屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

一已兵村の紹介

2011-07-04 13:51:28 | 一已屯田兵村

< 工 事 中 >

「一已兵村」
入植年・月・日:明治28年29年
入植地:深川市一已町
Photo
「一已兵村入植配置図」「ittyan01.pdf」をダウンロード   

出身地:北陸から九州までの24道府県
入植戸数:400戸
「南一已兵村入植者名簿」ittyan02.pdf」をダウンロード

「北一已兵村入植者名簿」「ittyan03.pdf」をダウンロード

   
第1大隊
大隊長
  初代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
  2代:渡辺水哉少佐(明治29年1月~明治30年9月)
(後の第3大隊長、歩兵25聯隊長、日露戦争で旅順攻撃における白襷隊の副隊長、その後旭川27旅団長)
 3代:菊池節蔵少佐(明治30年9月~明治32年10月)
 4代:安西 恕少佐(明治32年10月~明治33年1月)
 5代:鈴田宣貞少佐(明治33年1月~明治35年3月)

明治28年の入植
  便 船: 日本郵船の土佐丸(5,402トン)
  航 路: 四日市~瀬戸内(神戸、多度津、今治)~博多~境~敦賀~伏木~小樽
  小樽港到着:5月7日
  入植日:5月15日(遅れた理由は、石狩川が増水し小樽で1週間足止め)

明治29年の入植
「第1便」
  便 船:日の出丸(日本郵船)
  航 路:博多~多度津~神戸に寄航し太平洋回りで小樽へ
  入植日:4月17日

「第2便」
 便 船:金沢丸(日本郵船)
 航 路:宇品~今治~四日市~太平洋周りで小樽港へ
 入植日:4月23日
 
「第3便」
 便 船:日の出丸(日本郵船)
 航 路:敦賀~伏木に寄航し小樽へ
 入植日:4月25日

 小樽で一泊し鉄道で空知太へ、滝川で一泊し一已へ。
秩父別、納内の入植者は深川でさらに一泊(宿泊場所澄心寺、第3、第4小学校等)

明治29年の入隊式:5月1日

給与地:30間×150間(4,500坪)
追求地:70間×150間(10,500坪)

北一已兵村
部隊名:第1大隊第3中隊
 第3中隊長
  初代:平賀正三郎(後の第3大隊長で永山~剣淵で勤務、旅順で戦死)
  2代:鷹森赳夫(初代の東秩父別中隊長、稲作を奨励、境川導水の許可)
  3代:森山頼三郎

出身県別入植者数
富山県  20
北海道   1
石川県  10
福井県   7
三重県   4
愛知県   8
奈良県   5
和歌山県 21
兵庫県   3
岐阜県   6
岡山県   5
島根県   5
大分県   1
大阪府   2
広島県   9
山口県   9
徳島県   8
香川県  39
高知県   1
佐賀県  16
愛媛県  19
福岡県   1
計22府県 200名

南一已兵村
部隊名:第1大隊第4中隊
第4中隊長
  初代:北村 格 
  2代:林 昌介(輪西の初代中隊長、稲作を奨励し20日間の謹慎処分を受ける)
  3代:喜多鑑次
  4代:小幡 彬
  5代:鈴木元五郎

出身県別入植者数
富山県  23
石川県   9
福井県   8
三重県   5
愛知県   6
奈良県   3
和歌山県 18
兵庫県   4
岐阜県  10
岡山県   1
静岡県   2
島根県   3
鳥取県   1
広島県  11
山口県   6
徳島県   9
香川県  37
愛媛県  26
佐賀県  13
北海道   5
 計  20県 200名 
 
Ⅰ 一已兵村の特色
  「イチャン」とはアイヌ語で「鮭の産卵する場所」、また、「鮭や鱒が産卵のために川底に掘る穴のこと」という説もある。
1 一已の地理的特質
(1)滝川の北方約20kmに位置し、石狩平野の最北である北空知の平野で、北は上川盆地、西は留萌、増毛へ連なる要地。
(2)石狩川と雨龍川に挟まれた肥沃な土地。場所によっては泥炭地あり。
(3)石狩川の右岸に位置し、上川道路と連接する場合は石狩川を渡河する必要があり。
   (石狩川をはさんで対岸の音江法華は物流の拠点として栄え、一時期北空知随一の賑わいを見せた)
(4)三条実美以下が経営しようとした華族農場の跡地。

2 時期的特色
(1)雨龍屯田(一已、納内、秩父別)設置までの経緯
    ア 明治19年の北海道土地払下規則の公布、岩村道俊の上川離宮構想に応じ、明治22年三条実美、蜂須賀茂韻、菊亭脩季、戸田康泰等で華族農業組合を設立し、雨竜原野に5万ヘクタールの土地借受。しかし、三条実美の死去により明治26年組合は解散し、出資者はそれぞれが農場を経営。
    イ 明治25年、一已、多度志、納内にまたがる蜂須賀農場の一部、1万ヘクタールを返還させ陸軍省に移管。(屯田兵はその場所に入植)
    ウ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正があり、屯田兵の資格を一般平民に拡大。
    エ 平民屯田兵となった明治24年以降、上川に6個中隊、江部乙に2個中隊、美唄に3個中隊が入地を完了。内陸部(剣淵・士別を除く)最後の屯田兵である。
(2)入植した明治28年は、日清戦争最中であり大隊・中隊の幹部は出征していた。
    (幹部が戻って来たのは7月に入ってからで、軍事訓練が開始されたのは8月以降)
(3)道路は、明治22年には札幌から旭川まで(上川道路)、明治24年には旭川から網走まで(中央道路)が、また、同明治24年に月形から増毛まで及び増毛から神居古潭まで(増毛道路)が開削されていた。
(4)鉄道は、明治31年に小樽から旭川まで、明治43年には深川から留萠まで延伸された。
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)明治28年までに、上川の各兵村では稲作の試作に成功しており、旭川兵村では灌漑溝の掘削も着手。
(7)明治33年~35年にかけて第七師団が旭川近文台へ移駐。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、一已屯田兵にあっては6年間の任期となり、明治35年に満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)明治28年、29年の2ヵ年にわたって入植。出身県は北陸、近畿、中国、四国地方を中心に24道府県。入植者の多い県は香川県(76戸)、次いで愛媛県(45戸)、富山県43戸、和歌山県39戸となっている。
(2)同一県の同一地域からの入植者多数。兄弟で入植したもの2組、親戚同士で入植したもの10数組あり、秩父別、納内を含めるとさらに多い。
(3)近隣の開拓農場に入植した者と同一地方のもの多数。

4 任務上の特色
(1)北空知平野の開拓による殖産。あわせて警備
(2)日露戦争に出征
       戦死者:一已屯田兵12名(一已村21名)

5 発展過程上の特色
(1)内陸部最後の屯田兵として納内、秩父別の屯田兵とともに入植。この時期までに、空知(滝川、美唄)、上川盆地の開拓が着手されており、交通網も整備されつつあった。
(2)入植した場所は、明治22年に開拓を開始した蜂須賀農場の跡地であり、また、雨竜、北竜、深川、妹背牛、沼田、多度志等の周辺地域は各種の団体が入植しており、前人未踏の地に入植した他の兵村と比較し有利な条件であった。
(3)道央と上川を結ぶ上川道路(現国道12号線)は石狩川の左岸を走っており、一巳から上川道路へ出るには石狩川を渡河する必要があり流通という面で不利であった。
(4)農作物の栽培
  ア 入植当初は、自給自足用の作物としてアワ、イナキビ、蕎麦、馬鈴薯、大根などの野菜を、2年目から麦、豆、トウモロコシを栽培。
  ウ 数年後から換金作物として、小豆、ナタネなどを栽培。
  エ 明治30年頃から養蚕が盛んとなり、35年には空知養蚕検査所深川出張所が開設、38年には空知郡農会の深川養蚕伝習所ができ養蚕が奨励された。
  オ 大正初期頃までりんごの栽培が盛ん。
(5)稲作の栽培
    ア 当初禁止していた稲作が、明治29年に成功し、以降、稲作を奨励。
     伊藤兼太郎は稲作の成功により宮内庁から銀杯を受領。
    イ 31年頃から稲作への機運が高まり用水の確保、造田工事が行われるようになった。
    ウ 深川土功組合を設立し、大正5年に「大正用水」が完成。600haの造田。また、納内地区と共同で神竜土功組合を設立し、昭和3年には地域内の水田面積が2,019haとなる。
    エ 水害・冷害、虫害の多発
          水害:31年、34年、37年の水害は極めて大きな被害をもたらした。
          冷害:35年
          虫害:41年、42年の夜盗虫、38年のコガネ虫の被害
(6)明治43年の留萌線開通により、北空知地方の中心となり深川駅周辺の市街地、商業施設化が始まる。
(8)明治34年深川村から分村、明治39年2級村制施行し一已村となる。大正9年納内村を分村。大正10年1級村に昇格。昭和38年近隣の4町村(深川、一已、納内、音江)が合併し深川市となる。

  ★一已には番外地(市街地)はなかった。
    理由は、華族農場で入った菊亭脩季が深川に市街地計画を立てていたためで、兵村に特定の番外地を設定する必要がなかった。

  ★付籍
    屯田兵に随伴する家族のうち扶助対象になる者の数は1戸あたり5名となっていたが、それより超えて随伴する者を付籍と言い扶助の対象とならなかった。
    しかし、その後の経過で、成功する率は付籍を同伴した屯田兵及び家族に多かった。理由は、多くの労働力が得れたことと、付籍は家族教令に縛られることなく、活動の自由が認められ色々な経済活動を行えたこと等がある。

  ★屯田兵に応募した動機
    入植時期、入植者の出身地、入植地等一概に言えないが、以下が挙げられる。
  ①開拓期間中、扶助が受けられて5町歩の土地がもらえる。
  ②内地では土地が狭くて生活ができない。
  ③広い北海道で一旗挙げよう。
  ④親の勧めにより応募した。(一已では未成年の屯田兵47%)
   
  ★土地売買の禁止が解かれた時点(明治39年2月の帝国議会において「屯田兵土地給与規則」4条(土地の譲渡・質入れ、書き入れ30年間禁止)が廃止となる)で、追給地や離農者の跡地に分家して移り住むもの多数。戸主が追給地に移り、兄弟に宅地を譲る者もあり。
  ★追給地が耕作不適地の場合、未墾のまま残されるところが多かった。
  ★農耕馬がかなりの数で飼育されていた。第3中隊第1組の明治33年の記録によると8戸/18戸中が馬を飼育していたと記述。

6 一已兵村関係の著名人
  

Ⅱ 一已兵村の伝統を伝える 
○資料館等
「深川市生きがい文化センター内郷土資料館」

「一已屯田資料館」

Photo_2

 屯田兵子孫が寄付してもの。

○屯田兵関係の催し
  雨竜屯田会(一已、納内、秩父別合同の会)による「拓魂祭」(7月10日)
  開拓記念式:大国神社開拓記念碑前(5月15日)
  
○ゆかりの神社
「大国神社」

Photo_3

○屯田兵ゆかりの小学校
 「一已小学校」

Imgp9030

○今に残る屯田兵の踏み跡
「拓魂碑」

Photo_4

「監的壕」

Photo_5

「屯田兵屋(有形文化財)」

Photo_6

「深川市生きがい文化センター内郷土資料館」敷地内にある。

「屯田歩兵第1大隊本部」

Photo_7

「水田発祥の碑」

Photo_8

「屯田の鐘」

Photo_9

「国見峠 展望の碑」

「音江法華駅逓跡」

「猩々獅子五段くずし」

(一已 香川県讃岐地方の郷土芸能の伝承で五段は幼・少・青・壮・老の獅子の生涯を舞う)

○屯田兵子孫の会の紹介
 「一已屯田会」
  設立:昭和37年8月6日一已屯田2世会として発足。昭和46年2月11日一已屯田会と改称 
  目的:会員相互の親睦と一已町の開拓について語り伝える。
  会員数:128名(平成21年)
 
 「雨竜屯田連絡協議会」
  一已、納内、秩父別兵村合同の会
  設立:昭和43年2月29日
  主要事業:毎年7月10日(基準)、拓魂祭を行っている。


ルポ 相内兵村の今(平成23年)

2011-07-02 08:50:51 | 相内屯田兵村

<ルポ 相内兵村の現在(平成23年6月)> 

  野付牛(現在の北見)から国道39号を相内~留辺蘂に向け車を走らせた。北見の市街地の西はずれに位置する三輪地区(野付牛屯田兵村4区)を過ぎ、東相内に差し掛かった辺りから急に大型店舗の看板がなくなり、そして、石北本線の線路を超えた途端に田園風景が目に入るようになった。
  東相内が相内兵村1区のあった場所で、鉄道線路を超えたところが2区の美園地区である。美園地区の西はずれには相内神社があり、この付近に、第3中隊本部、練兵場等相内兵村の中心となる施設があった。さら西に進むと相内小学校が、そして、新しい相内支所の建物がある。ここが、現在の相内の中心であるのだが、周りには商業施設等はほとんどなく、開いている店も僅かである。3区の豊田地区はさらに西奥にある。相内は1、2、3区とも当時の区割りが明瞭に残り、農業を営む家も多く入植時の面影を色濃く残す。

「1区東相内地区」
 Photo_7

 Photo_8

「2区美園地区」
 Photo_9  

 Photo_10

「3区豊田地区」

 Photo_21 

 Photo_22

 Photo_13

 相内支所の近くに一軒の和菓子屋さんがあったので、ちょっと話を聞いて見ようと暖簾をくぐった。創業は80余年前というものの、店で応対に出られた方は年配の方ではなく、昔のことを聞き出すことはできなかった。
 80余年前というと昭和のはじめで、相内が薄荷景気に沸いていた頃。さらには、この地域で稲作栽培が本格的に始まった時期と重なる。相内が一番活気に満ち溢れていた頃ではなかったろうか。この店にも多くのお客さんが足を運び、界隈は人の往来も多く、華やいだ雰囲気がただよっていたのだろうと当時の賑わいを想像した。
 明治30年、31年、1中隊の端野、2中隊の野付牛とともに入植し、開拓の鍬を下ろした相内であるが、野付牛は地域の中核都市北見市として発展したのを尻目に、相内は、端野とともに現在に至るまで農業中心に町・村を維持してきた。
 昭和30年、国の施策により北見市と合併し半世紀の歳月が流れたが、当時の賑わいを失わせてしまい。相内の伝統を伝えて行くことも困難な状況に追い込まれているのではと感じた。

「相内支所」

 Photo_14

「相内支所付近の景観」

 Photo_15

「訪ねた和菓子屋さん」

 Photo_16

 和菓子屋さんで応対してくれた女性に話を聞いたところ、「北見の市街地が近くにあるため、皆さん買い物は市街地周辺でします。学校を卒業した若い人達の中で農家の跡を継ぐ人は殆どいません。この付近の住人は年配の人ばかりになってしまいました」。と話してくれた。
 端野町は北見市と平成18年に合併して5年が経過し、伝統継承をしっかり行わなければと警鐘を鳴らしているが、合併後半世紀を経過した相内は、もう取り戻すことができないほどに影響を受けてしまった気がする。端野は、元端野町時代に郷土資料館、図書館等の文化施設を開館し、郷土史資料の編纂に意を注いだが、合併から世代交代が2度行われた現在の相内にあって、どのような形で、屯田兵の歴史を含め郷土の歴史を伝えて行くことができるのか心配である。
 ちょっと暗い話しをしてしまい、相内に住む人には申し訳ないと思うが、相内支所付近の景観を観て町村合併が地域に及ぼす影響というものをひしひしと感じた次第である。

 相内は南北の丘陵がせり出し、耕地の幅は狭く、屯田兵に与えられた給与地、追給地も無加川沿いに留辺蘂付近一帯まで広がる。その距離東西約20km。給与地規則の定めのない時期に入植した琴似(明治8年)、山鼻(明治9年)を除き特異な例である。
 そんな、給与地・追給地は今どうなっているのだろか。また、三輪大隊長の発意で掘削した灌漑溝はどうなっているのだろうか。そんなことを確かめたいために、3区の豊田から西相内~泉地区~留辺蕊へと向った。
 豊田川と北側の山裾を流れる用水路に囲まれた農地が延々と続く、留辺蘂の手前である泉地区に入ったあたりから、北側の丘陵がせり出し農地の幅が狭くなった。そして、さらに進むと灌漑溝の取水口に到着した。

 その取水口は、留辺蘂の市街地の北東側にある紅葉山の山裾にあった。そこには石碑が建ち「灌漑溝竣功記念碑」と記されていた。碑の横を用水が流れ、すぐ奥には水門があった。
 竣功は昭和43年と記されていたが、三輪大隊長の時代に端野、野付牛、相内、600名の屯田兵により始められた灌漑溝の掘削。その後、大正後期から昭和の時代に至るまで1世紀に及ぶ年月をかげ延々と整備してきた灌漑溝である。相内屯田兵の人達の思いがこの一条の流れの中に込められている。碑文を読みながら相内屯田兵、その子孫の方達の農地開発かける思いを噛み締めた。

「灌漑溝竣功記念碑」

 Photo_17

「取水口」

 Photo_18

「灌漑溝」

 Photo_19

「西相内の玉ねぎ畑」

 Photo_20

 比較的定着率の高い相内兵村といっても、そこには、土地の良し悪しがあり、どうしても苦労をして開墾した土地を手放さなければならない者が出た。さらには、分家として周辺地域に再入植をした者も多く出た。過去の資料の中に留辺蘂に転出した屯田兵が14戸あったと記してあったが、その家族、関係者を含めるとかなりの人数が留辺蘂地区の開拓にあたったと思われる。
 相内だけではなく、留辺蘂地区を含めこの地域一帯の開拓に尽くしたのが相内屯田兵と家族の人達であり、その功績は大きい。


相内兵村の紹介

2011-07-02 07:02:19 | 相内屯田兵村

< 工 事 中 >

「相ノ内兵村」
入植年:明治30、31年
入植地:東相ノ内(1区)、美園(2区)、豊田(3区)
Photo
 
「相ノ内兵村入植配置図」「ainonai1.pdf」をダウンロード

出身地:28県
入植戸数:199戸

「相ノ内兵村入植者名簿」「ainonai2.pdf」をダウンロード
 
屯田歩兵第4大隊
屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
  大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
     第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
     第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(6月7日)
 第1便 
     便船:武陽丸(6月2日網走港着)
     航路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    網走港からの移動:網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
 第2便    
      便船:武州丸(6月6日網走港)
    航路:七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
 第1便 
    便船:東都丸
   航路:門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
 第2便
  便船:東都丸(9月)
  航路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
    第1次給与地: 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
        追給地: 約13,000坪

第4大隊3中隊
 中隊長:初 代:平井正道大尉
      第2代:川上親與大尉
      
相内兵村出身県別入植者数
 山形県  35
 富山県  17
 岐阜県  17
 石川県  33
 愛知県   8
 福井県  12
 福島県   5
 高知県   4
 山口県   1
 埼玉県   1
 佐賀県   8
 鳥取県   5
 新潟県   6
 和歌山県  8
 三重県   4
 岡山県   1
 兵庫県   6
 熊本県   3
 宮城県   4
 愛媛県   1
 福岡県   7
 栃木県   1
 広島県   3
 徳島県   1
 佐賀県   1
 岩手県   2
 香川県   3
 島根県   2
 計 28県 199名

Ⅰ 相内兵村の特色
1 地理的特質
(1)北見盆地の西方に位置し、北は仁頃山、南は訓子府に連なる丘陵に挟まれた低地を常呂川の支流無加川が流れ、その流れの源は、さらに西に進んだ留辺蕊~温根湯~石北峠・三国峠にある。
(2)無加川の恵みを受けた肥沃な地が東西に広がる。
(3)北見盆地の気候は寒暖の差が激しく夏は温暖(平成10年8月6日37.1度を記録)、冬の寒さは厳しい。また、年間の日照時間が長いく、冬の降雪量も含め年間の降水量は少ない。
(4)オホーツク正面防衛の要点で、端野、湧別を前衛、野付牛を主戦とするならば後衛に位置する。

2 時期的特色
(1)北見、湧別地区屯田兵設置までの経緯
  ア 明治21年、米、露、清国の視察より帰国した永山武四郎は、ロシアの大規模なシベリア・樺太開発計画、沿海州の兵備強化、とりわけシベリア鉄道施設計画に脅威を感じ、オホーツク正面の兵備の配置が急務であると認識。
  イ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正、屯田兵の増強計画を策定。
  エ 囚人労働により、明治22年の上川道路(現国道12号線)に引き続き、明治24年中央道路(現国道39号線)の開削。
  オ 明治25年上常呂原野、湧別原野の測量、区画の実施し屯田兵設置予定地として決定。
(2)明治24年~明治29年にかけて、上川、空知地区に歩兵12個、特科3個中隊の屯田兵配置。
(3)明治28年、その勝利により日清戦争終戦終結。
(4)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(5)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。屯田兵の入植後多数の団体が入植した。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて第7師団が旭川に移駐。第4大隊は北海道防衛における前方配置部隊としての位置づけ。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止、1年後の明治38年、日露戦争に出征。

3 入植者の特色
(1)全国の28県からの入植で、同時期に入植した野付牛、端野兵村と同一地域。山形県が35戸と一番多く、次いで石川県が33戸、岐阜県17戸、富山県17戸、福井県が12戸と北陸・東北からの入植者が多い他は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達はそれまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
   一部を除き全員出征、戦死9名(内1名は傷病死)

5 発展過程上の特色
(1)明治24年の永山屯田兵の入植から6年、内陸部の開拓も軌道に乗り出した時期で、上常呂原野(北見盆地周辺)、湧別の開発は、時の北海道開発における最重要正面と認識されており、多くの人・物・金が当該正面に投入された。
(2)和田・太田の第4大隊長を経験した小泉少佐(初代)、上川の当麻で中隊長を経験した三輪少佐(第2代)が大隊長として勤務し、的確な営農指導の元に北見の風土にあう適作農業を推し進め、北見農業発展につながる礎を築いた。
(3)第2陣入植直後に遭遇した明治31年の大水害は甚大な被害をもたらし、無加川沿いの相内兵村にあっても大きな被害を受けた。
(4)適作作物の生産
  ア 入植当初は自活用の芋、豆類を栽培
  イ 気候風土に適した換金作物として薄荷の栽培
    野付牛(北見)で最初に薄荷の栽培を始めたのは明治34年で、端野兵村1区寒河江直助、野付牛兵村2区前田徳五郎、相内兵村3区家族伊藤長次郎である。気候・風土が栽培に適し、保管、輸送も容易なことから、一気に作付けが拡大し、大正時代にはその名を世界にとどろかせた。
  ウ 比較的安定した換金作物として豆類の栽培
    元々自活用に栽培していた豆類であったが、野付牛の市街地化による人口の流入、鉄道の開通(明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走)により、道内各地、全国への輸送が可能となり、換金作物として定着。第一次世界大戦により、海外での需要が大きく高低した時期があったが、比較的安定した需要があり、地域の発展に大きく寄与した。
  エ 念願の稲作への転換
    稲作への転換が行われたのは大正末期からで、本格的栽培が行われ出したのは昭和に入ってからである。明治31年北光社の前田駒次が道庁の委嘱を受けて試作開始。全村で試作が行われ出したのは大正6~7年頃。本格的に栽培が行われるようになったのは昭和に入ってからである。そのきっかけとなったのは、この地の天候・気象に適用する新品種(北見赤毛、坊主6号、走坊主等)の出現である。
昭和10年には2,300町歩の作付けをした。ピークは昭和46年で2,892町歩である。
(5)灌漑溝の掘削
   明治34年~35年、第2代大隊長の三輪少佐により行われた灌漑溝の開削であったが、薄荷、豆類等換金作物の成功で、その後稲作に着手することはなかった。本格的な灌漑溝の掘削が行われたのは、稲作が有望であると認識されるようになった大正の終わり頃からで、相内では大正15年相内土功組合が認可され昭和2年に完工、約900町歩の水田が造成された。昭和36年~43年に再工事を行い現在に至っている。
(6)地域の発展へ
   明治36年の現役解除、明治38年日露戦争終結後、第2の新天地を求めて転出する者が多数に上った。さらに、その後の発展過程で、投機的要素の強い薄荷、豆類の栽培で財を得た者と、無くした者の差が生じ、5町歩の給与地を手放し小作人にならざる得ないものも発生した。
   相内に残った人、北見の市街地に流れた人、留辺蕊、網走、訓子府、仁頃等周辺地区に再入植した屯田兵及び家族の人達によって地域一帯が開発されて行った。これらは、北見に入植した3個兵村共通の歴史でもある。
(7)大正10年、野付牛村から独立し2級町村制施行。その後、昭和2年1級町村制を施行。(この年の戸数731戸、人口4、488人)
(8)昭和31年9月30月北見市に吸収合併。
      
   ★日露戦争で戦死した屯田兵7名の妻のうち6名が再婚した。
    それほどに、結婚適齢期の女性が少なかったといえる。
    この状況は他の兵村でも、あるいは一般入植団体でも同じと思われる。

6 相内屯田兵関係の著名人

Ⅱ 相内屯田兵の伝統を伝える。
○資料館等
  なし
○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
 「相内神社」
 Photo_2  

 
○屯田兵が開いた学校
 「相内小学校」

 Photo_3

○今に残る屯田兵の踏み跡
 「開村の碑」(相内神社内)
 Photo_4

 「中央道路開削犠牲者慰霊碑」
 Photo_5  

 「練兵場跡」
 Photo_6  

○屯田兵子孫の会の紹介
 「相内屯田会」
  目 的:屯田兵の開拓の偉業に感謝し、地域の発展に協力するとともに会員相互の親睦を図る。

  発足の経緯:

  行っている活動:毎年10月最終日曜日に開拓記念碑際を行っている。
  
  会 員:平成10年現在相内で農業を行って者の数、屯田戸主直系子孫30人、分家子孫8人、戸主の兄弟子孫26人