創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

気づくべき恐ろしいシナリオ

2015-11-26 15:50:36 | 政治   
気づくべき恐ろしい政財官のシナリオ
新自由主義の標語といえば、「最弱の貧国層は自己責任で住宅を奪われ、最高の富裕層は公的資金で財産を保護される。」
 あまりにも酷い現実を作り出していく新自由主義者=選民思想が、政治を支配する資本家層であり、自己実現の手段として政治を支配する構造が、現在の資本主義の発達とともに構築されてきた国家構造だということになる。資本の論理は社会全体を否定し、企業の規制緩和は政治政策と癒着して、社会問題化した少子高齢化や生産性のない「大量の弱者」の問題を排斥し、自らの企業活動を支えられる層の選民以外は社会内の不要者として位置づけている。つまり、その中から這い上がれる者だけが生き残れる弱肉強食の゜企業倫理が国家理念にすり替わってしまった。人口の増加はもはや望めないどころか、富裕な支配層である政財官の連合体は、国民を間接的に死へと追いやる政策へと、徐々に転換していることに気付くべきである。しかし、まだ政治の実権は選挙に反映される国民が握っている。そこで、我が国では自民党が生き残るための露骨な、見え透いた国民偽装政策で繋ぎとめ、憲法改正と同時に一気に排除へと突き進む計画と考えてよいだろう。これは隠された恐ろしい計画だといっていい。当然、この計画を阻止するための国民運動が高まるはずだ。それは徹底的に弾圧するはずである。寝耳に水の国民は多いかもしれないが、けして突飛な想像とはいえない。さあ、これ国民が阻止できるか。事態は、ここまで来ているし、すでに始まっている。





新しい共同体の在り方

2015-11-26 14:57:19 | 共同幻想
新しい共同体の在り方
 マルクスは「意識とは意識された存在に他ならない」といっています。つまり、存在が意識を規定するとも言い換えられます。意識された存在だけが意識を決めているんだという意味でもあり、その存在が意識を生み出しうる源泉だともいえます。存在とは人間にとっていえば、社会環境や生活環境、自然環境といった個人の周りのすべての状況をさしています。
 これに対して吉本隆明は「人間の具体的な社会生活過程そのものが、人間が生み出す幻想そのものを規定する。」という言い方をしています。吉本はマルクスの影響が大きいため、言い方を自分なりに言い換えてはいても内容は同じだといえます.存在=社会過程であり、意識=幻想と言い換えられているだけです。ただ、吉本はさらに進めて、「人の心が動かし演ずるところのものと人間の具体的生活過程とは関係がない、またある場合には全く逆に出てくることもある。」と書いている。これは、幻想=観念という意識が生み出す世界のことで、マルクスとの両者をまとめれば、意識は存在とは遊離して独り歩きし、それが観念の世界の領域を拡大する。存在といわれる環境全体そのものを逆に規定したり、生活実態とは無関係な想像の世界を構成することも可能であるとなる。
 例えば、共同体の巧みに支配を利用して、政府は理念としての、国民が共有しているはずの規範を、自分が考えている世界に変えてしまう、新たな規範を生み出すこともできる。観念の世界が現実を規定してしまう端的な例である。
 「具体的・現実的社会そのものが国家を規定するというのがひとつの一端だとすれば、もう一方の一端は、そういうことは全然関係なく、人間は人間の心の集まりで生み出せるものだという両端があります。その両端の間に挟まっている幅や構造を捉えなければ、ほんとうは分かったとはいえない。」といっています。
 思想では、このテーマの両端の間の構造を考えて捉えることが重要であるということになります。心の集合が生み出す共同性の構造と、国家と個人との関係から国家に疎外されてしまい、また逆に国家の共同性を規定する社会構造の特性の構造を捉えることが重要だということです。それは個々の社会の歴史や地域性で違いがありますから、その差異を見極めることと、その上でその共同体に合う共同性を勝ち取り共有していくことが求められる。

対幻想の変容

2015-11-25 15:07:23 | 対幻想
対幻想論の拡張
 吉本隆明が使い始めた対幻想の言葉の概念は、一対の男女の性の観念の世界を指し、本質は家族ということになる。しかし、対幻想は性に関わる全観念領域を対しようとすべきだといえる。例えば男女性がうしなわれた状況などは対幻想の解体と規定してしまうが、そうではなくて対幻想の変容ととらえるべきで、対幻想概念は意味を失ったり対幻想そのものの用語が解体したわけでもない。家族を核として考えてしまうと、現代の性の態様が総体として捉えられなくなってしまう。

宮沢賢治の無意識

2015-11-25 12:13:20 | 文学
宮沢賢治のコンプレックス
 検事の作品の登場人物の名前が外国人的であったり、また銀河鉄道のような宇宙的な発想の根拠には、土着性からの離脱の無意識が作用していたのではないかと考えられる。彼は、豪農の生まれですが移住者として近江から花巻に移り住んでいます。当時の豪農の移住者は先住の人たちからは、上辺はお付き合いはあったとしても「キツネ憑きの家だ」などと白い目で見られたり、排斥されたり沿引かな差別を受けています。そうした意識は単なる宗教意識からできなく、賢治の無意識に、土着性からの離脱が働いていたと考えるのが正しいだろうと思われます。

役にたちそうもないことに・・

2015-11-25 11:56:08 | 日記
役に立ちそうにないことな・・
大人になるほど合理的にならざるを得なくなる。特に、日本人は役に立たない無駄なことはやらず、金になることに先鋭化する。それは仕方がないのでしょうし、資本主義が高次化するほど、それを強いることになります。しかし、実は大事なのは、役に立つかどうかわからないことに熱心に取り組むことが何かを公正に生み出す可能性を持っている。例えばファーブルの昆虫記は、小さなフンコロガシの行動を熱心に観察している。こんなことをする日本人は、よほど生活環境でも整わない限りはできることでもないし、そうした志向性は存在していないかもしれない。人から見たら役に立たない、一見取るにも足りないつまらなそうな研究にも大きな可能性が秘められていることがあるんだという認識を、日本の文化から刈り取られなければ未来の可能性はある。安倍政権は、愚かにもこうした姿勢を完全に根絶やしにしようとしている。