navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

ウクライナ方面への旅-4

2006年09月10日 | 日記
ホテル ウクライナの建物が夕陽を受けて紅に染まっていくのがここからよく見える。*(晴れ)**(ウインク)*

今いる独立広場は1991年に旧ソ連邦が瓦解解体した後に独立国家と成ったウクライナの独立記念に造られたものだそうです。

広場のあちこちに造られたいくつもの形の違った噴水が特徴ですね。

他の欧州諸国の東側も西側も都市や町の中心となるところは必ずその街の大きさに関係なくどこでも大きな広場がありますね。
それぞれの街のアイデンティティみたいなものですか。

ここキエフでもそうでしたが,全く見知らぬ街へやって来て”セントラム”と言う標識を辿ってその街の中心までやってくるんです。
そうすると大体その街の様子や大きさが解かってそのときの目的にも拠りますがその後の行動の判断がしやすくなりますね。

”なにはともあれまずはセントラムへ”ですね。*(ニヤ)*

この広場はネザレージュノスティ広場という名前で呼ばれております。

つい最近のことですが,2004年にクチマ大統領の後任を決める選挙で不正が有ったとして選挙のやり直しの結果,西側寄りの政策を打ち出したユーシエンコがロシアよりの政策を基盤としたヤマコッビッチに対して逆転勝利を成し遂げた”オレンジ革命”の舞台となった場所でもあります。*(みかん)**(チョキ)*

ここで入手したガイドブックにもその時広場を埋め尽くしたオレンジ色の帽子や鉢巻そしてたなびく旗の波の中の群集たちの写真が載せられていました。

東西欧州諸国は勿論ロシアとアメリカがそれぞれ干渉して繰り広げられた歴史的な大統領選挙で欧州のテレビでも連日大々的に取り上げらておりました。*(アメリカ)**(ドイツ)**(イギリス)*

地政学的なウクライナの位置の宿命か東の強大パワーであるロシアと西欧州地域それから南のイスラム圏とのちょうど狭間にあるということでここウクライナはその時もそして過去の歴史上いつでも蹂躙されたり重い荷を負わされたり絶えず緊張を強いられるという宿命を背負わされている地域ですね。*(いっぷく)*

そういう地域・地帯・国々は世界中あちこちにありますが,
”いつも狭間は辛いよ。”
ですね。*(困る)*

無責任な私のようなよそ者にとっては”だから尽きぬ興味をそそられる地域とその歴史。”なんですね。
ウクライナの方々には失礼で申し訳ないナ。

キエフの街の見所は大体この独立広場界隈と街の東西に分けるドニエプル西河畔沿い
に在るようです。

翌日早朝から市内見物開始。
ホテルの部屋からの眺めでおおよその土地勘をつけホテルのキオスクで買った市街地図を見ながら澄んだ青空の下私たち二人は半ズボンポロシャツサンダル履きの”純正ホリディ姿”の出で立ちでキエフの街を歩きはじめました。*(足)**(音符)*

まずは小手調べです。
初っ端に入った銀行で両替に差し出した20ドル札の一枚が偽札だと言われ返されてしまった。シュンッ。

そのお札は出かける前の週にアムステルダム空港の銀行で両替してきた物なのに...*(困る)*

とにかくけっこうな坂道が多い街で地図で見る位置・距離関係とは微妙に違うことが多くて,いやそれ以上にいやぁ暑くて暑くて持っていたハンカチがびっしょりになるほど汗がでてくる。

目的地はウラジミール聖堂,黄金の門,ソフィア大聖堂,アンドレイ教会,ウクライナ歴史博物館,聖ミハイル修道院らで案内書には歩いて廻れる距離にあるとのことだが果たして如何に!*(びっくり2)*

今回生まれて初めて現役中の東方正教会の中に入ったことになる。

内装は黒と金と濃紺の彩りの聖フレスコ画と金の十字架を戴く聖物で埋め尽くされていた。
葱坊主の天蓋までフレスコ画が描かれ外縁に配された10もある天窓から降り注ぐ光がさらにその荘厳さを醸し出しているようだ。

やはり宗教というのは俗世界とは異なる畏れ多い荘厳な見栄えと雰囲気の演出が大事なのだろうか。
西欧地域のカソリック教会もやや雰囲気は異なるところがあるが荘厳さはひけをとらないといえるでしょう。

葱坊主形の濃い緑色屋根の又その上に金色に輝くふた周りほど小さな葱坊主の屋根をいただきその上に紛れもなき黄金の十字架をいただくソフィア大聖堂は総本山であるビザンチン帝国のアギア.ソフイア大聖堂からその名を採ったという。
11世紀に創建され現在の建物は17世紀のものらしい。

そのオリジナルのアギア.ソフイアについては15世紀にメフメット2世のオスマントルコ帝国によるコンスタンチノープル陥落後モスクに改装されてしまい,現在はイスタンブールのソフイア博物館になってる。

2年前にイスタンブールを訪れた時は幾多の地震による倒壊や劇的な改装を経て静かに佇むその姿は今でもかつての栄華を忍ばせるのに十分な威容を誇っているように見えた。

入場券を買い正門であり鐘楼になっている塔に登ってみた。

大人2人がすれ違うのがやっとという螺旋階段をふうふういいながら上り詰めた展望階からの眺めもまたすばらしかった。
その上開放された吹き通し窓から涼しい風が吹き上がってきてなんとも心地よい。

ホテルのからの眺望もよかったがここからの展望は正に
”絶景かな!絶景かな!”*(グッド)*

おそらくキエフの街の最も高台にあるのだろうかキエフの街並みはおろか周囲に拡がる一帯全貌が見渡せる。*(地球)*

たった今行ってきたばかりのウラジミール聖堂の葱坊主形屋根は勿論ドニエプル河を行きかう遊覧船?やボート,対岸と結ぶ道橋が3つそれよもなによりキエフの周りに拡がる大穀倉地帯(大草原)が遥か彼方まで淡い夏霞?の中に見渡す事ができた。

そんなパノラマの中でも一際目立っていたのが目と鼻の先の距離にある聖ミハイル修道院の建物群。

一点の雲もない蒼穹をバックに真夏の陽光を鮮烈に反射して金色に輝く葱坊主形屋根の群れ。自然界のハイビジョン映像のごとき激烈鮮烈な景観でした。
清らかな青色の修道院建物の上に林立するこの金色の屋根はなんかこの世のものではないもの様に見えました。

絶景と涼しいそよ風に名残惜しさを残しつつその鐘楼を下り次のアンドレイ教会に向かう。

しかし残念ながら(観光客にとっては です)どうも今日は新婚さんの結婚式が行われているようで一般観光客は入れませんでした。

教会脇の大きな木陰に入るとスッと涼しくしくなる。
外気温は結構高いのだろうが湿気がないのか体感温度で10度近く涼しく感じる。

木陰から出てその教会の脇の下り坂を再び暑さに弄られながら歩き始める。

露店らしきものが両側の歩道に連なっている。
茶色い仔犬が二匹じゃれあいながら狭い歩道に立ち並ぶ露店を訪れているショッピング客達の間をまろび転がっていく。
やんちゃなかわいい奴等だな。*(ラブリー)**(ニヤ)*

これがアンドレイ坂か。

観光客目当ての民芸品,バルト海の琥珀製の装飾品類,自作の絵やガラクタ類を売っている。

息子はウクライナ軍純正と思しきオイルライター(薬きょう型のボディ)を前後2波状攻撃で値切って買いました。

私は”パレフ塗りの小箱”を前後3波状攻撃の末撃破最終的に定価60ドルを45ドルで入手する。
17センチ幅ほどの宝石箱みたいな形の小箱です。

黒の漆ベースに猫の毛の筆で染料を使って描き金箔をあしらった細密画が描いてあってこれはすばらしい工芸品です。

絵柄はなにかウクライナ民族の民話の中の一こまを描いたようで民族衣装を着た王侯貴族風の若い乙女達が春先の野に集まっているいる華やぎがあらわされているようです。

細密画はインド,トルコ,ギリシャ,エジプト等各地にあるらしく,とっても芸術性が高いものです。
勿論このロシアや東西スラブ民族地域には共通してある工芸文化のようです。

昼下がりと思っていたら,ここまで来るのにもう夕方の時刻になってしまい今日の訪問日程のほぼ半分を消化した時点で店じまいをすることにした。

ホテルへ帰る途中息子はインターネットカフェに引っかかってしまった。
待っている約1時間ほどの間 外の広場の一角に腰を下ろし途中買ってきたキエフの観光ガイドブックを拾い読んだ。

え~と西欧や世界中どこの有名観光地へ行ってもたいていはいろんな言葉のガイドに混じって日本語のガイドも必ずあるのが常識の昨今。

しかしです、ここキエフには日本語のガイドブックはありませんでした。少なくとも訪問した所にはね。
日本人の旅行者(らしき人たちも含めて)には一人も出会いませんでした。

でも,反面ほっとしましたけど。

この広い世界には少しはそういうところがあってもいいよね。

変なところに安堵のため息をついたりして,ロシア,べラルーシ そしてウクライナの祖であり揺籃の地キエフにいい印象が持てました。

噂高きウクライナ美人で溢れ返るフレシチャチーク通りを歩きながらはるばるやってきてとっても好かったとも思いました。*(ハート)**(ウインク)*

次回はキエフを後に一路南に向かい黒海の港町オデッサへの旅を続けます。