もう30年ほどむかしの話になりますが毎年夏の頃になるとオランダやドイツのアウトバーンとそのルートに設けられたサ-ビスエリアでまるで引越しの真っ最中であるようなあるいは昨夜夜逃げをしてきたばかりとも見えるような車の一行に出くわすことがよくあった。
単独のこともあれば数台が一緒のこともあった。
その車内にはたいてい家族連れと思しき人たちが乗り込んでいて乗車定員一杯のことがおおくリアウインドウが用を成さなくなるほどわずかの隙間にもさらに雑多な荷物が押し込まれていた。
そのうえルーフの上に取り付けられた大型の荷物ラックにもさらに山のような荷物を満載した車達だった。
多くのドイツナンバーの小型セダンやミニバンに混じって濃紺のオランダナンバーをつけた車も結構多かった。
ここまではただの夏休みへ向かう普通の家族連れとも言えるのだが。
大多数はドイツやオランダを含めて北欧州地域の人たちが夏の休暇に陽光を求めて南欧州や地中海沿岸のリゾートへ向かう組でその途中かなとも思ったが。
ただ彼らが乗っている車に新車はほとんどなくいずれも相当くたびれたように見える中古車かもしくは凸凹の痛んだボディに三毛猫や子犬のポチみたいに赤さび部分も混じったブチの塗装ボディがなおさらみすぼらしく見えるおんぼろでぽんこつ車そのものといった風体をした車もあった。
乗っている人たちの男達は濃いひげ面が目立ちまたヘッドスカーフをしている大人の女性達も多かった。
その当時わたし達はしごとで主に西欧州大陸を中型貨物車に乗って目的地から次の目的地へと週が変わるごとに東奔西走する日々を送っていたのでした。
フランスやスペイン方面へ行く時でさえ通行料がただである西ドイツ地域のアウトバーンを南下するルートを走ることがよくあった。
その頃のわたし達には仕事柄夏休みなぞまったく縁がなかったけれど欧州各国の学校や会社がいっせいに夏休みになる7月から8月ころになると必ずそういうけったいな不可解な風体の車達の一行によく出くわしました。
そばを通り過ぎながらも彼らはいったいどういう人たちでどこへ向かっているのだろうかといぶかしく思った。
そういう彼らは例外なく必ず南の方へ向かっているのだった。
なかにはアウトバーンの路肩でパンクして片輪がはずされてただいま修理奮闘中の車や乗員みんながかしいだ車の横にかたまって途方に暮れている様に見える一行も稀ではなかった。
しばらくたって彼らが郷帰り途上のトルコ人やユーゴスラビア人たちの家族連れ一行であるということを仕事のベースにしていたオランダの知人から教わった。
たしかにそう言われればゲルマン系やスカンジナビア系の人たちとは雰囲気や風貌がすこし違っていた。
あとで知ったことですが西ドイツをはじめフランス,オランダ,ベルギー等の国では1960年代のはじめ頃から70年代半ばごろまでは先の大戦後の経済復興期から高度経済成長期に入る時期に労働力不足を補うために主に地中海沿岸諸国からガスト・アルバイター(外国人労働者)を大量に受け入れたことがあったそうです。
さらに70年代に入ってからはドイツやオランダではすでに何十万人もになっていたその人たちの相当数がこんどは故郷に残してきた家族を呼び寄せるようになっていったということです。
受け入れた側のドイツやフランス,オランダ側の目論みとは違って彼らガストアルバイタ-たちは70年代にあったオイルショックに見舞われて不運にも失業した人でさえも経済的にもっと貧しい故郷へは帰らず失業保険をもらいながらそのまま定住するようになったケースがほとんどだったそうです。
あのむかし、夏の季節、アウトバーン上でよく見かけた荷物満載の車達御一行は夏休みに家族みんなで遠く離れた故郷へ郷帰りする途中のトルコ人やユーゴスラビア人たちだったのです。
経済的にはるかに豊かなドイツやオランダ
までやってきて一生懸命稼いだお金で買った生活物資や家庭電化製品とかふるさとの家族みんなへのお土産などをやはり何とか工面して購入した中古マイカーに満載して後にしてきたふるさとへ一時帰郷するために。*(ハート3つ)**(地球)**(クローバー)*
実は私自身80年代の初め(まだとても若かった頃ですね)に一度下宿したことがある家の大家さん一家がそのユーゴスラビアのボスニア出身でした。
そのガストアルバイター家族ですね。素朴でまじめな人柄の旦那と太っ腹で明るく気の好い奥さんそして長い黒髪で黒い大きな瞳がキラキラしていた純朴な高校生の一人娘がいる3人家族でした。
そしてたしかに夏休みになると荷物を満載にした中古車に乗って故郷のサラエボ近郊へ帰って行きました。*(車)**(ダッシュ)**(ニヤ)*
そしてそれからまもなくユーゴスラビアでは多種多様な生活様式や宗教をもつ複数民族国家を束ねていたチト-大統領がなくなりました。
構成している各民族集団同士の軋轢や利害関係のバランスが徐々に崩れていき、そして80年代末に吹き荒れた東ヨーロッパ諸国を変貌させた東欧革命のあらしの影響も受けてあの一連の分離解体独立へいたるバルカン半島内の凄惨な内戦と民族間紛争へとなだれ込んで行ってしまったのでした。
自分達の母国が悲惨な紛争になだれ込んで行ったあの後,あの大家さんたちはどうしたのだろうか?
そういうことを思うとなんともやりきれない。
そしてあの大家さんたちは今どこにいてどうしているのだろうか?*(怒り)*
今回の旅の往き帰りに通ったアウトバーンのルートはあのころもそしていまもトルコや旧ユーゴスラビア方面へ向かう定番のルートでもありそして言い換えればあの彼らガストアルバイター家族達が郷帰りにバルカン半島へ向かうルートでもあります。
現在ドイツ16州を駆けめぐる総延長距離12300KMのアウトバーンのドイツ中央をオランダ東部からオーストリア北西部へ縦断するルートです。
オランダ東部国境近くのアーネムからドイツのアウトバーンA3へとつながる。
このA3ルートは全区間長769kmで北からオーバーハウゼン-デュセルドルフ-ケルン-フランクフルト-ワーズブルグ-ニュールンベルグとなりその先ではレーゲンスブルグ-パッサウで次のオーストリアへ接続する。
アムステルダム南部近郊にある自宅を朝のラッシュがやや落ち着いた頃まずオランダの東にあるアーネム市へそしてドイツ中部街ニュールンベルクへ向けて出発した。
やはり年季の入った我が車にいつものように大量の飲み物とスナック菓子を積み込んで。
そして今日の目的地であるニュールンベルクでは大好物でお目当てのドネケバブ巻きをたべる予定ですからもう雨もあらしも交通渋滞さえもなんのそのです。*(グッド)**(ハート)**(グー)*
ということでやっと出発できました。
次回は今でも速度無制限のドイツのアウトバーンをひどい交通渋滞に何度も巻き込まれながらもひたすら南下するファーイーストからやってきたゲストアルバイダーならぬTABIKUMAの旅の様子を書き綴ります。*(ニヤ)*
単独のこともあれば数台が一緒のこともあった。
その車内にはたいてい家族連れと思しき人たちが乗り込んでいて乗車定員一杯のことがおおくリアウインドウが用を成さなくなるほどわずかの隙間にもさらに雑多な荷物が押し込まれていた。
そのうえルーフの上に取り付けられた大型の荷物ラックにもさらに山のような荷物を満載した車達だった。
多くのドイツナンバーの小型セダンやミニバンに混じって濃紺のオランダナンバーをつけた車も結構多かった。
ここまではただの夏休みへ向かう普通の家族連れとも言えるのだが。
大多数はドイツやオランダを含めて北欧州地域の人たちが夏の休暇に陽光を求めて南欧州や地中海沿岸のリゾートへ向かう組でその途中かなとも思ったが。
ただ彼らが乗っている車に新車はほとんどなくいずれも相当くたびれたように見える中古車かもしくは凸凹の痛んだボディに三毛猫や子犬のポチみたいに赤さび部分も混じったブチの塗装ボディがなおさらみすぼらしく見えるおんぼろでぽんこつ車そのものといった風体をした車もあった。
乗っている人たちの男達は濃いひげ面が目立ちまたヘッドスカーフをしている大人の女性達も多かった。
その当時わたし達はしごとで主に西欧州大陸を中型貨物車に乗って目的地から次の目的地へと週が変わるごとに東奔西走する日々を送っていたのでした。
フランスやスペイン方面へ行く時でさえ通行料がただである西ドイツ地域のアウトバーンを南下するルートを走ることがよくあった。
その頃のわたし達には仕事柄夏休みなぞまったく縁がなかったけれど欧州各国の学校や会社がいっせいに夏休みになる7月から8月ころになると必ずそういうけったいな不可解な風体の車達の一行によく出くわしました。
そばを通り過ぎながらも彼らはいったいどういう人たちでどこへ向かっているのだろうかといぶかしく思った。
そういう彼らは例外なく必ず南の方へ向かっているのだった。
なかにはアウトバーンの路肩でパンクして片輪がはずされてただいま修理奮闘中の車や乗員みんながかしいだ車の横にかたまって途方に暮れている様に見える一行も稀ではなかった。
しばらくたって彼らが郷帰り途上のトルコ人やユーゴスラビア人たちの家族連れ一行であるということを仕事のベースにしていたオランダの知人から教わった。
たしかにそう言われればゲルマン系やスカンジナビア系の人たちとは雰囲気や風貌がすこし違っていた。
あとで知ったことですが西ドイツをはじめフランス,オランダ,ベルギー等の国では1960年代のはじめ頃から70年代半ばごろまでは先の大戦後の経済復興期から高度経済成長期に入る時期に労働力不足を補うために主に地中海沿岸諸国からガスト・アルバイター(外国人労働者)を大量に受け入れたことがあったそうです。
さらに70年代に入ってからはドイツやオランダではすでに何十万人もになっていたその人たちの相当数がこんどは故郷に残してきた家族を呼び寄せるようになっていったということです。
受け入れた側のドイツやフランス,オランダ側の目論みとは違って彼らガストアルバイタ-たちは70年代にあったオイルショックに見舞われて不運にも失業した人でさえも経済的にもっと貧しい故郷へは帰らず失業保険をもらいながらそのまま定住するようになったケースがほとんどだったそうです。
あのむかし、夏の季節、アウトバーン上でよく見かけた荷物満載の車達御一行は夏休みに家族みんなで遠く離れた故郷へ郷帰りする途中のトルコ人やユーゴスラビア人たちだったのです。
経済的にはるかに豊かなドイツやオランダ
までやってきて一生懸命稼いだお金で買った生活物資や家庭電化製品とかふるさとの家族みんなへのお土産などをやはり何とか工面して購入した中古マイカーに満載して後にしてきたふるさとへ一時帰郷するために。*(ハート3つ)**(地球)**(クローバー)*
実は私自身80年代の初め(まだとても若かった頃ですね)に一度下宿したことがある家の大家さん一家がそのユーゴスラビアのボスニア出身でした。
そのガストアルバイター家族ですね。素朴でまじめな人柄の旦那と太っ腹で明るく気の好い奥さんそして長い黒髪で黒い大きな瞳がキラキラしていた純朴な高校生の一人娘がいる3人家族でした。
そしてたしかに夏休みになると荷物を満載にした中古車に乗って故郷のサラエボ近郊へ帰って行きました。*(車)**(ダッシュ)**(ニヤ)*
そしてそれからまもなくユーゴスラビアでは多種多様な生活様式や宗教をもつ複数民族国家を束ねていたチト-大統領がなくなりました。
構成している各民族集団同士の軋轢や利害関係のバランスが徐々に崩れていき、そして80年代末に吹き荒れた東ヨーロッパ諸国を変貌させた東欧革命のあらしの影響も受けてあの一連の分離解体独立へいたるバルカン半島内の凄惨な内戦と民族間紛争へとなだれ込んで行ってしまったのでした。
自分達の母国が悲惨な紛争になだれ込んで行ったあの後,あの大家さんたちはどうしたのだろうか?
そういうことを思うとなんともやりきれない。
そしてあの大家さんたちは今どこにいてどうしているのだろうか?*(怒り)*
今回の旅の往き帰りに通ったアウトバーンのルートはあのころもそしていまもトルコや旧ユーゴスラビア方面へ向かう定番のルートでもありそして言い換えればあの彼らガストアルバイター家族達が郷帰りにバルカン半島へ向かうルートでもあります。
現在ドイツ16州を駆けめぐる総延長距離12300KMのアウトバーンのドイツ中央をオランダ東部からオーストリア北西部へ縦断するルートです。
オランダ東部国境近くのアーネムからドイツのアウトバーンA3へとつながる。
このA3ルートは全区間長769kmで北からオーバーハウゼン-デュセルドルフ-ケルン-フランクフルト-ワーズブルグ-ニュールンベルグとなりその先ではレーゲンスブルグ-パッサウで次のオーストリアへ接続する。
アムステルダム南部近郊にある自宅を朝のラッシュがやや落ち着いた頃まずオランダの東にあるアーネム市へそしてドイツ中部街ニュールンベルクへ向けて出発した。
やはり年季の入った我が車にいつものように大量の飲み物とスナック菓子を積み込んで。
そして今日の目的地であるニュールンベルクでは大好物でお目当てのドネケバブ巻きをたべる予定ですからもう雨もあらしも交通渋滞さえもなんのそのです。*(グッド)**(ハート)**(グー)*
ということでやっと出発できました。
次回は今でも速度無制限のドイツのアウトバーンをひどい交通渋滞に何度も巻き込まれながらもひたすら南下するファーイーストからやってきたゲストアルバイダーならぬTABIKUMAの旅の様子を書き綴ります。*(ニヤ)*