navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

散歩の風景-6

2010年07月24日 | 日記
私は信者ではないが、この教会堂とはいくらか縁がある。

息子が9歳のときKomunie「堅信礼」とよばれるカソリックの通過儀式を十数名の同年齢のこの村の他の子ども達といっしょに受けた。そのときの教会堂である。
*(教会)**(ウインク)*

まだすこし寒さが残っている晩春だったと記憶している。そのときもそして今も筋金入りの敬虔なクリスチャンである義理の母はわざわざそのため?にワルシャワからやってきていた。

先のヨハネパウロ二世を輩出した名うてのカソリック国生まれで育ちの生粋のポーランド人であるからこういうことをするときは半端ではなかった。
そして孫のためにこの儀式用にとくべつにあつらえた正装一式を持参してきた。
彼にとってはかたくるしいことこの上ない正装をさせられてブンムクレている息子をなだめつつ家族みんなでこの教会堂へ出かけていったことをおもいだす。

その儀式にさきだつ2週間まえこの教会堂からまねかれ儀式ついての説明をうけた。
神父さんみずから礼拝堂の中を歩きながらあれやこれやをひとつづつていねいに説明してくれた。
階段を上がって大きな鐘がある鐘楼の内部やパイプオルガンの中身まで見せてくれてその由来を教えてくれた。また側廊に沿ったいくつかのへやも見てまわった。ラテン語で書かれたたたみ半畳ぐらいもある年季の入った聖書やそれからなんとかの聖体であるとか古めかしいが由緒ありそうななんとかの聖像物などもみせてくれた。 

いちばん驚いたのがさほど大きくないガランとしたへやへ入ったときのことである。
へやの真ん中にあった50cm角の床板を一枚はがしてその穴の中をのぞき込みなさいという。
その穴に落ちないように恐る恐るのぞき込んで見るとなんとその薄暗い床下1mほどのところは水深0.6mぐらいの水が張ってあるのだった。

それはこのへやだけにかぎったものではなくこの教会堂全体の床下がそうなっているのだそうだ。
そして教会堂すぐ横の水路の水位と同調しているということである。
ということはこの教会堂の基礎はすぐ近くの湖沼の浅瀬に建てられているのと同じことになる。
まるで厳島神社とその鳥居のようではないか!

この教会堂の母体はすでに13世紀後半にはあったそうで、いまある高さ70mの尖塔をもつ時計台と教会堂は19世紀のはじめ頃建立されたということだ。
なおこの教会堂は国定史跡に指定されている。

この地域で高層の建物を建てる技術はたぶんこのような教会堂を建てることから始まっただろう事は容易に想像できる。

ふつうの意味でしっかりした地盤というものがない低湿地帯の砂地盤ではまったく独特の工法でおこなう必要がある。
基礎の敷地面積あたりどれだけ多く杭を打ち込むかで建てられる建物のたかさが決まるのだそうだ。
それはまるで生け花に使う剣山をひっくり返して砂地の浅瀬においたようなものである。

表面層30~50cmは砂地盤のように見えるがその下部層は液状化していて半分砂地もう半分は水の上に乗っているようなものである。
さいわいにもここは地震というものがないためそれでも建造物として成り立っているのだろう。

わが家に向かう車からいつもいちばん最初に見えてくるのが拙村のこの教会堂の尖塔である。
昔も今もこの村でいちばんたかい建造物である。

その教会堂とMaria-oordとよばれる新しい3階たて建物の養護老人ホームにはさまれた敷石の間道を左に折れた。

とおりぬけてでてきた右手のところにバス停がある。
この道路は左へ行くとつきあたりにショッピングセンターがあり反対へ折れると教会堂である。
ひだりへ折れてさらに敷石の歩道を歩き続けた。

赤い郵便箱が立っているところは銀行とVVVオフィス(観光案内所)が一つ屋根の下に入っている建物で、ふだん現金をおろすATM機が設置してある。
かつてそこはこの村の郵便局だったところである。

その先には息子が通った小学校の校舎とさらに村の公民館が並んでいる。
公民館の後ろには図書館と屋内スイミングプールがある。
そこもまた息子が小さな頃はほとんど毎日のようにお世話になったところである。

その先は幅15mほどの水路をまたぐたいこ橋が架かっている
公民館の正面へさしかかったとき、たいこ橋の向こう側から性能アップを施した独特のかん高い排気音を響かせてスクーターが駆け上がりそしてくだってきた。乗っていたのは近所の十代の若者であった。
オイルの焼けた匂いをあたりに残して一気に後方へ走り去った。
その排気音が遠のきふたたび静かになったと思ったら今度はうしろから低周波のズッドッ-ドッ-ドッ-ドッと腹に響くような音をたてて定期運行バスがやってきた。
車内灯が明るい車内にはだれも乗客はいなかった。
そのバスは大きな車体をきしませながらたいこ橋をかけ上がりそして向こうへ側へゆっくり沈んでいった。

前述したとおりこの水路は湖沼へつながっている。
春から夏場は舟遊びをする人たちの大小のボートが煩雑に行き交う水路である。
そしてこの水路を境界線に西側地帯と東側地帯に分かれている。

いまここの橋を渡って坂を下りたところでの我が家がある東側地帯へふたたびもどってきたことになる。
たいこ橋の真ん中までのぼってきて足元の水路を見下ろすと、土堤に沿って設置された外灯のランプがいくつも水面に揺らめいていた。
*(三日月)**(うるうる)*

散歩の風景-5

2010年07月17日 | 日記
私設橋とその向こうのおおがらな民家を幾軒か数えながら歩いてゆくと急に道幅が広がったところにでた。
道端には車が5~6台駐車していた。

白地に大きな青い字体のロゴが描かれている看板が左手に掲げられていた。
ここはさるイタリア車のディラーである。そしてこの村唯一の車のディラーでもある。
それぞれのフロントウィンドウに値札が掲げられている中古小型車が10台ほど小さなショールームを縁取るように並んでいた。

その先の古めかしいレンガ造りの建物は私たちがこの村へきた当時はRAADHUISと呼ばれてこの村の役場だったところである。
それからまもなくして隣接の村々や町と集約統合されてその役目が終わってしまった建物である。
しばらく前に誰か個人の手に渡って今は貸家となっているようだ。

ちょうどそのRAADHUISの向かいは水路と約100m四方ほどの草地が拡がっている。
またそこは夏の一時期その水路をまたいで草地をつなぐ仮設橋が架かるところでもある。
いまは取り外されていて水路の向こう側へわたることはできなかった。

仮設橋が架かるのはこの村の夏祭り(7月半ば)の数日間か子ども達が大好きなケルミス(巡業遊園地)がやってくる時だけである。

残念ながら夏祭りと云っても日本のお祭りのような濃密な伝統や風情はまったく感じることができない。
たぶん私が日本人であるということがその一原因かもしれないが、たしか知り合いのフランス人やドイツ人さえ似た様なことを言っていたからやはり郷愁を呼ぶほどのものではないようだ。

その村祭りであるが、その開催中オープンマーケットがあったりオランダ歌謡コンサートで夕べを過ごしたりする。
だが祭り期間の大半は娯楽曲やダンス曲を大音響でたれ流してひたすら飲んで踊るぐらいである。
祭りにやってくるのはこの村の住人や近在の人たちそれから夏場に拙村(湖沼地帯)を訪れる保養客らである。
夕方から夜半まで大人向けキャンプファイヤー豪華版を連日繰りひろげるといった風情である。
イベントの対象参加者は明らかに中高齢者にウエイトを置いているのがよくわかる。

ケルミスの方は子どもとその家族がねらい目で我が家の息子がまだ小さな頃は毎年欠かさず出かけていったものだ。

その先はこの散歩道を横切るように水路が交差していてそこに小さな跳ね橋がかかっている。
その橋を渡ったところに軽食屋とアイスクリーム屋が向かい合って店を開いている。
たぶん夏場に限ったことだろうが今こんな時刻(午後10:20)でも店先のテーブルに幾組みかの客がたむろしていた。
夕闇が満ちてくるぎりぎりまで屋外のテーブルについて夕涼みを楽しんでいるのだ。

この先には村でいちばん大きなカソリック教会堂がある。

そこをすぎてもう少しさきに陸橋が横切っている。そこは国道への乗降口がある。
そこまで道路の左右ほとんど切れ目なく茶色いレンガ壁の灰色瓦屋根の家並みがつらなっている。

ながく住んでいるのでおなじみのところがたくさんある。
化粧品・日用雑貨・写真カメラ・眼鏡諸々屋、保育園、衣料品屋、薬局、パーティーセンター、ホームドクター、自転車屋、ペンキ剤販売店、レストラン、消防署、診療所・床屋などである。

10年ほど前まではさらに銀行、ス-パ-、電気器具店、別のレストランやランドリーなどもあったのだがそれぞれ店じまいしたり隣町へ引っ越したりしてしまった。
その跡地に新しい家が建てられところもあれば建物が取り壊されぽっかり空き地のままにおざなりになっているところもある。

今日の散歩コースは大きな古めかしい教会堂がある手前で左へ折れる。
ここまで来るのに45分かかった。
*(足)**(音符)**(時計)**(グッド)**(ニヤ)*

散歩の風景-4

2010年07月05日 | 日記
TE KOOP=売りたしの札を掲げた35ftぐらいの中古屋根付きボートが跳ね橋をわたった背のたかい草むらの向こう、左側水路岸に舫っていた。
オランダのあちこち水路や湖沼でよく見るなんの変哲もない実用的なタイプのボートであった。
その先にそれよりも小さなボートがさらに3艘カバーがかけて舫ってあった。

この国の人たちにとっては小さなボートを所有して余暇を楽しむことは国民的リクリエーションと言ってもよい。
春先から夏にかけての時期とくに週末の金土日曜日にはこういうボートに泊り込んで過ごす。
ロケーションはたいてい自宅の近くの湖沼や水路に沿った水辺である。
ちょうどキャンプサイトのキャンピングカーに相当する。
日常生活の猥雑さからはなれ読書をしたり好きな音楽を聴いたり編み物をしたりスドクをしたりと。
窓の外には水鳥たちが往来し岸辺の草むらをなぜ水面をわたる薫風を味わいながら。
すでに年金生活者とか定年ま近かぐらいの年配の夫婦や知り合い同士などが多いようだ。

今入ってきた散歩道は背の高い雑草や樹立ちに埋もれている。
そして道が見えなくなるところまでわずかに左右にくねりながら伸びている。
もう少し先へまでゆくとこの砂利道が終わる所が見えてくる
ボートがあった草むらの向こうは水路がつづき、そして右側は幾つかの大きなふるびた倉庫が船着場の周りに連なっている。
昔はこのあたりの水路は生活に必要なような運河でもあったようだ。

かっこうの鳴声がこだまするその散歩道の途中で真新しい黒毛の小型バンと大型砂利ダンプカーがそれぞれ1台づつ草むらに突っ込むように駐車してあった。
近所の人たちの車ではないようだ。

その左側は背の高い生垣が連なっていてその間からまだ建築半ばの家屋3軒がみえた。
いずれの家もコンクリート基礎部は水路の中に築かれていた。
つまり床下には常に水がある家である。
今日は週末なので仕事をしている人影もなくただ家の中も外も建築資材や梱包ビニールごみが猥雑に散らかっていた。

砂利道が終わるところでこの村の本道とも言うべきアスファルト道へT字につながる。

その手前右側にこぎれいな2階建ての家屋がある。
散歩道からみえるのはその家の後ろ側で見上げる高さの白壁にこの村の名前を大きな浮き彫りの字あらわした看板がはめ込まれてある。
反対側が正面入り口でゆったりした広さの駐車場が設けられている。
近所の人たちの車が幾台も停まっていた。

窓ガラスを透して見える店内には中古品ばかり日用雑貨や古本や手工芸品が並べられている。
そういうものを売る店であるがまだ入ったことは無い。
入り口の張り紙には毎月第2土曜日のみ開かれるという蚤の市的な店である。
いつかぜひ立ち寄ってみたいと思っている。

仰ぎ見たかわらぶきの屋根の上をつばめが2羽弧を描いて舞っていた。

趣のある砂利道からあじけないアスファルト道へ歩みをすすめた。

この村の本道もやはり両側に水路が沿っている。
ずいぶん昔に造られた道路にアスファルト舗装をしただけの道路で一部を除いて道幅は狭く車のすれ違いがかろうじてできるほどだ。
だから道端に車が駐車しているところは往来の車のどちらかが停まって道を譲らないとすれ違いができない。
そんなところを歩っていて車が来たときはつい体が硬くなってしまった。

この本道に沿って見かける家は一戸建てが多く敷地もゆったりしている。
とくに湖沼岸側の家は水路をまたぐ車が通れる大きさの私設橋が架けられている。
そして大きなやなぎの樹が必ず1本水路に面した庭先に大きな枝振りを拡げている。
やなぎの樹は強靭で根張りが強く地面をしっかり支えてくれるから好んで植えられているらしい。

その薄暗い空の色をうつした水面には黄色か白い花をのせた蓮の葉が拡がっている。
蓮の葉の上に蛙がすわっているわけではないが、すぐ近くでガーゴガーゴと蛙のなきごえが葦の間から響いてきた。
*(汗)**(山)**(音符)**(ニヤ)*