創造的深化

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脱愛国心が意味するもの

2015-08-01 15:58:55 | 思想
脱愛国心・・愛国心に変わるもの
 自分たちが暮らす市民社会は、現在日本という国家共同体により各人が生活を営んでいる。欧米が育てた政治制度である民主主義が、戦後日本の体制となっている。自ら獲得した制度ではなく、欧米の人民が多くの犠牲を払うことで獲得してきた智慧と戦いの歴史ともいえる。日本は、歴史的にも自力で政治思想と制度を大衆が作り上げた経緯はない。他国からの制度を移入すると、元々自国で共同体を運営していた理念や、住民の意思、あるいは受け止め方、歴史的あり方、習俗、慣行などが長い歴史で意識に染みついている。ちょうど接ぎ木のように、従来の社会的総体を養分として吸収しながら外から取り入れたリニューアル制度を植え付けてしまう。そこで一見斬新な形が外からは見えても、特性のある実体が次第に変形しながら成長を遂げる。それを繰り返して、積み上げてきたのが現在の日本の政治制度だ。
 近代国民国家は帝国主義国家へと成長し、自国の産業の成長や資源の獲得のため、国境を越えて経済を発展せざるを得なかった。この近代国家の枠組みが愛国心を醸成してきた。国家という共同性の構成員としての意識が、明治時代以降に人々の意識に形成され、家族の一員、地域の構成員と同時に、大きく意識を被うように国家を意識することになった。自国が国家形成され、他国との関係を一国主義で達成していくことが努力目標であった。侵略、植民地主義という悪しき政策は世界を被った。こうした一国主義、資本主義の高次化した帝国主義(独占資本主義)は植民地を求め、それに反発した社会主義思想が運動を開始したのも、その動きに拮抗していた。まさに膨張主義、覇権主義が帝国主義の表裏ともなった。
 愛国心とは抽象的な共同性の国家を「愛する」ということ。この発想は実は近代国家の生成期から、外敵としての他国を意識することから始まった。領土拡張、領土保全、植民地侵略、略奪などの次元の低い段階の概念だ。抽象体を具体的に愛するには無理があった。そこで、日本では神道=現人神天皇を具現化し、愛国という抽象を心的に支えようと図った。私たちはその意図を脱愛国心から、私たちは次にくるものを求めている。なぜなら、その狭さが私たち大衆を戦争へと向かわせる最大の原因でもあるからだ。私たちは、国家という狭隘な愛国心幻想と、その宗教的な幻想観念を徹底して批判してきた。国境という境界である幻想の観念は、同じ人間同士を殺し合いの渦に巻き込んでしまう可能性をいつでも孕んでいるからだ。その幻想の国境の先には、別の国という観念を被された異質の領域、異質の歴史、異質の文化などの枠組みが固定化される。国境は地域に変えると、少し意味が変わってくる。また、過去の既成の概念を消去してみると、過去の歴史にみる対立感情や領土へのこだわりは消え始める。国という共同体の観念は、実は実態のない幻想を固定化することで、まるで実態だと勘違いしているにすぎないと気づく。この固定化した国家概念を取り払うと、人類全体が、さまざまな差異をもっているものの、ある共通の括り方で共有できることが見え始めるはずだ。 かつてマルクスはプロレタリアートという概念を見つけ出し、世界の人々が国境を越えて、共通基盤が持て、連帯できると考えた。この思想にたどり着くことができたのは、時代の状況が可能にしたともいえる。そうした考えにたどり着く知識の継承と、ある特定の個人の想像を絶する努力と創意で達成できた、人類の成果だ。しかし、彼のその成果は長くはもたなかった。というのも、歴史の進化を読み切れなかったこと、またさまざまな事態を想定しきれてはいなかったことが原因となった。もし、彼の生命が数世紀でももっていたら、おそらく自ら考え出した思想を修正し、さらに内容を進化させたに違いない。しかし、人間の生命はディプロイド細胞でできている。すなわち有限だ。限られた命を次世代に引き継ぎながら継承し、有限な生命の中で考えを作り出さねばならない。ある人間の獲得し生み出した成果の延長で、新たなものを生み出し続けていくしかない。
 では、国家という共同幻想の観念をもし解消したら、世界の人々とどのようにして共有し、連帯できる枠組みが生み出せるか。社会主義や共産主義の誤謬を学ぶことのできた私たちは、よりよい人類の未来を生み出す岐路に立っている。国家の違いや、宗教、人種、民族、階層を越えて連帯できる概念はあるだろうか。大衆、庶民、生活者という概念は、それを満たすに十分ではないか。それぞれの「大衆」、「庶民」、「生活者」の概念を規定しておく必要がある。その中から新たな用語の、あらたな概念が形成されうるのではないか。


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