碧田直の いいじゃないか。

演劇ユニット、ミルクディッパー主宰の碧田直が、日々を過ごして、あれこれ思ったことを、自由気ままに綴ります。

無題そのにじゅうはち

2016-05-16 15:31:55 | 日々
先日、ある番組で冷製パスタがざるそばをヒントに生まれた、という事実を知った。聞けばなるほどと思うが、知るまでざるそばと冷製パスタを結びつける発想はなかった。他にも同様の例としていちご大福があげられていたが、まったく関係のないものをつなぎあわせて、新たなスタンダードを創造できるのは天才の業である。

有史以来、この世には幾多の天才が出現したが、かの手塚治虫も、まったく関係ない二つを結びつけてオリジナルを生み出す人であった。『アドルフに告ぐ』の作劇のヒントを、『ヒトラーにユダヤの血が入っている可能性がある、という記事を読んだのがきっかけ。それと僕は昔からゾルゲが好きで、それと結びつけちゃった。落語の三題噺と同じ。僕の発想は、みんなそんなとこがある』と語っていた。ちなみにゾルゲとは、太平洋戦争中に日本で捕まったソビエトのスパイのことだが、作劇はもちろんのこと、ヒトラーとゾルゲを結びつけようという発想が素晴らしい。さらに手塚は『僕の発想は五分あれば出来る』などとも言っていた。天才の発言だ。

では自分はどうか。発想に五分以上かかることがよくあるから、手塚治虫レベルにないことは明らかだ。せめて、離れた二つのものを結びつける発想くらい持ちたいものだ。例えば、あぶらあげと火星を結びつけたらどうだろう。突如として、火星からあぶらあげ星人が地球を攻めてきて……。
ダメだ。一九三〇年代でもこんなのは通用しまい。では、これはどうだ。細菌学者があぶらあげを研究していたら、火星にしかない未知のウイルスを発見。やがて、そのウイルスは人間たちを冒して、そのうちの一部が悪魔に似た者たちを生み出してしまい、悪魔に似た者たちは自らをデーモン族と名乗って、やがて人間のままの不動明という少年と……。
やめよう。やたらスムーズに書けるので、鉱脈を見つけたかと思ったが、悪魔のフレーズあたりからおかしくなった。第一、なぜ細菌学者があぶらあげを研究しなければならないのだ。そもそも、なぜ火星とあぶらあげなのだ。自分が嫌になる。

かくも天才への道は険しく厳しい。しかし、めげることなく前進するとしよう。火星とあぶらあげだって、失敗だったわけじゃない。エジソンもこう言っている。『わたしは失敗したことがない。うまくいかない方法を見つけただけだ』。
さすがエジソン、良いこと言うぜ。冷製パスタへの距離は、案外短いんじゃないか。信じて進め。今度は、あぶらあげと木星で考えてみるとしよう。
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無題そのにじゅうなな

2016-05-15 19:16:53 | 日々
糖尿病検査から一夜明けた。昨日の朝は恨めしかった青空が、今日は爽やかな空気も手伝って、実に爽快な気分だ。

以前、自分は散歩好きだが、妻はそうでもないと書いた。これまで一緒に生活してきた経験から、確信を持ってそう書いたのだが、これを読んだ妻から抗議がきた。『わたしは昔から散歩好きだった』のだそうだ。彼女が言うには、俺の散歩がそもそも散歩のレベルを大きく逸脱しているという。

一言で言って、心外である。俺の散歩が散歩でないというなら、いったい何だというのか。富士の裾野を歩いているわけでもなければ、八十八ヶ所お遍路してるわけでもない。歩道をてくてく歩いているだけだ。古来からそれを散歩というはずだろう。変な言いがかりはやめてもらいたい。

……確かに俺は散歩のとき、普段はあまり履かないスニーカーを履き、気合いを入れて歩く。目的地は決めてあるが、面白そうな脇道があったら迷わず逸れるため、結局、予定していた道のりの倍も歩くこともなくはない。一時間歩く予定が、三~四時間になることもざらである。給水は自販機で済ませ、一息つくこともしないで、ひたすら歩き続ける。確かに疲れるし、いい運動を通り越して、苦行に近いことも度々ある。
が、これが散歩でないなら何というのか。散歩に決まっている。百歩譲ってウォーキングがせいぜいだ。何だその目は。そんな目で俺を見るな。これが俺のスタイルだ、絶対に曲げないぞ。曲げてたまるか。そんなに言うならついてこなければいいだろう!


……今日は妻と調布へ散歩に行った。ウインドーショッピングも兼ねていたので、駅前のパルコでしばらく過ごした。途中お茶もして、買い物もしてのんびり帰った。
これは決して屈したわけではない。妥協でもない。ちょっと譲ってやっただけだ。俺と妻の関係は常に対等である。当たり前だ。夫婦に上も下もあるものか。ただ、ほんの少しだけ妻の言うことに従ったら楽しかっただけなのである。
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無題そのにじゅうろく

2016-05-14 13:27:21 | 日々
今日は決戦当日だ。
一週間前に俺の意志を尋ねることなく決められた、糖尿病検査の日である。
決戦は前日から始まっていた。夜九時までに食事を終え、あとは水分だけを補給しながら、ひたすら明日に備えるのだ。まるでタイトルマッチに挑むボクサーのように神経を研ぎ澄ませ、夜が更けるのをじっと待つ。敵は手強い。が、怯んではならない。

夜が明けた。睡眠は充分だ。前回はここでしくじっていた。多少睡眠不足だったのだ。しかし、前回はまさかの不意討ちだった。診察だけと思い込んでいたところが不覚を招いた。今回は完璧だ。来るなら来い、俺はここにいるぞ!!

……ま、実際に行くのは俺なのだが。
病院に着くや、採尿と採血。左肘が痛む。実は家を出てすぐに、二つ隣の空き部屋の窓の柵に肘をぶつけてしまい、青くなってしまったのだ。出かける直前に見た星占いは十一位だった。早くも試練か。
採血はベッドに寝かされる。前回車椅子のお世話になったことが病院中の話題になったのか、有無を言わさず案内された。
しかし、どの看護師さんたちも口許がにやけている。俺を侮っているのか。こんな採血、どうということなどない。ナメてもらっては困る。椅子に座ってやってやってもいいんだぜ!!

……まあ、用意してくれたのだからと、仕方なくベッドに横たわり、一度目の採血。『ちょっとチクッとしますよー』と言うや、グサッと突き刺さる針。負けてなるかと腕に力を込める。血が吸われる。歯を食い縛る。後頭部が重くなりかけた頃、一度目の採血が終わった。

糖尿病検査は、ここからが本番だ。サイダーのような味の炭酸水を飲み、三十分ごとに二度目、三度目の採血をする。そのたびごとに『チクッとする』と言われるのだが、回を重ねるごとに言い方がぞんざいになっていく気がするのは思い過ごしか。二度目はともかく、三度目は『チクッ』しか言ってなかったようだが、まさか策略か。それを合図に気合いを入れているのがバレたのか。そんなわけはない。よーし、三度目の採血も終わった。あとラスト一回だ。

一時間が経過し、最後の採血の時間となる。まず採尿をし、それから採血だ。
『採血あたしやります』
と、それまで採血をしていた方から、別の方に交代する。彼女から見れば一度目の採血にあたるから、きっと丁寧に『チクッとしますよー』と言ってくれるはずだ。戦いは俺の勝利に終わった。やった、俺は勝ったんだ。あははははは!!!

……見立ては甘かった。彼女は何も言わずに、ブスリと針を突き刺した。気合いが一瞬遅れた。鋭い痛みが腕を貫く。うーっ、油断するんじゃなかった。涙が滲みそうになるのを必死でこらえる。
『細い針だから、血を取るのに時間かかりますよー』
ここにきて、初めて言う言葉がこれか。何だこの攻撃は。伸ばした脚に余計な力がこもる。早く終わって、早く……も、もう……ギ、ギブア……。

『はい、終わりでーす』
悪魔から天使へ。針が抜かれ、すべてが終わった。ホッとした顔を見られたのか、明らかな含み笑いに見送られながら病院を出る。強い日差しと、涼やかな風が心地よさを誘う。

俺は勝ったのか。ギブアップしかけたが、しかし断じてギブアップはしていない。しかけただけだ。ギブア…まで思ったではないか、と言われるかもしれないが、ギブアップとギブアの間には相当の距離がある。ギブアンドテイクかもしれないではないか。しかし心身ともに疲労した。家へ帰ろう。今日は痛み分けといったところか。仕方ない、これくらいにしておいてやろう。決戦での勝利は次回にとっておいてやる。とっておいてやるが、次回がしばらく来ないことを神に祈っておこう。アーメン。
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無題そのにじゅうご

2016-05-13 07:10:31 | 日々
蜷川幸雄さんが亡くなった。
一面識もなく、名前を挙げることさえも不遜で、はばかられる方とは承知しているが、演劇の末端にいる者として、やはり今日はこの方の訃報に際して、思うところを書かねば。

演劇に関わり出したのが二十代後半で、初めて舞台演出をしたのが三十代に入ってからだった俺にとって、蜷川幸雄という人は、最初から仰ぎ見るような巨星であり、手を届かせようとか、横に並ぼうとか発想することすらしない、そんな存在だった。加えて、やたら怒鳴りまくるだの、灰皿を投げつけるだのといったエピソードを見聞きするにつけ、演出家とはまず厳しさありきなのか、と思い、真似はしないまでも、多少役者さんたちにキツくあたった時期もあった。今にして思えば、蜷川さんの表面ばかりをなぞっていたなと猛省するほかない。

このたびの訃報に際して、数多くのコメントが寄せられている。それらを読むと、蜷川さんがいかに役者たちに愛されていたかが伝わってくる。それはすなわち、蜷川さんが役者を愛していたことの証左であるだろう。

ビートルズの『THE END』という曲に、こんな一節がある。

結局
きみが受けとる愛は
きみが差し出した愛に
等しいのさ

この歌詞の通りに考えれば、蜷川幸雄さんは愛情を持って役者に接し、舞台に取り組み、演出家として生きてきたのだと思う。
センスも、経験も、蜷川さんにはるか及ばない自分ではあるが、愛情と情熱は負けずに持っていたい。せめて後につき従っていく気持ちくらいは、忘れずに生きていこう。

ご冥福をお祈りします。
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無題そのにじゅうよん

2016-05-12 17:09:00 | 日々
暑い一日である。
朝はむしろ寒いくらいだったが、日差しがどんどん照りつけて、まるで夏のような暑さになった。程度によるが、暑いのは嫌いじゃないので、このくらいならどんとこいだ。

しかし、妻はというと、暑いのが殊更苦手らしい。暑いと何もする気が起きない様子で、いつも『夏いらない』と言っている。俺は寒いのが苦手なので、『冬いらない』と思うことはあるのだが、妻は『寒いのは重ね着すれば大丈夫』という。
妻とは、他にも合わないことがある。例えば、妻はスポーツ全般に興味がないし、貝類やうなぎなども苦手だ。俺は散歩好きだが、妻はどちらかといえば嫌いで、俺の飲めないコーヒーを愛飲している。
といって、妻と気が合わないわけではなく、むしろ、生活のテンポはかなり一致しているし、喧嘩もまずしない。会話はよくするし、最近は『私のあしながおじさん』を仲良く鑑賞する。

つまり何が言いたいかというと、仲の良い夫婦であっても、合わないことのいくつかはあって当たり前だということだ。多少譲り合いの気持ちは必要かもしれないが、自分の世界にこだわりすぎては、他人の入れる余地がない。

この間、独身の二十代~三十代男性に、理想の結婚相手の条件を尋ねたアンケート結果を見たが、一位は『価値観が同じ』ということだった。
まあ確かに、食べ物や音楽の好みが正反対とか、生活習慣が昼型と夜型のように重なる時間がないとなると大変なので、ある程度の共通点は必要だと思うが、そう躍起になって、価値観の同じ女性を探し回ることはないのではないか。というか、探し回るだけ無駄な気がする。

ほんのささいなタイミングが合うだけで、うまくやっていける夫婦もあるし、箸の上げ下げが気に入らないというだけで別れる夫婦もいる。『価値観』などという、わかったようなわからないようなものに縛られずに、何となく気が合ったら、それでいいものかもしれない。まずは行動あるのみだ。

……と、こんなようなことを考えながら、バイト先の最寄り駅地下通路を歩いていた。この駅は日本有数の人の多さを誇るので、いろんな方向に歩く人でごった返す。少しの時間を待って、やりすごしてから歩行を再開することも一度や二度ではない。
今日も、そうしてやりすごしてからにしようか、などと思っていた俺の横を、一人の長身女性が、かなりの速度で、スタスタと抜き去っていった。何となく彼女の少し後ろを歩く格好になり、ふと見ると、彼女は歩く速度をまるで緩めることなく、壁に張られている嵐の巨大ポスターを、さっと取り出したスマホで写真におさめ(別ポーズ含めて二枚)、地下鉄の改札口を抜けていった。
きっと彼女は、ああやって全速力の早足で、人生を駆け抜けているに違いない。颯爽とした後ろ姿だった。そして、こうも思った。こういう女性とは、絶対に仲良くできないと。
人の相性なんて、そんな程度のもので決まるものだと思うのである。
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