電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ライブドアが投げかけた波紋

2005-02-20 16:36:14 | 政治・経済・社会
 ライブドアがニッポン放送の株式を時間外取引を利用し、ほぼ全株式の37%取得したことを巡っていろいろな意見が出ている。それにしても、ライブドアの堀江さんはいろいろと新しい試みをしてくれる。堀江さんのやることは、ある意味で日本の中では異常に見えるので、「法律の抜け穴を利用した」「倫理的に好ましくない行動」と批判されることが多い。これに対して、判官贔屓のように、堀江さんに同情して、堀江さんを批判する人たちを古い体質の人と批判する人たちも多い。マスコミや、政治家はどちらかというと前者の立場が多いし、ブログなどでは後者の人たちが多そうだ。
 私は、心情的には後者だが、ライブドアの株価が下がるというのは、世情がライブドアを批判していると言うことかも知れない。国土計画がやった株式の売買と同じようなうさんくささをこの時間外取引に感じてしまうからかも知れない。しかし、株価の評価は、倫理的な評価ではない。ライブドアが倫理的に許されないようなことをやったから下がったわけではない。今度の取引と、一連のフジテレビとのやりとりを見て、株式市場は、ライブドアが苦境に落ちっていると判断したというべきだろう。

 ブログの世界では、どちらかというとライブドアよりと見られる批評が多いのに対して、村井裕一郎さんの「法律さえ守ればいい時代は終わった」という記事は、面白い。この面白いという意味は、賛成すると言うことではない。「法律と倫理」という問題に対して、ある一つの典型的な切り口のような気がするからだ。儒教道徳で言われる徳による政治ということかも知れない。しかし、「法律と倫理」を村井さんのように考えると法律に対する考え方が倫理の問題になってしまう。

 私は、「倫理」は個人的または共同体的な思想・信条の問題だと考えている。これに対して「法律」は、そうした「倫理」を越えて、みんなで守らなければならない共通のルールだと考えている。つまり「法律」は「倫理」に支えられているかも知れないが、「倫理」を保証しているわけではない。例えば、豚や牛を食べてもいいという人がいてもいいし、食べてはいけないという人がいてもいいが、食べたら罰するという法律はまだ無い。資本主義社会では常識になっている銀行が金を貸した人から利子を取るという行為は、イスラム社会では禁じられている。ここで、言いたいことは、「法律」と「倫理」は区別して考えた方がいいと言うことだ。

 「金さえ出せば何をやってもいい」という発想は、前提として「すべてが金で買えるのなら」という条件がなければ成立しない。そうでなければ、金で買えないものを金で買おうとすることがそもそも間違っているだけだ。この言葉の背後には、すべてが商品化されていくという資本主義社会に対する倫理的な非難があるわけだ。つまり、「すべてのものが金で買えるわけではない」ということを言いたいわけだ。その意味では、金に飽かせていろいろなものを買いあさっている人に対する倫理的な非難にはなる。しかし、それだけのことだ。金で買えないものを金で買えば、それなりの反動があると言うほか無い。もちろん、金で売ってはいけないものを売ってしまうということもあり得るが。

 他方で、「法律さえ守っていれば何をやってもいい」という言い方にいやらしさを感じるというのは、「法律的に正当だが、倫理的には間違っている」ということがよく起こると言いたいわけだ。そうなら、それは、法律を改正すればよいのではないのか。法律を改正するためには、国会で多数決を取ればいいことになる。もし、そうした法律ができないのなら、自分の倫理としてやらないことを人に強制する権利はないというしかない。

 法律的には正しくても倫理的に間違っている企業行動であれば、それは消費者からそっぽを向かれます。例えば、松下電器がジャストシステム相手に起こした特許訴訟では、法律的には松下電器の主張が正しいと認められましたが、その特許を囲い込む姿勢が倫理的に問題とされ消費者の批判と不買に繋がっています。

 私は、松下電器の行為が倫理的に間違っているとは思わない。訴訟の不当性こそが問題だと思う。特にインターフェースを巡る特許は、特許に相応しくないと思う。この点は、いつか特許のあり方を変えていかなければ行けない。それまでは、たとえ負けると分かっていても、味方を増やすために戦うことも一つの戦術だ。松下電器は、特許で認められているにもかかわらず、平気でそれを無視するジャストシステムに対して倫理的に許されないと言うことで訴訟をしているのだと思う。倫理の問題ではなく、特許の考え方であり、現行のルール(特許法)の問題だと思う。

 特に「法律」については、私は「倫理」より、「立場と利益」が問題だと思う。「立場」とは、「国民」であり「民主主義」と言うことであり、「利益」とは、多くの「国民」の共通の「利益」ということである。特に、資本主義社会の制度については、「倫理」を持ち出してもほとんど無意味に近いと思う。資本主義社会は、その近代化の過程で古い倫理をたくさん滅ぼしてきた。そして、フランス革命に見られるように、「自由・平等・博愛」という近代社会の「倫理」がつくられてきた。そして、近代国家はそれらを内面の自由や個人の自由として公共の利益に反しない限りにおいて保障している。

 さて、それでは、今度のライブドアの一連の行動のどこに倫理的な問題があるのだろうか。村井さんは次の二つをあげている。

 さて、今回のライブドアの件では何が法律的にはOKだけど倫理的にはまずいとされてるのでしょうか。それは大きく二点あります。

1つは、資本主義の論理である敵対的M&Aの是非、ひいてはその対象がメディア産業であるという点
2つは、MSCB+時間外取引という手法を使った点

 1については、「買収」という行為と「メディア産業」という特殊な産業だといことに「倫理」的な問題があるという。私は、どちらも少しも「倫理」的な問題など無いと思う。「買収」というのは、誰が主たる株主になるかという問題であり、持ち株が増えれば会社に対する支配権が増加するというのは当然であり、そうのための株式である。そもそも、最初に上場したときそれは、運命づけられているのだ。そのために、株式を公開したとき、創業者は莫大な利益を得た筈だ。いまさら、株式を買い占められてからといって、泣き言は言うべきではない。「メディア産業」ということについて言えば、それも資本主義経済の中の企業であり、その論理に支配されているだけだと言うべきだ。

 フジテレビは、特殊な文化産業だとでも言いたいのだろうか。NHK問題を見るまでもなく、マスコミの中立な立場などというものは、ある意味で幻想であると思う。もちろん、中立でないからこそ、ある時は政府寄りになったり、ある時はそれに対して批判的になったりしているわけであり、さらには売るために「国民の立場」に立ったりするのである。私たちは、そうした記事をしっかりと見極めながら接する必要があるわけだ。

 MSCBにしても時間外取引という手法にしても、それは一つの戦術だと思う。ライブドアが既存のマスメディアを利用しようと言う戦略の一貫としてニッポン放送とフジテレビに目をつけた結果として選んだ行動だと思う。この場合も問題は倫理ではない。堀江さんの取った戦略と戦術はライブドアの株主にとってよかったかどうかである。かつて、ソフトバンクの孫正義さんがやろうとしてできなかったことを、堀江さんはねらったのかも知れない。しかし、ニッポン放送は別として、フジテレビからはかなり反発されていてうまくいくかどうかは分からない。問題は、フジテレビの古い体質の経営陣だけの反発ならいいのだが、堀江さんのアイデアがフジテレビの人たちにどれだけ訴えることができるかだ。

 これまでの一連の過程を見ていて私が感じたことは、堀江さんがフジテレビ側の一連の行動を「織り込み済み」と言っているが、本当にそうなのだろうかと言うことだ。フジテレビが何らかの手を打つことは考えただろうが、ライブドアの株価が下がるということを考えていたとは思えないような気がする。この辺は、もう少し時間がたってからでないと分からないことだし、株の売買は微妙な問題であり情報公開も制限されることもあり、今のところどうなるか予断を許さない。たた、株式市場は、前回のプロ野球の球団設立の時とは異なって、ライブドアを今のところ評価していないことだけは確かだと思われる。
コメント (2)
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