navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

もう冬時間になりました。

2006年10月31日 | 日記
おととい日曜日の未明時計の針が1時間戻されて冬時間に切り替わりました。
日本との時差はこれで8時間になりました。
外は落ち葉のじゅうたんが敷き詰められてすっかり晩秋, いや冬へ向かって一直線です。
長くて暗い北ヨーロッパの冬です...

ウクライナ方面への旅-9

2006年10月20日 | 日記
今日もまたあさから陽が落ちるまで気温29℃真夏の晴れの天気。*(晴れ)*

ヤルタの街は夏祭りの人出で街じゅう大賑わいでした。
陽が落ちてすっかり暗くなった時刻でも半そで短パンサンダル履き姿でも歩きだすとすぐに汗ばむくらい蒸し暑い。
シャツのボタンをはだけ毛むくじゃらな胸で風を受けて歩いている人も居る。*(ニヤ)*

ホテルの向かい側道路を挟んだ一帯はヤルタの中心地, 2KMぐらいの長さをもつ広い海岸通り(=プロムナード)でそこをお祭りの人ごみに紛れてぶらつく。

海側のプロムナードにはアイスクリーム売り, アクセサリー売り, T-シャツ帽子屋, 小型メリーゴーランド, バンジートランポリン,レンタル電動バギー,ワインの試し飲みと販売屋, ビール・清涼飲料売り, ドネ・ケバブ屋, 映画撮影用衣装ならびに小道具つき写真撮影用セット屋?, 太ったおばちゃんがいるキオスク,雑誌売り,パンチ力と大槌投打力測定屋,超大型望遠鏡屋などが立ち並んでいる。*(ウインク)**(音符)*

一方陸側は常設の保養客目当ての各種ショップが軒を連ねて真夜中過ぎでも煌煌と照明を点けて営業している。

面白そうな所ではカフェバー兼水パイプ屋だな。*(ニヤ)*

なんかアラビアンナイトの千夜一夜物語世界に出てきそうな大型水パイプをゆったりと喫煙させてくれるところ。
トルコ・シーシャあるいはナルギレとかの名前で呼ばれる。
本体は大人のおへその高さぐらいの背丈がある。
大小のくびれがいくつもある大きなひょうたん型ガラス瓶のような優雅な風体をしている。

世の中には葉巻パイプ嗅ぎタバコまたスヌース等いろんな種類のタバコがあるらしいがこの水パイプ一番風格があると思う。
パイプよりももっと味わいのある東洋的雰囲気を醸しだしている。
ペルシャやトルコそしてアラブ世界の風俗文化ですね。

ただし自分は生まれてこの方喫煙とはまったく縁がないので水パイプを優雅にくねらせるひとたちをただ眺めるだけです。*(ジロ)*

そのほかでは,懐が豊かな人のためには貴金属アクセサリーならびにアート店があって見事な金銀細工品や磁器そして細密画などが点列している。

お値段を見るとどうしてなかなか貧乏人旅行者には到底手の届かない桁数字が並んでいる。
昔も今も世の中が大きく変わったとはいえ, ここに来る人たちの中には裕福な人たちがたくさん居られるようだ。
昔の皇族貴族らに対して今のニューリッチ(成金ブルジョア)たちかな。*(お金)*

ヤルタで購入したのはやっとやっと探し出したウクライナの道路地図2冊,クリミア半島の観光名所ガイドアルバム(ロシア語版)1冊 そしてクリミア・ワイン2本だった。

ワインのことはよくわからないけどクリミアのマサンドラ・ワインは超有名ですね。ラベルを見てもまったくよしあしが解からないのでボトルの容姿と色合いそしてお値段を較べながら好みと勘で選ぶことになる。
しかしキリのほうの高額ワインは見るからにそれらしい風格を漂わせた色合いと容姿をしていますね。
その他大勢のワインたちとは別格でちゃんと鍵のかかった陳列ガラスケースに鎮座なさっておられました。
まるで王侯貴族ご用達専用で後光がさしているようなまぶしさで...

で結局ワインショップで選んだのはさん然と輝いていないカラダスキーヤホフ産のマスカットワインです。
身分相応のボトルの形とワインの色合いそして値段で決めました。
さておいしいだろうか?
いつの日かクリミアの太陽に育まれたこのワイン,今いるクリミアを想い出しながらがらゆっくりいただくつもりです。*(ワイン)**(ウインク)*


今日の晩飯もレストランに行く気になれず例のごとくビンボー人とショミンの味方ドネ・ケバブ屋の匂いに誘惑されてまたまたいただくことにしました。

赤く燃えている縦型グリルの熱でじりじりと焼かれ油がたらたらとしたたり落ちている羊肉の大肉塊を前に仕事をしているのはこの屋台のお大兄さん。

こんな暑いところで一日中立ち仕事をするのはさぞ辛いだろうな。
順番を待つために屋台からはなれたところに立って仕込みの作業をみているだけでもグリルの熱でいや~暑いのなんのって,拭っても拭っても汗がどんどん流れ出てくるほど。*(汗)**(いっぷく)*

しかし春や夏場の保養客が来るあいだはこんな辛い商売でも頑張ってやっていればけっこうな稼ぎがあるのだろうが,一年を通して成り立つものではない。
シーズンオフはどうしているのだろうか?

そしてそこのお大兄いの精悍な風貌からふとある想いが浮かんできた。
ひょっとしたら彼はウズベキスタンから帰還したあるいは春夏の間だけここヤルタへ出稼ぎに来ているクリミア・タタール人の一人ではないかと。
やせて浅黒い筋肉質な体躯を白い木綿のダボシャツにステテコ風のズボンに包んでいる。
どうみてもスラブ系の人ではない。

第2次大戦中にスターリンによりヒットラーのドイツ軍へ協力し反国家的行為をしたからとの言いがかりをつけられ,もともとの住人である彼らクリミア・タタール人はウズベキスタンへ全員強制移住させらてしまった。*(すっぱい)*

乾燥した過酷な風土である中央アジアのウズベキスタンから温暖で風光明媚なかつて自分達が住んでいた土地にもどって来るのであるから悪かろう筈はないと思うのだが、その現実は厳しい。

現在クリミア半島には帰還クリミア・タタール人が25万人ほど住んでいる。全人口の12%ほど。

やはり同時期に自身の独立についての多くの問題を抱えながらも両ウクライナとクリミア自治共和国は彼ら帰還クリミア・タタール人へ可能な限りの社会的経済的援助と対応をしてきたそうだ。

とは言えいまでも失業状態(労働可能者のうち60%)の人たちが多くの彼らの生活を改善する道のりは険しい。*(青ざめ)*

ここに住む主要民族であるロシア人とウクライナ人たちとどう平和に共存できるかは社会経済的な問題がうまく対応改善できて初めて可能になるのだと思う。

ここクリミア自治共和国はクリミア・タタール人も含めて信仰宗教が異なる多民族の平和的共存を成し遂げていかねばならない大きな課題を抱えている。
ロシアとウクライナの綱引きも今は沈静化しているように見えるけどいつまた再燃するのか。*(困る)*


たとえばの話であるが, 
日本固有の領土である北方領土が将来もし返還されることがあるとすると一挙に多くの問題に直面すると推察される。

日本政府の帰化ロシア人らへの対応策はもちろんそしてかつての居住者の権利への対応と新たに入植する日本人との平和的共存等が当然課題として発生する。

香港や澳門のように一国2制度を適用するのか?

既得権は?使用言語は?教育は?生活慣習は?労働慣習は?信仰宗教は?
単一民族国家をずっとやってきた日本ではまったく考える必要もなかった多民族国家ゆえの諸問題が突如現われることになる。

そんな話と少なからず縁のあることだが, 先の大戦末期北方領土のロシアへの帰属を一方的に決めたヤルタ会談が行われたリバーディア宮殿へは今回行く時間的余裕がなかった。

そんなこんな尽きぬ興味の歴史に彩られているクリミア半島のここヤルタの街にやって来れたのはとてもラッキ-だと思う。
”縁”があったのだろうか。

目の前で汗を流しつつ一生懸命仕込んでくれたドネ・ケバブ巻きを二つ受け取り20クリブナ(Euro.3.1‐)を支払った。
すぐ目の前にある船着場まで移動して波打ち際の岸壁にこしかけて出来たてのドネ・ケバブ巻きをほおばった。

後ろの屋台を振り返りながらヤルタの祭りの賑わいとは違うなにかやるせない想いがわいてきた。*(怒り)*

“お大兄しっかり稼いで家族にすこしでもいい生活をさせてやってくれよな。”*(グッド)*

真夜中になっても家族連れで賑わう海岸通りを歩いてホテルへ戻った。

買ってきたばかりのロシア語の道路地図を拡げて陸路でルーマニアへ入るルートを検討してみた。

小一時間調べてみた結論は, “ル-マニアへは行かずにウクライナを走ってポ-ランドへ入るル-トで行こう。”だった。

50万分の一の地図上で確認できる範囲ではどうしてもモルドバの国境を通過しないとル-マニアへ入国できそうもない。
ドナウ川が黒海へ注ぎ込む広大なデルタ湿地帯でその一帯を通過することになるが, くねくね走る道路と複雑な国境線が絡みあっている。

それ相当の時間と金をかける用意と覚悟があればいけるのだろうが, 今回はパスすることにした。
またいつの日かに行ってみよう。*(車)**(ニヤ)*

明日からは帰路のルートを行くことになる。
まずはヤルタから100KM弱ほど北に行ったところにあるかつてクリミヤ・ハン国の首都があったバフチサライへ立ち寄る予定。

私の名前のついたエアコンを弱にセットして明日のル-トを想いうかべながら眠りについた。








ウクライナ方面への旅-8

2006年10月13日 | 日記
今回の旅の両目玉はここヤルタ観光とルーマニアのコンスタンタに渡るフェリーボートクルーズの予定である。*(ウインク)*

少なくとも今日のこの時点では, とコトワリがつくけどね。*(はてな)*
なぜって, この日の午後3時すぎには
”その予定であった。”に変わってしまったんです。

しかしながら, 誠に残念ながら, 不本意ながら, 涙を呑んで悲嘆にくれながら, 努力の甲斐なく万策尽きトホー二クレながらこの両方の目玉を諦めなければならなくなってしまったのだった...*(ジロ)*

オリジナルの予定ではどうしたかったかというと,

セヴェストポーリ港からコンスタンタ港へ車ごと渡りそこからはルーマニアの首都のブカレストを訪ねる。

それからトランシルバニア・アルプス地方=カルパチア山脈をなぞるように北上しながらブラショウを通る。
さらに北上してローンカトリック教会の古~い修道院がいくつも点在するブコビナ地方を経てハンガリ-との国境近くにあるバイア・マ-レへ至る。

その後はハンガリーへ抜けブダペスト, チェコのプラハ, ドイツのニュールンベルグと訪ねドイツを東から西へ通り抜けてオランダへ帰国するルートを描いていたのだが。

ルーマニア, チェコ, スロバキアとハンガリーにはそれぞれ2002年と2000年の夏にも行ったことがありついこの間2003年5月からはEU諸国のメンバーに参入している国々だし西側から来る旅行者にとっての旅行ルートとしては旅の難易度はここウクライナと比較すると遥かに低い。

反面, 西欧州地域へ近づくにしたがって物価ははっきりと高くなる傾向にあるけどね。
欧州の物価は”西高東低”これではまるで冬の日本列島の典型的な気圧配置だな。

コンスタンタへ行くフェリーボートは隣町であり黒海艦隊(現在はウクライナ海軍とロシア海軍が同居している)の基地セヴェストロポーリから出ているはず。という”確信いや期待だったかな。”があった。*(ダーツ)*

この旅に出発する前にできうる限りこの定期船の情報を入手しようとした。
だけどその定期船についての情報についてはいま手元にあるフレイタク&ベンドの東欧圏の地図帳にのっているのが唯一でこれ以外の手がかりは全く無し。*(最低)*

まあ行ってみて調べるしかないかというリスク覚悟で出発するしかなかったのだ。*(コメント)*

そんな塩梅だったので, 一昨日立ち寄ったやはり黒海の港町オデッサでその情報収集をしようとそこの客船埠頭へ行ってみたりもした。

しかしそこからコンスタンタ行きの定期船は無いようだった。

ただトルコのイスタンブール行きとブルガリアのブルガス行きは就航していることが確認できた。
そして運良く訪ねたちょうどそのときにイスタンブールから到着したばかりの大型フェリーボートが接岸中で大勢の下船客でごった返していた。

という訳で今日(月曜日)はヤルタ観光をする前にまずはセヴェストポーリへ行ってフェリーボートを探し出しなるたけ早く出航する便のチケットを購入するつもりだった。

ヤルタの観光は第2次大戦が越境にさしかかりつつある1945年2月スターリンがルーズベルトとチャーチルを招いて行った密談の場所リヴァ-ディア宮殿を訪ねることだった。

朝っぱらからビール瓶片手に歩道を闊歩している凄腕のプロの保養客?を見やりながら真夏の陽光の中に輝くヤルタを抜け出した。*(車)**(ダッシュ)*

波打ち際から急角度で切り立つ断崖との間のわずかな斜面を切り開いて走る海岸道路をぬってヤルタから約100KMにセヴェストポーリはある。
一気に街の中心へ乗り込んだ。
と思った。
*(ニヤ)*
それからずい分走り廻ったけど一向に港へたどり着けない。
街中のキオスクで買った市街地の地図を見ながら探しはじめた。

ここには大小7つの整備された港があってその中のひとつの湾にコンスタンタ行きの定期便船が発着する埠頭ターミナルがあるはずなのだ。

でその顛末は?

え~とごほん, 
まずはと、 
フェリーボートがありました!
すぐその場で乗り込みました。
乗客はやけに少人数でした。
めっぽう小型船でした。
乗船チケットは車と大人二人込みでたった16クリブナ(Euro. 2.50)でした。
操舵している船長さんの姿が近くから見えました。
船員さんはやはり小所帯で5人ぐらいでした。
航海時間はおよそ20分ほどでした。

行く手の右側には幾隻かの巡洋艦・駆逐艦・哨戒艇や魚雷艇らしき黒海艦隊のグレーに塗られた船体が遠くに見え隠れしてました。
とそれらに混じってやはり何隻かの貨物船や中型客船らが停泊しているのが見えました。
到着した港は夏休みの家族連れで賑わっていました。
下船するときには入国審査はおろか税関審査も一切ありませんでした??
やってきた方角を振り返ると対岸の家並みが米粒ぐらいの大きさに見えました??
あれここもキリル文字を使っているのかな?

一体ここはどこなんでしょうか???

え~とごほん,
はるばるやって参りましたのはと, 

なんと*(すっぱい)*
セヴェストポーリのセントラル地区にあるザハーロバ広場前の船着場でした。
出航した港は対岸のやはりセヴェストポーリ北地区にあるナヒーモフ広場前にある船着場でした。
航海距離はたったの2KM強でした。

然るに, 黒海の対岸393KMかなたにあるルーマニアのコンスタンタ港へは辿り着けなかったのです。

まだウクライナにいるようです...

無声映画ではないんですけど。

音無し...
息を飲み込み続けていますので音がしません。

再び音無し...
今度は大きくてふか~いため息を出し続けていますのでやはり音がしません。

まだ音無し....
がっくりと肩が下がりうなじを垂れてます。*(最低)**(バツ)*

広場の駐車場に車を置き, 気を取り直して街中の旅行社を探してみることにした。
しばらく歩き回りましたが, そんな旅行社は一軒も見つかりませんでした。
最後にロシア風の雰囲気濃厚なハイクラスホテル?があったので中の受付でコンスタンタ行きのフェリーを訪ねてみました。

英語がよく解かるご年配のベテランらしき女性マスタ-さんがのたまわれるには,
 ”そんな船はここにはありませんよ。”
とのことでした。

簡潔明瞭至極の至りでした。

今度もやはり音無し...
がっくりと大きく肩が下がりうなじを大きく垂れてそろそろと歩いているのだが, 足の裏が殆ど地面についていない。*(青ざめ)*

二人の無言のやり取り。
”どうしようか...”
もう表情なんてありませんね。

自分達の車の近くまでとぼとぼと帰ってきて初めて, やっと”冷たいモンでも飲もうか?”
やっとよわよわしい声が出ました。

これが黒海艦隊の基地の街セヴェストポーリを訪ねての物語の一部始終です。

この街の北から南まで7つの港のすべて隅々まで殆ど一日中探し回りました。
行く先々で軍事機密扱いである筈の
軍艦も含めて写真はたくさん撮りました。
閉鎖都市であったソ連邦時代には全く考えられなかったことでしょう。
当時は軍事関係者とこの街の住人以外は全く街中には立ち入れなかったそうです。

今日は不審人物と見られても仕方がない行動三昧をしましたが, とがめられたりしたことは全くありませんでした。

ただ単に運がよかった?のかここもそういう平和な時代に入ったと言えるのか?
いずれにしても好ましいことです。*(ウインク)*

夕闇が広がり始めた7時ごろ夏祭りでごった返すヤルタの街に帰って着ました。
ヤルタ観光名所めぐりはよってパス。

そしてホテルの部屋へウチヒシガレタこの身と心を運び込みました。

さてどうしようか?*(はてな)*
”どうするの?” これは心配する息子の言葉です。

どうにかなるだろう。どうにかしなければ。*(グー)*

陸路でルーマニアへいけるのだろうか?
問題はウクライナ-モルドバ - ルーマニアの国境通過だ。
モルドバ入国にはビザがいる。
それがめっぽうたいへん難しいらしいのだ。
モルドバに入国せずにルーマニアへいけるのだろうか?
この疑問をクリアーできなければ他の選択するしかない。
それは...

明日の朝までによく考えて決めようと思った。*(笑顔)*

こんばんはヤルタの街の祭りを見に行ってみようと思った。
気分転換のためにも。*(音符)**(ビール)*

ヒヨドリ君の事故

2006年10月08日 | 日記
昨日の朝寝ぼけ眼でテレビを観ていたら, 台所の方でドンッという音が聞こえた。*(はてな)*

あれかな?と思ってまどからバルコニーの方を見ると床に黒っぽいヒヨドリ君が横たわってピクピクしていた。*(涙)*

”おおっ可哀そうに!” 勢いよく飛んできて窓ガラスに激突してしまったらしい。

まだ動いているので大丈夫だろうか?と想いながらしばらく見ていたらぱっと目を開くとすくっと立ち上がった。*(驚き)*

それからは一体何が起きたんだろう?
あれっここは一体どこなんだ?
なんでボクはここにいるんだろう?

という態で盛んにきょろきょろ辺りを気ぜわしく見まわしていたが, やっと事情がわかり始めたようで2~3回バルコニーの床をピョンピョンと動き回った後, ぽんっと縁の板の上へ飛び上がり一度あたりを見廻しサッ向かいのさわらの木の枝へ飛び去っていった。*(グッド)**(ダッシュ)**(ウインク)*

その後にはヒヨドリ君から抜け落ちた柔らかな羽毛が3つほど風に舞っていた。

ああ、大事に至らなくてよかったねヒヨドリ君!*(びっくり2)**(ニヤ)*