7000年前という結果がでたという。

それからまるで別のことのようだが, あの旧約聖書の創世記として記されている”ノアの箱舟”の話にも糸がつながってくる。

その異常な大洪水伝説もちょうど紀元前4500年頃の出来事で奇妙に探査結果の年代と符合するらしい。

そんなことからこの箱舟の話は単なる伝説ではなくてじっさいに有った事かもしれないといわれている。

それを裏付けるようなニュース(50年ぐらい前の)なんですが,創世記の”ノアの箱舟”の残骸らしき木製の巨大な長方体がアルメニアとトルコの国境に聳え立つアララト山(5165)の中腹に半分地中に突き刺さるような格好で発見さた...とか。

その木片の年代分析結果もまた同じように符合する。

確かしばらく前にイギリスのテレビ局のニュースだったかな雪のアララト山に突き刺さる”ノアの箱舟”をヘリコプターから映写した記録映像を見たことがあったけどね。

概して神話や伝説は実際の出来事やその断片を語り伝えていることがままあるようだ。

黒海と“ノアの箱舟”のお話もそんな一例なのかもしれない。*(ウインク)*

そのアララト山, 東トルコのアナトリア地方にあるそこもいつかは必ず訪れてみたい場所のひとつですね。

現在,黒海の海岸線はウクライナ南岸/ロシア/北カフカス(コ-カサス)/トルコ(アナトリア半島=小アジア)/バルカン半島に縁取られている。

ロシア/カフカスを挟んで東側にはカスピ海が, そしてバルカン半島の西側にはアドリア海が, トルコの西から南には東地中海(エーゲ海)が拡がっている。

視点を変えれば黒海はユーラシア世界の歴史上で東のアジアと西の欧州そして南の北アフリカと幾多の民族の興亡盛衰が繰りひろげられた(今でも継続しているといえる)交差点として位置する類稀なところですね。

また多くの日本人にとっては雄大な歴史ロマンをかき立てる”シルクロード”交易路の西の終着点としても, かな。

私にとって黒海こそ正にユーラシア世界の文明の揺籃の地であり故郷のひとつであると想いはじめています。

実際近代から現代の歴史観・世界観・文明観はあまりにも西欧世界とその地域中心に偏りすぎていると思う。
地中海世界周辺地至上主義‐唯我独尊からの視点だな。

本来の視点の重心はもっと東側に持ってくる必要がありそれがフェアであると思う。

極東?にある日本で生まれ育ちそしてそこで教育を受けた私でさえあまりにも西欧史偏重あるいは鵜呑み的知識と価値観に囚われすぎていると感じることが多い。

時には度を超した偏重に不快感さえ感じることもある。

そう云うことがあまりにも多すぎると思う。

覇者の利益・強者のルール・自分達の世界だけで通用する論理がまかり通って今の世界が動いている。

では一体自分にとっての歴史観・世界観・文明観はどうあるべきか, 否どうなのかを折々に思いを巡らせている。

そんな処からも黒海やその周辺の地域は私にとって益々興味がわいてくるところといえますね。


緯度から見るとオデッサは北海道の宗谷岬よりもずっと北へ, もう樺太の尾ひれの付け根ぐらいのところにある。

でも黒海に臨んでいるせいもあるのだろう年間をとおして温暖であるとか。
今日の気温は28℃ぐらいまで昇がり反面湿度はずっと低いのでスカッとしている。


いったんは埠頭から街中へ移動し, 臨時青空街路端有料駐車場?へ車を置いてなんかおいしいものはないかと例のごとく街の中心辺りを歩き廻る。

運良く程なく歩いていた行く先の路上にドネ・ケバブの屋台を発見する。*(びっくり2)*

すぐ横のビルの玄関口の階段に, 断り無しで, 二人で腰掛けて冷たく冷えた飲み物を片手にドネ・ケバブ巻きをほうばる。
一人分20クリブナ(=3ユーロ)。
おいしいんだな, これが!*(ニヤ)*

キエフと較べるとここの街並みはふた廻り以上こじんまりとしている。

そんな街並みの中ではオペラ・バレエ劇場とその界隈の建物はひときは大きくその威容を誇示するように並んで建っている。

この劇場はかのチャイコフスキ-も指揮棒をふるった由緒ある劇場だそうだ。

その入場口まえを通りすぎ緩やかな坂道を下っていく途中に”神戸”という日本食レストランがあったが, チラッと見てパス。

さらに先へ進んだところにある考古学博物館へ入る。

この一画には他にも幾つかの記念館・博物館・美術館・記念碑等が林立または点在している。

さらに先へ進むと黒海が見える高台へ出る。

緑の葉を涼しげに茂らせた枝振りを大きく拡げた並木の散歩道が港に平行に5~600mぐらい続いている。
これはプリモールスキー並木通り。

先ほど埠頭から見えた”ポチョムキンの階段”の最上段がこの散歩道に合流している。

そこの最上段に建つなんかの記念碑の日陰では狼のような顔付きの犬が四肢を無造作に投げ出して暢気に昼寝をしている。

その周辺では観光客目当てのオウム・ウサギ・大きなリスのような動物?・小猿さん・カメレオン?・大蛇!はては口輪をはめられたワニ君たちがご主人さまと路上商売(記念写真撮り)に勤しんでました。

真夏の暑い昼下がりお勤めご苦労さんです!

黒海を眺めながら散歩道をぶらぶら歩く。木陰に入るとスッと涼しくなる。

どうも今日はオデッサの慶安吉日でしょうか?*(はてな)*

今まで歩いてきた界隈一帯にはざっと数えただけでも10組以上の新婚カップルとその取り巻きらしきグループの人たちが至る所で記念写真・記念ビデオをとりまくっている。

よく見ると若いカップルもいれば片方だけ若いのと両方それほど若くないカップルもいる。

この暑いのに新婦も新郎もみんなきっちり正装している!?

しかしですね, でもですね, それは当たり前か...

みんなまとめて”お幸せに!”。*(チョキ)**(ハート)*


ホテルへ戻る途中すこし回り道をしてガソリンスタンドへ立ち寄り給油と洗車をした。
順番を待っている最中通りがかりの(勤務中のか)パトカーにのった警察官が二人でやって来て旅券と登録証の提示を求めてきた。

なんか因縁をつけられるかもしれないと身構えたが, 差し出したパスポートのページを2~3枚めくるとにこっと笑顔をつくりさっと挨拶して行ってしまった。

身に覚えが無いので?

当たり前だが何時も何事も無いとは限らないからね。

今の形のオデッサの歴史は比較的新しいが,わずかこの200年ほどの間だけでもどれだけの過酷な戦争や戦い, 厳しい歴史的事件を掻い潜ってきたか。

絶え間なく何かがあり続けている街であることを考えると今この平和な雰囲気はとても貴重だしここに来れたことは幸運だと思った。 *(グッド)*

さすがにそんな厳しい風雪に耐え試練に鍛えられてきた大人の国際貿易都市の風格が濃厚に漂っているようにも感じた。

夕方戻ったホテルには今日街中で出会った新婚カップルのうちの御一行さん一組も同時に到着したところでした。

彼らにとってはもちろんにぎやかで長~い祝宴の夜になりましたね。*(音符)**(爆弾)*

ドンちゃん騒ぎの合間には景気付けに花火さえドンパチ打ち上げられました。
オデッサで花火大会に出くわすとは夢にも思わなかったゾ。*(ジロ)*

明日はいよいよクリミヤ半島の保養地ヤルタへ向かうのだ。
さあどんなことが待ち受けているんだろう?*(ウインク)*



ウクライナ方面への旅-5

2006年09月18日 | 日記
あまり見栄えのしない味栄えの乏しいホテルの定朝食をビジネスウーマンらしきご夫人らと相席でとった後,今日の目的地オデッサへ向けてホテル・ウクライナを後にしました。

朝の混雑を抜け一気にドニエプル河畔沿いの高速道路に乗り南方へ向かった。*(車)**(ダッシュ)*

右手には今回は行けなかったぺチェールスカ大修道院の金色の葱坊主形屋根が緑の木々の間から見え隠れする。

この緑に覆われた河畔沿いの一帯は公園となっていてキエフの歴史的また文化的記念施設や碑などがたくさんあるらしい。

河岸にはこの河を行き来する大きな貨物運搬船や大型観光客船が浮んでいた。

そうなんです。*(びっくり2)*

欧州大陸では鉄道運送が始まるまでは船による内水路航路を利用した水路運送が主役で想像の範囲を遥かに超える水路網が発達しているんですね。

そのひとつの大きな理由は欧州大陸の河川は高低さがゆるく概ね流れがゆったりしていることです。
また水量も豊富で水位も年間を通して比較的安定しており流域全体に渡って川幅が広く水運に適していることです。

そういう河川と河川の間を水門を持つ運河で結んでいるのでたとえば
”北海に注ぐライン川やマース川の河口から内陸水路を通って南欧の地中海まで船で行く事が出来ますね。”
もちろんライン川を船で遡ればスイスまでも行けます。*(チョキ)*

このドニエプル河は北のバルト海から南の黒海を結ぶ大水運航路(通商路)の主役として昔から”父なるドニエプル河”と呼ばれています。

黒海からはドナウ川を遡ってハンガリー・オーストリア・ドイツ・スイスまでもいくことが出来ます。

もっと南へ向かえばポスポラス海峡を通ってイスタンブール(ビザンチン帝国のコンスタンチノープル)へさらにギリシャを周ってアドリア海へ入ればベネチアへ。
また地中海へ抜けてジェノヴァ・マルセイユ・バルセロナまでも交易路として繋がっています。*(グッド)*

そんなドニエプル河に発するここ東スラブ地域のご先祖にはなんとスカンジナヴィア人のヴァイキングの血も濃厚に入っているそうです。

左手に広がるドニエプル河に暫しの別れを告げ朝の通勤ラッシュで混雑するキエフの郊外住宅地域を走り抜ける。*(車)**(汗)*

手元の地図にあるとおりぶじ国道?M06に乗れたようなのでそれからはひたすらオデッサを目指す。

出発する時は薄曇りの空模様だったのがしばらくするとその大きな空が重く圧し掛かりぽつぽつばらばらと大粒の雨が降りだした。*(雨)*

あっという間に溢れた雨水で”ドニエプル河支流”の如き様相を呈した車道をモーターボートのような水しぶきを上げながらワイパー全開でやっと視界を確保しながらそれでも何とか止まらずに走る続ける。

実際あまりの激しい雨にギブアップし,事故のリスクを避ける為路肩に止まっている車も幾台かある。

しかしですよ,またあの黒くて大型のSUV車達がですよ,そんな悪条件の追い越し車線をまるで水中翼船の如き飛ぶようなスピードで他の車を追い越していくんだな。

”どうしたのみんなそんなにゆっくり走って?”
とでも云わぬばかりにですね。*(車)**(ダッシュ)*

やっぱり地元組は強いようですな。

豪雨地帯を抜けひたすら南へ南へと進むとまたすっかり晴れ渡って強烈な夏の陽射しが照りつける。*(晴れ)*

一体誰がこんなところで乗り降りするんだろうと思うような道端にぽつんとさびれたバス停がありそこで待っている人がいる。

時刻表らしきものは全く見当たらないようだ。

その一帯には大草原の広がり以外には民家らしきものは全く見えないんだが...

黄色いひまわり畑の広がりの遥か遠くでトラクターらしきものが土ぼこりを上げているのがかすかに見えるだけ。

でもこんなまわりになんにもないような街道脇にも(もちろん産地直産の採れたての)スイカやトマトを粗末な台に積み上げて売っている人たちがいる。

交通量がけして多い路線ではないと思うけど...

たいてい土地の農家の人たちと思しきおばあさんや娘さん達がその店番をしているようだ。

たぶん夏休みの小遣い稼ぎなのだろう小中学生ぐらいの子供達の売子もけっこう多く見かけた。
みんな例外なく真っ黒に日焼けしている。

通りがかりの車のお客によく目立つ様にするには炎天下の場所が一番だけど,流石にそうもいかないようで多くは涼しそうな木陰に店を出してただひたすら立ち寄ってくれるお客さんを待って一日中座っているんだろうか。
たいへんだな~。*(いっぷく)*

オデッサに近づくにつれ車窓から入ってくる風にも微かな潮の香が混じってきたように感じる。

どこからがオデッサの街並みなのか判別しがたいようなところをしばらく走ってからあきらかに市街に入ったと思われる辺りから今日の宿泊場所を探しはじめた。

相変わらず街の地図がないので土地勘を利かせつつも行き当たりばったりでどこをどう走っているのかよくわからない。

やたら一方通行路が多い街だ。
だからよそ者には余計わかりにくくなっているのだ。

午後3時すぎから探し始め,オデッサの港に近いと思われる付近のホテルを何軒かあたって結局5時少し前に真新しい”ホテル・オセアニック”へチェックインできた。

30部屋ほどのこじんまりとした新築のホテルでした。

20代はじめと思われる受付嬢は驚くほど英語が達者で助かりました。しかも愛想がよくいわゆる典型的なウクライナ美人でした。*(ハート)**(ハート目)*
そこにはもう一人姉御肌の先輩もいて彼女もやっぱり親切で愛想もよく小奇麗な部屋と相まってとっても好いホテルに入れてラッキーでした。*(グッド)**(ニヤ)*

昨日までのキエフのホテルとは大違いです。

早速車から荷物を降ろしエアコンのよく効いた部屋に入りシャワーを浴びて汗を流す。
裸のままでエアコンの冷気を浴びると
”いやぁ、全くもって-涼風いとも心地よいかな!”でした。

夕方とは言えまだ夏の陽は高くまだ見ぬ黒海とオデッサの港を探して再び街中を走り廻ったけどいずれも不発に終わりました。

薄暗くなり始めた頃(午後9時ごろかな)に飛び込んだ屋外レストラン2階のテーブルに座ってふと目の前を見ると,

”さてどこかで見かけたような?明るいベージュ色の真新しいビルとその前の駐車場の門衛小屋?”はてと...

ななんとそれはわれわれが今泊まっているホテルではないか!!*(びっくり1)**(ジロ)*

街中をすきっ腹を抱え疲労困憊で走り廻った挙句に飛び込んだレストランは自分達の泊まるホテルからたった50メートルと離れていない所にあったのですね...

道端に駐車している車を見下ろしながら,”こんな近くにあるんならホテルの駐車場に置いて歩いてこればよかったのにな。”
なんて大きなため息が出ました。

生演奏の歌のステージを見ながらウエイタ-さんお任せメニューのシャシャリク(串刺し肉のグリル料理)をいただきました。

そのフロアーには小さな子供を連れた家族連れが3組と大所帯連れ風のが一組,やれたマフィア風の連れが一組,老夫婦組が二組とそしてわれわれといったお客の顔ぶれでした。

黒海の保養地オデッサで夏休みを過ごす人たちに混じって我々もその開放的なリゾートのよい闇と雰囲気に包まれていきました。

とにかく明日は黒海を見よう!
それからルーマニアのコンスタンタ港へ行くフェリーボートがあるのかどうかを探さねば。*(波)**(椰子)*

ということで, 次回はオデッサの街の様子を続けます。

ウクライナ方面への旅-4

2006年09月10日 | 日記
ホテル ウクライナの建物が夕陽を受けて紅に染まっていくのがここからよく見える。*(晴れ)**(ウインク)*

今いる独立広場は1991年に旧ソ連邦が瓦解解体した後に独立国家と成ったウクライナの独立記念に造られたものだそうです。

広場のあちこちに造られたいくつもの形の違った噴水が特徴ですね。

他の欧州諸国の東側も西側も都市や町の中心となるところは必ずその街の大きさに関係なくどこでも大きな広場がありますね。
それぞれの街のアイデンティティみたいなものですか。

ここキエフでもそうでしたが,全く見知らぬ街へやって来て”セントラム”と言う標識を辿ってその街の中心までやってくるんです。
そうすると大体その街の様子や大きさが解かってそのときの目的にも拠りますがその後の行動の判断がしやすくなりますね。

”なにはともあれまずはセントラムへ”ですね。*(ニヤ)*

この広場はネザレージュノスティ広場という名前で呼ばれております。

つい最近のことですが,2004年にクチマ大統領の後任を決める選挙で不正が有ったとして選挙のやり直しの結果,西側寄りの政策を打ち出したユーシエンコがロシアよりの政策を基盤としたヤマコッビッチに対して逆転勝利を成し遂げた”オレンジ革命”の舞台となった場所でもあります。*(みかん)**(チョキ)*

ここで入手したガイドブックにもその時広場を埋め尽くしたオレンジ色の帽子や鉢巻そしてたなびく旗の波の中の群集たちの写真が載せられていました。

東西欧州諸国は勿論ロシアとアメリカがそれぞれ干渉して繰り広げられた歴史的な大統領選挙で欧州のテレビでも連日大々的に取り上げらておりました。*(アメリカ)**(ドイツ)**(イギリス)*

地政学的なウクライナの位置の宿命か東の強大パワーであるロシアと西欧州地域それから南のイスラム圏とのちょうど狭間にあるということでここウクライナはその時もそして過去の歴史上いつでも蹂躙されたり重い荷を負わされたり絶えず緊張を強いられるという宿命を背負わされている地域ですね。*(いっぷく)*

そういう地域・地帯・国々は世界中あちこちにありますが,
”いつも狭間は辛いよ。”
ですね。*(困る)*

無責任な私のようなよそ者にとっては”だから尽きぬ興味をそそられる地域とその歴史。”なんですね。
ウクライナの方々には失礼で申し訳ないナ。

キエフの街の見所は大体この独立広場界隈と街の東西に分けるドニエプル西河畔沿い
に在るようです。

翌日早朝から市内見物開始。
ホテルの部屋からの眺めでおおよその土地勘をつけホテルのキオスクで買った市街地図を見ながら澄んだ青空の下私たち二人は半ズボンポロシャツサンダル履きの”純正ホリディ姿”の出で立ちでキエフの街を歩きはじめました。*(足)**(音符)*

まずは小手調べです。
初っ端に入った銀行で両替に差し出した20ドル札の一枚が偽札だと言われ返されてしまった。シュンッ。

そのお札は出かける前の週にアムステルダム空港の銀行で両替してきた物なのに...*(困る)*

とにかくけっこうな坂道が多い街で地図で見る位置・距離関係とは微妙に違うことが多くて,いやそれ以上にいやぁ暑くて暑くて持っていたハンカチがびっしょりになるほど汗がでてくる。

目的地はウラジミール聖堂,黄金の門,ソフィア大聖堂,アンドレイ教会,ウクライナ歴史博物館,聖ミハイル修道院らで案内書には歩いて廻れる距離にあるとのことだが果たして如何に!*(びっくり2)*

今回生まれて初めて現役中の東方正教会の中に入ったことになる。

内装は黒と金と濃紺の彩りの聖フレスコ画と金の十字架を戴く聖物で埋め尽くされていた。
葱坊主の天蓋までフレスコ画が描かれ外縁に配された10もある天窓から降り注ぐ光がさらにその荘厳さを醸し出しているようだ。

やはり宗教というのは俗世界とは異なる畏れ多い荘厳な見栄えと雰囲気の演出が大事なのだろうか。
西欧地域のカソリック教会もやや雰囲気は異なるところがあるが荘厳さはひけをとらないといえるでしょう。

葱坊主形の濃い緑色屋根の又その上に金色に輝くふた周りほど小さな葱坊主の屋根をいただきその上に紛れもなき黄金の十字架をいただくソフィア大聖堂は総本山であるビザンチン帝国のアギア.ソフイア大聖堂からその名を採ったという。
11世紀に創建され現在の建物は17世紀のものらしい。

そのオリジナルのアギア.ソフイアについては15世紀にメフメット2世のオスマントルコ帝国によるコンスタンチノープル陥落後モスクに改装されてしまい,現在はイスタンブールのソフイア博物館になってる。

2年前にイスタンブールを訪れた時は幾多の地震による倒壊や劇的な改装を経て静かに佇むその姿は今でもかつての栄華を忍ばせるのに十分な威容を誇っているように見えた。

入場券を買い正門であり鐘楼になっている塔に登ってみた。

大人2人がすれ違うのがやっとという螺旋階段をふうふういいながら上り詰めた展望階からの眺めもまたすばらしかった。
その上開放された吹き通し窓から涼しい風が吹き上がってきてなんとも心地よい。

ホテルのからの眺望もよかったがここからの展望は正に
”絶景かな!絶景かな!”*(グッド)*

おそらくキエフの街の最も高台にあるのだろうかキエフの街並みはおろか周囲に拡がる一帯全貌が見渡せる。*(地球)*

たった今行ってきたばかりのウラジミール聖堂の葱坊主形屋根は勿論ドニエプル河を行きかう遊覧船?やボート,対岸と結ぶ道橋が3つそれよもなによりキエフの周りに拡がる大穀倉地帯(大草原)が遥か彼方まで淡い夏霞?の中に見渡す事ができた。

そんなパノラマの中でも一際目立っていたのが目と鼻の先の距離にある聖ミハイル修道院の建物群。

一点の雲もない蒼穹をバックに真夏の陽光を鮮烈に反射して金色に輝く葱坊主形屋根の群れ。自然界のハイビジョン映像のごとき激烈鮮烈な景観でした。
清らかな青色の修道院建物の上に林立するこの金色の屋根はなんかこの世のものではないもの様に見えました。

絶景と涼しいそよ風に名残惜しさを残しつつその鐘楼を下り次のアンドレイ教会に向かう。

しかし残念ながら(観光客にとっては です)どうも今日は新婚さんの結婚式が行われているようで一般観光客は入れませんでした。

教会脇の大きな木陰に入るとスッと涼しくしくなる。
外気温は結構高いのだろうが湿気がないのか体感温度で10度近く涼しく感じる。

木陰から出てその教会の脇の下り坂を再び暑さに弄られながら歩き始める。

露店らしきものが両側の歩道に連なっている。
茶色い仔犬が二匹じゃれあいながら狭い歩道に立ち並ぶ露店を訪れているショッピング客達の間をまろび転がっていく。
やんちゃなかわいい奴等だな。*(ラブリー)**(ニヤ)*

これがアンドレイ坂か。

観光客目当ての民芸品,バルト海の琥珀製の装飾品類,自作の絵やガラクタ類を売っている。

息子はウクライナ軍純正と思しきオイルライター(薬きょう型のボディ)を前後2波状攻撃で値切って買いました。

私は”パレフ塗りの小箱”を前後3波状攻撃の末撃破最終的に定価60ドルを45ドルで入手する。
17センチ幅ほどの宝石箱みたいな形の小箱です。

黒の漆ベースに猫の毛の筆で染料を使って描き金箔をあしらった細密画が描いてあってこれはすばらしい工芸品です。

絵柄はなにかウクライナ民族の民話の中の一こまを描いたようで民族衣装を着た王侯貴族風の若い乙女達が春先の野に集まっているいる華やぎがあらわされているようです。

細密画はインド,トルコ,ギリシャ,エジプト等各地にあるらしく,とっても芸術性が高いものです。
勿論このロシアや東西スラブ民族地域には共通してある工芸文化のようです。

昼下がりと思っていたら,ここまで来るのにもう夕方の時刻になってしまい今日の訪問日程のほぼ半分を消化した時点で店じまいをすることにした。

ホテルへ帰る途中息子はインターネットカフェに引っかかってしまった。
待っている約1時間ほどの間 外の広場の一角に腰を下ろし途中買ってきたキエフの観光ガイドブックを拾い読んだ。

え~と西欧や世界中どこの有名観光地へ行ってもたいていはいろんな言葉のガイドに混じって日本語のガイドも必ずあるのが常識の昨今。

しかしです、ここキエフには日本語のガイドブックはありませんでした。少なくとも訪問した所にはね。
日本人の旅行者(らしき人たちも含めて)には一人も出会いませんでした。

でも,反面ほっとしましたけど。

この広い世界には少しはそういうところがあってもいいよね。

変なところに安堵のため息をついたりして,ロシア,べラルーシ そしてウクライナの祖であり揺籃の地キエフにいい印象が持てました。

噂高きウクライナ美人で溢れ返るフレシチャチーク通りを歩きながらはるばるやってきてとっても好かったとも思いました。*(ハート)**(ウインク)*

次回はキエフを後に一路南に向かい黒海の港町オデッサへの旅を続けます。



ウクライナ方面への旅-3

2006年09月03日 | 日記
何年か前義母とクラカウにある歴史博物館を訪ねたとき両手を拡げたぐらいのガラスケースに入った古色蒼然とした古い地図のまえを通った。

しばらくそれに見入っていた義母さんが”これはガリチアの地図だね。”ガリチアは昔はポーランドの領土だったんだよ。”と教えてくれました。*(音符)*

その時は,”ガリチア?ふう~んクラカウもガリチアだったのか。”って思いながらなんか不思議な未知の物を見てしまったような気がしました。*(ウインク)**(はてな)*

今いるリヴィウはかつてのガリチア公国の首都だったこともある所だそうです。

今のガリチア地方は西ガリチア(ポーランド領),スロバキア と東ガリチア(西南ウクライナ領)から成っていて東欧のこぶカルパチア山脈一帯がちょうどそこに重なります。
かつて夏休みには家族みんなで山歩きを楽しんだ美しいタトラ山系の保養地ザコパーナもあるところです。
ここはスキージャンプの大会でも有名なところです。*(山)**(ニヤ)**(グッド)*

またガリチア地方は10世紀末新興キエフ・ル-シ公国に滅ぼされた遊牧民国家ハザール大王国から追われて逃れてきたアシュケナージム(東欧ユダヤ人)が多く住んだところでもあります。

かつてのハザール大王国は西欧がまだ文化的にも遅れていた頃にビザンチン帝国(東ローマ帝国)に匹敵する文化と力を持っていたそうです。
その領土はカスピ海から黒海の北に拡がる大草原の一帯(今のウクライナ辺り)辺りまで広がっていました。

アインシュタイン,ヘンリーキッシンジャー元米国務長官,スティーブン・スピルバーグ,ら有名人天才人らはこのアシュケナージムですね。*(ダイヤモンド)*

彼らは現在全世界のユダヤ人の90%(に対して10%の西欧正統ユダヤ人のスフアラディム)を占めイスラエルをはじめユダヤ政経映画産業界各方面で実権を握っている人たちです。*(お金)**(テレビ)**(地球)*

ポーランドから国境を越えて東ガリチア地方に入ると教会の屋根の形が変わってきます。

ここリヴィウの街並みの中の教会も西欧世界の鋭くとがった尖塔が空に突き刺さるような屋根の形から 丸い葱坊主形の屋根を乗せた教会に変化します。

ウクライナ独特のユニエイト教,ウクライナ正教,ロシア正教の教会の屋根の形が葱坊主形なんですね。
ですからモスクワにも葱坊主形屋根の教会がたくさんありますね。*(びっくり2)*

そんな葱坊主形の屋根をもつ教会があるリヴィウの街並みはこじんまりとしていて古臭く見え(旧い街並みという意味ではなく単に古い)やや薄汚れたように見える。

それでも西欧の街並みに負けないくらい商業目的の看板やサインが溢れ朝の混雑と雑踏はなかなか活気があってなかなかのものと感じた。日本の商品のポスターや看板も結構目についた。

旅の日程の都合から残念ながらこのリヴィウの市内観光はパスしました。*(バツ)*

そんな市街の雑踏を抜け出して一路次の目的地キエフへ向かう。

道路は相変わらずガタガタ凸凹の最悪の状態で60~70KM/hぐらいでしか走れない。

ところがです!

土地のスペシャリスト?と思しき輩が運転する車達と大きなSUV車たち(大きな図体で大きなエンジンを積んだ高額車のランド・クルーザー/レインジ・ローバー/BMW X5/XC90/ポルシェ・カイエン等)はそんな悪路を物ともせず100~120KM/Hを越えるぐらいのスピードで対向車線に出てぶっ飛んで追い越していく。*(車)**(ダッシュ)*

当たり前ですが,行く先々の道路脇には立ち往生して即席青空修理作業をしている車達がたくさんありましたね。

手持ちの地図の地名のつづりと実際に出くわす辻路にある道路標識の綴りが一致しないような感じでどこにいてどっちに進んでいるのかはっきり解らない状態で土地勘と方向感覚を研ぎ澄ませて運転を続けました。

頃好い昼過ぎに入ったドライブイン風のレストランでいただいた鶏肉のカツレツ風はとてもおいしかったな。

そこのウエイトレスに自分の地図を持ってきて今どこにいるか指し示して教えてもらった。息子がしゃべるポーランド語はウクライナのこの地方では幾らか通じるらしい。

これでやっと,今どこにいてこれから向かう先も良く解った。*(ウインク)**(グッド)*

朝出発した時はうす曇りだったのに途中で青空が広がり始めた。
夏の雲が散らばる青空の下,雄大な大草原の拡がりの中に吸い込まれてちっぽけな自分が消えてなくなりそう。

突然左のこめかみあたりに現われた軍用ヘリコプターらしき姿もやっぱりこの雄大な風景の中へ吸い込まれて点となってやがて消えていった。

このウクライナの大草原を走りまわり繰り返された幾多の遊牧民国家の栄枯衰勢を想いながら運転を続けた。*(砂時計)*

午後5時過ぎにはウクライナの首都300万人がすむキエフへ入った。

飛び込み都合3回目で市の当に中心にある”独立広場”の真向かいの丘の上に聳え立つ”ホテル ウクライナ”が見つかった。

外観はごついソ連型の15建て,割り当てられた5階の部屋の大きくて重いドアを大きな鍵でガチャガチャ開けて中に入ると内部も典型的な社会主義国っぽい暗くて古くて薄汚くておもてなし感が乏しい。


しかしですョ。
その部屋の窓からの眺望は文句なく5スタークラスでした。*(ニヤ)**(びっくり2)*

あまりの素晴らしい眺めに二人でしばらくの間そこを離れられませんでした。

目の前に広がる景色はキエフの街の中心街のパノラマそのもの。
見下ろす”独立広場”には大きな丸いガラス製の屋根を持つ平べったい建物やその先の一画はなんかのテント群らしきもの,その周りにはいくつもの噴水が点在する。広場の真ん中には記念碑らしきたかい尖塔が立っている。

左右にはローマ調とゴシック調の白っぽい大きな建物が連なる。広場を横切る大きな街路と近代的な6階ぐらいの建物たちの連なり。

街並みの中に夕日を受けて金色に輝く葱坊主形の屋根をいただく教会の一部が見える。

左側の高いビルの上部に備え付けられた巨大な表示版には”t。+16”の赤い表示。現在の外気温らしい。

広場の先一番奥まった付近を観ていると,
おおっ!
あれは黄色いMマークではないか。

インターナショナル・ジャンクフードの雄マクドナルドではないか!
やはりここキエフにもあったか。

一瞬二人で顔を見合わせにんまり。
”今日はむずかしいことを言わず あそこにいって食べようか? いいけど。”

即座に決定。

ホテルの丘を下り広場をとおり地下道を抜け再び向こう側の広場を歩いて行ってもわずか7分足らずでした。

小さな子供をつれた家族,夏休みの子供やティンエイジャーたちで賑わっていました。
外のテーブルに座ってったた今歩いて来た丘の上の”ホテル ウクライナ”を眺めながらフィッシュ・フィレ バーガーを頬張る。

非日常的なこんな旅先でこんな汎日常的でありふれた情景の中にいるなんて...


オランダを出発してからまる4日目に2350KMの距離を走ってやっとついたキエフでマクドナルドか...うん~ん*(汗)*

自分のやっているのがまるで”金団雲に乗って地の果てまで飛んで行ってどんなもんだいって威張っていても実際は御釈迦様のたなごころの中で飛び回っているだけの自信満々の孫悟空のようなもんか。”なんて思ったりもした。

旅って一面そんなものかもしれないね。

次回はキエフの観光とその後を書きます。