創造的深化

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生命の起源 その1  ミトコンドリアの誕生

2015-08-17 16:50:03 | 生命と自然
生命の起源   その1  ミトコンドリアの誕生
生命の起源は、原始の地球という惑星に浮遊していた有機分子が合一し、有機体を形成することになる。まさに、この有機分子の科学的合一が生命の起源ともいえる。こうして核を持たない初源の生命体である原核細胞が、有害な放射線などが降り注ぐ地球上に、無酸素状態の中で誕生した。場所はマグマが発生している高温度の海中という説がある。
 この原核細胞は細胞壁で被われ、細胞内の成分DNA(デオキシリボ核酸)の内側にさらに細胞膜が形成されていた。酸素は存在していないので、嫌気性細胞ともいう。
 やがて、長い年月をかけて、これらの原核細胞の中から、太陽の光と二酸化炭素を利用して光合成を行う細胞が出現した。それらの新しい細胞は酸素を排出した。こうなると、今まで存在していなかった酸素を嫌う嫌気性細胞は、そのままでは死に絶えてしまう。酸素のない状態で生きていた原核細胞にとって、酸素が周囲に充満し、高濃度化し始めた酸素は細胞組織を損傷し、細胞自体の死を招きかねなくなた。
 そこで、原核細胞は高濃度の酸素に耐えるために巨大化し、細胞が躰を寄せ合うことで身を守ろうとし始めた。原核細胞内のタンパク質は酸素を受け止める役割を担い始めたのだ。やがて、この新しい環境にも原核細胞は適応し、酸素にも耐えて、逆に酸素を利用していく成長する好気性細胞が出現した。これがミトコンドリアである。

マルクスの誤算  その1

2015-08-17 13:54:17 | 思想
マルクスの誤算  その1
 マルクスファンなら 初期のマルクスの考えには夢と開放感を感じるに違いない。
この引用は中でも有名な「経済学哲学草稿」の一部の抜粋だ。
① 「人間の人間にたいする直接的かつ、自然的で必然的な関係は、男性の女性に対する関係である。この自然な人間関係で人間の全文化段階を判断することができる。男性の女性に対する関係は、人間の人間にたいする、もっとも自然的な関係である。だからこそ、どの程度まで、男性の女性に対する態度が人間的本質として、自然的本質となっているのか。どの程度まで、人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性に対する関係の中に示されている。どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも個の関係の中に示される。」(経哲草稿:城塚登、田中吉六訳)

② 「人間が自分と向き合う関係の秘密は、男性と女性との関係のうちに明瞭な形で示される。人間と人間との直接的で、自然的で、必然的な関係が、女性に対する男の関係だ。類のこの自然な関係においては、自然に対する人間の関係が、そのまま人間にたいする人間の関係となり、人間にたいする人間の関係ーー人間の自然なありかたーーとなっている。だから、この関係においては、人間の関係がどこまで自然に近づき、自然がどこまで人間の本質になっているかが、目に見える事実の形を取って感覚的にあらわれる。とすれば、この関係をもとに人間の文化段階の全体を判断することができる。この関係の性格をもとに、人間がどこまで類的存在としての人間となり、どこまで類的存在として自覚しているかを判定できる。
 女に対する男の関係は、人間と人間とのもっとも自然な関係なのだから。したがって、この関係のうちには、人間の自然なふるまいがじこまで人間的なものになり、人間の本質がどこまで自然の本質になり、人間の本性がどこまで自然に近づいているか。が示される。
 また、人間の欲求がどこまで人間的な欲求となり、他の人間がどこまで人間として欲求され、個人そのものとしてある人間が、同時に、共同の存在であるかが示される。」
 (光文社:長谷川宏訳)
①と②では、同じ原典を翻訳しているにもかかわらず、大分訳し方も異なり、意味も読者の理解の仕方も異なってしまうはずだ。無論、ほかにも翻訳本はあるが、②の訳を利用して、さらに意訳から独自の解釈を試みる。
 この経哲草稿は、共産主義と社会の内容の中にこのような文章が草稿として書き詰められている。②の分類タイトルでは「社会的存在としての人間」という項に収められ、①では「私有財産と共産主義」に収められている。 それは当然、訳者の意図が働いている。
 これが男女の性の在り方の本質を解き明かすことを可能にしている唯一の個所でもある。しかし、このまま転用はできない。
 個人が抱えている観念の世界は多様だし、人により、また状況や環境によりことなっている。個人の数だけ個別性の現象と観念が山積し、散乱している。あまりに抽象化することで実態から著しく乖離してしまう。どこまで普遍的に抽象化できるかを手探りで、いままでの人間が積み上げてきた思索を手立てに試みる。当然、類推と創造とが横糸と縦糸でクロスし得たときに、現実が新たに思想として普遍性を手にすることができるに違いない。 すでに現実の実態に対して意思も妄想も思考も観念の世界である。マルクスが描いた共産主義の二本の柱といえば、「人間主義」と「自然主義」という概念だ。この二つの概念に、かれは何を込めたのか。
 かれの「共産主義」は、自己疎外の根本原因である私有財産制を廃棄することにあった。それは資本主義の核心が私的所有にあると突き詰め、私的所有そのものを人間の意思と思念で人間のために根絶してね人間の本質を取り戻そうと結論付けていた。こうして人間性を回復する。これが社会的人間でもある個人の回復にもなると理想郷を描いた。むろん、この理想郷には、さらに現実の多くの壁が立ちはだかる結果となった。時代の限界に挑んだ思想家に対して評価は多様だ。しかし、大きな代償を人類は支払、その欠けている課題が発見できることにつながったと考えるべきであろう。
 この私的所有の原因に人間と自然との疎外を見つけ出し、自然の一部である人間が、自然を下降するしか生きていく手立てがない。その矛盾を「疎外」という概念でとらえ、生産の根源にある私的所有制度は、自然を加工していく人類史の過程の中で生み出された制度である。その私的所有の廃棄は、かれが考え出した「疎外」の廃棄につながる。自然と人間との抗争も、人間の人間との抗争も解決すると考えた。それが彼が考えた「自然主義」であり、また「人間主義」であった。
 すべての社会の問題の原因は、結局「私的所有制度」という一点に集約されてしまったともいえる。だからこそ、宗教、家族、国家といった疎外体から解放され、人間的な生活を取り戻せるんだと、解釈は無際限に拡大してしまった。