創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

芸術と宗教   宮沢賢治の場合

2015-08-01 16:36:46 | 文学
芸術と宗教  宮沢賢治の場合
 宮沢賢治の最後の思いは、芸術と宗教、さらには宗教と科学を合わせられないかというものでした。一般的には芸術と宗教は違うと考えるべきです。
 そもそも賢治は日蓮宗の法華経の信者です。しかし、彼は信者であるとともに、文学者でもあります。宗教の本質は、自分の宗教思想に他の異なる考えや思想を同化してほしい、あるいは自分の考えている内容に誘い込んで、同じ考えに変わってほしいと考える。それが宗教の眼目です。
 しかし、文学は自分の考えていることや思っていることを、意図的に感化して影響下に置くということが目的ではありません。例えばある小説を読んでも、ある政治的感化をさせるということはできません。感じたり考えることは読者の自由です。読者に任されるのが文学の本質です。これはかつて「政治と文学」というテーマの歴史的な論争でも、大いに問題になったテーマでした。
 つまり賢治は、文学者であるとともに宗教かです。自己の内部は、当然自己矛盾にさらされるわけです。文学は、書き手の思った通りになるとは言えません。作者の意図したモチーフと同じモチーフとして理解する。しかし、いつもそうはいきません。また宗教には、それを強いるものが含まれてしまいます。これが決定的な違いです。そこで彼は宗教を超える宗教、普遍的な宗教とはなにか。そのことを求めたはずです。その最大のテーマを取り込んだのが「銀河鉄道の夜」でした。

芸術と宗教   宮沢賢治の場合

2015-08-01 16:36:46 | 文学
芸術と宗教  宮沢賢治の場合
 宮沢賢治の最後の思いは、芸術と宗教、さらには宗教と科学を合わせられないかというものでした。一般的には芸術と宗教は違うと考えるべきです。
 そもそも賢治は日蓮宗の法華経の信者です。しかし、彼は信者であるとともに、文学者でもあります。宗教の本質は、自分の宗教思想に他の異なる考えや思想を同化してほしい、あるいは自分の考えている内容に誘い込んで、同じ考えに変わってほしいと考える。それが宗教の眼目です。
 しかし、文学は自分の考えていることや思っていることを、意図的に感化して影響下に置くということが目的ではありません。例えばある小説を読んでも、ある政治的感化をさせるということはできません。感じたり考えることは読者の自由です。読者に任されるのが文学の本質です。これはかつて「政治と文学」というテーマの歴史的な論争でも、大いに問題になったテーマでした。
 つまり賢治は、文学者であるとともに宗教かです。自己の内部は、当然自己矛盾にさらされるわけです。文学は、書き手の思った通りになるとは言えません。作者の意図したモチーフと同じモチーフとして理解する。しかし、いつもそうはいきません。また宗教には、それを強いるものが含まれてしまいます。これが決定的な違いです。そこで彼は宗教を超える宗教、普遍的な宗教とはなにか。そのことを求めたはずです。その最大のテーマを取り込んだのが「銀河鉄道の夜」でした。

アフリカ的段階の教育

2015-08-01 16:06:28 | 歴史
教育の歴史 
  I アフリカ的段階の教育 
 近代ヨーロッパが世界の歴史の中心と考えられた一時期に、原始時代は単に野蛮、未開な世界として歴史からは排除されていた。しかし、歴史概念を哲学として現在も成り立たせるには、実は排除された文化の中に精神の内在史を人類の母型として取り出すことで、わたしたちは人類の原型に行き着けると考えられるまでに到っている。それは、ヘーゲルの同時代の近代絶対主義が生み出した、いわゆる「世界史=人類の文明の発展と進化の過程」といった考え方を越えて、さらに深化する道でもある。
 ここで、アフリカ的段階とは、原始時代以後の歴史的時間概念としての初期の文明段階であり、人類がいかなる地域で生活を開始していても必ず通過する、人類の過去の野蛮、未開、原始を内在的な世界を根拠として位置づける文明の段階を指している。文明とは、都市が形成される以前からの段階を指していることはいうまでもない。それはヨーロッパ近代が無倫理、未開、無知、粗野と形容し、彼らの歴史の進化過程から排除した段階でもある。それは、ヨーロッパ近代が人類の歴史の外在的な環境の共通部分を取り出して、単一な精神の進化が文明の進展と比例するという考え方を、初めて生み出す結果となった。しかし、はたして歴史認識はそれだてげ十分だろうか。
 原始未開の時代の精神と、現代の進んでいるはずの文明の中での、わたしたちの精神はどれほど進化しているといえるだろうか。ささいな事が原因で、傷害や殺人事件は多発し、進んでいるはずの都市文明の生活の場ほど、人は精神の病を抱え、あるいはさまざまな都市問題と遭遇している。フロイトが嘆いていた文明世界市民の原始時代への退歩は、まさに彼が研究していた人間の欲望の中に潜んでいたことになる。すなわち科学は進化しているはずにも関わらず、精神が科学の進化に比例して高次化できているとはとても思われない。太古から現在まで人類に貫いている、欲望の裏に張り付いた洗煉されない野蛮性、残酷性、残虐性といった衝動は、いくら論理で武装しても、いくら衝動や欲望を抑圧しても、人類社会の在り方全体から反射されて意識内にわき上がってくる情動だ。人類社会が真にこれらの自然発生的な社会環境を、意識的にか必然的にかは別として、どう意識的に考えても、無意識に考えても、その野蛮性や残酷性や残虐性が意識内に暗部として発生しないといえる環境ができあがるまでは、現在、行われている戦争やテロによる残虐行為は消えることはなさそうだ。これらの野蛮な心的あるいは現実的な下層状態は、文明の発展と進化の基層に停滞し、わたしたちの精神の全体を包み込んでいる。原始から連綿と続く人類の意識の系譜に流れ込んでいる風俗、習慣と共に、わたしたちの意識は、それらを駆逐できずに引きずっているのは、人類そのものもの限界を覗かせているのかもしれない。おそらく、その原因は地球上に生命として存在し得た、他の生命とは異なる要素を持った人間であるという理由によってであり、科学的進化を成し遂げる探求成果とは別の範疇に属している機械化できない意識の領域の、あるいは身体領域の内部に潜み、性衝動、性行為が人間的自然の男女という対幻想と、子孫を人類として残す現実的行為にも潜んでいる。また、まだ21世紀という人類史の初期段階では、依然としてできたばかりの近代国家という共同体や、国家相互の秩序の未完成な関係性や、国家内部のさまざまな矛盾を抱えながらも、人類はたとどたどしく多くの犠牲を払いながらも、なんとかここまで来ている。
 ただ、わたしたちの歴史観でいうとすれば、その同時代の、瞬間ごとの全人類の精神と身体の行動との総和で歴史概念は成り立っている。わたしたちがいうアフリカ的段階とは、19世紀ヨーロッパが生み出した近代絶対主義の考え方とは異なり、自然にまみれ、自然と対話し、あるいは交感した人類の内在的な母型の、豊穣なる情念や感性が溢れる世界でもある。これを西欧近代は排除することで、限定的な文明論を展開してきたことは承知の通りだ。氏族集落を形成し、さらに複数の氏族共同体を統一した複合体が組織化され、肥大化して一部族国家の政治組織形態までをも含む時期とも考えられている。つまり、初期の統一国家を形成し、その国王が奴隷を支配するといった専制支配を指している。さらに宗教は自然宗教の段階にある。

脱愛国心が意味するもの

2015-08-01 15:58:55 | 思想
脱愛国心・・愛国心に変わるもの
 自分たちが暮らす市民社会は、現在日本という国家共同体により各人が生活を営んでいる。欧米が育てた政治制度である民主主義が、戦後日本の体制となっている。自ら獲得した制度ではなく、欧米の人民が多くの犠牲を払うことで獲得してきた智慧と戦いの歴史ともいえる。日本は、歴史的にも自力で政治思想と制度を大衆が作り上げた経緯はない。他国からの制度を移入すると、元々自国で共同体を運営していた理念や、住民の意思、あるいは受け止め方、歴史的あり方、習俗、慣行などが長い歴史で意識に染みついている。ちょうど接ぎ木のように、従来の社会的総体を養分として吸収しながら外から取り入れたリニューアル制度を植え付けてしまう。そこで一見斬新な形が外からは見えても、特性のある実体が次第に変形しながら成長を遂げる。それを繰り返して、積み上げてきたのが現在の日本の政治制度だ。
 近代国民国家は帝国主義国家へと成長し、自国の産業の成長や資源の獲得のため、国境を越えて経済を発展せざるを得なかった。この近代国家の枠組みが愛国心を醸成してきた。国家という共同性の構成員としての意識が、明治時代以降に人々の意識に形成され、家族の一員、地域の構成員と同時に、大きく意識を被うように国家を意識することになった。自国が国家形成され、他国との関係を一国主義で達成していくことが努力目標であった。侵略、植民地主義という悪しき政策は世界を被った。こうした一国主義、資本主義の高次化した帝国主義(独占資本主義)は植民地を求め、それに反発した社会主義思想が運動を開始したのも、その動きに拮抗していた。まさに膨張主義、覇権主義が帝国主義の表裏ともなった。
 愛国心とは抽象的な共同性の国家を「愛する」ということ。この発想は実は近代国家の生成期から、外敵としての他国を意識することから始まった。領土拡張、領土保全、植民地侵略、略奪などの次元の低い段階の概念だ。抽象体を具体的に愛するには無理があった。そこで、日本では神道=現人神天皇を具現化し、愛国という抽象を心的に支えようと図った。私たちはその意図を脱愛国心から、私たちは次にくるものを求めている。なぜなら、その狭さが私たち大衆を戦争へと向かわせる最大の原因でもあるからだ。私たちは、国家という狭隘な愛国心幻想と、その宗教的な幻想観念を徹底して批判してきた。国境という境界である幻想の観念は、同じ人間同士を殺し合いの渦に巻き込んでしまう可能性をいつでも孕んでいるからだ。その幻想の国境の先には、別の国という観念を被された異質の領域、異質の歴史、異質の文化などの枠組みが固定化される。国境は地域に変えると、少し意味が変わってくる。また、過去の既成の概念を消去してみると、過去の歴史にみる対立感情や領土へのこだわりは消え始める。国という共同体の観念は、実は実態のない幻想を固定化することで、まるで実態だと勘違いしているにすぎないと気づく。この固定化した国家概念を取り払うと、人類全体が、さまざまな差異をもっているものの、ある共通の括り方で共有できることが見え始めるはずだ。 かつてマルクスはプロレタリアートという概念を見つけ出し、世界の人々が国境を越えて、共通基盤が持て、連帯できると考えた。この思想にたどり着くことができたのは、時代の状況が可能にしたともいえる。そうした考えにたどり着く知識の継承と、ある特定の個人の想像を絶する努力と創意で達成できた、人類の成果だ。しかし、彼のその成果は長くはもたなかった。というのも、歴史の進化を読み切れなかったこと、またさまざまな事態を想定しきれてはいなかったことが原因となった。もし、彼の生命が数世紀でももっていたら、おそらく自ら考え出した思想を修正し、さらに内容を進化させたに違いない。しかし、人間の生命はディプロイド細胞でできている。すなわち有限だ。限られた命を次世代に引き継ぎながら継承し、有限な生命の中で考えを作り出さねばならない。ある人間の獲得し生み出した成果の延長で、新たなものを生み出し続けていくしかない。
 では、国家という共同幻想の観念をもし解消したら、世界の人々とどのようにして共有し、連帯できる枠組みが生み出せるか。社会主義や共産主義の誤謬を学ぶことのできた私たちは、よりよい人類の未来を生み出す岐路に立っている。国家の違いや、宗教、人種、民族、階層を越えて連帯できる概念はあるだろうか。大衆、庶民、生活者という概念は、それを満たすに十分ではないか。それぞれの「大衆」、「庶民」、「生活者」の概念を規定しておく必要がある。その中から新たな用語の、あらたな概念が形成されうるのではないか。

Don't open the door for militalism

2015-08-01 09:38:46 | 歴史


Door of militarism, are about to be opened!
The door of Japan that are protected by the Peace Constitution peace, the United States has been knocked. Its doors Japan's Liberal Democratic Party Abe administration is trying to open from the inside. When this would open once, ravages of citizens involved, it would be converted to disastrous militarism nation. So, it should not be open to Zetta. To all the masses of Japan you are Daidodanketsu, even joined the Iraq war the United States of the original Marine Richard Strada -'s in Tokyo of rally, and complained. Everyone, Shinzo Abe and the LDP war regime Let's overthrow can not remain.