< 工 事 中 >
秩父別兵村
入植年:明治28、29年
入植地:秩父別町
「秩父別兵村入植配置図」「chipubetsu1.pdf」をダウンロード
出身地:24府県
入植戸数:400戸
「東秩父別兵村入植者名簿」「higasichipubetu2.pdf」をダウンロード
「西秩父別兵村入植者名簿」「nisichipubetu3.pdf」をダウンロード
大隊長
初 代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
第2代:渡辺水哉少佐(明治29年1月~明治30年9月)
(後の第3大隊長、歩兵25聯隊長、日露戦争で旅順攻撃における白襷隊の副長)
第3代:菊池節蔵少佐(明治30年9月~明治32年10月)
第4代:安西 恕少佐(明治32年10月~明治33年1月)
第5代:鈴田宣貞少佐(明治33年1月~明治35年3月)
明治28年の入植
便船:日本郵船の土佐丸(当時最大の汽船で5,402トン)
経路:四日市~瀬戸内(神戸、多度津、今治)博多、境、敦賀、伏木
小樽港到着:5月7日
入植日:5月15日
明治29年の入植
「第1便」
便船:日の出丸(日本郵船)
経路:博多、多度津、神戸に寄航し太平洋回りで小樽へ
入植日:4月17日
「第2便」
便船:金沢丸(日本郵船)
経路:宇品~今治、四日市、太平洋周りで小樽港へ
入植日:4月23日
「第3便」
便船:日の出丸(日本郵船)
経路:敦賀~伏木に寄航し小樽へ
入植日:4月27日
小樽で一泊し鉄道で空知太へ。滝川で一泊し一已へ。翌日秩父別へ。
入隊式:5月1日
給与地
第1次給与地:30間×150間(4,500坪)
追求地:70間×150間(10,500坪)
西秩父別兵村
部隊名:第1大隊第1中隊
中隊長
初 代:林 昌介(輪西兵村の初代中隊長、後の2代南一已兵村の中隊長)
第2代:北村 格(初代南一已兵村の中隊長)
第3代:菊池盡三
出身県別入植者数
富山県 22
石川県 8
福井県 10
岐阜県 9
愛知県 6
和歌山県 18
奈良県 7
三重県 9
兵庫県 4
岡山県 3
鳥取県 3
島根県 2
広島県 8
山口県 10
高知県 2
徳島県 8
香川県 45
愛媛県 15
佐賀県 11-
計19府県 200名
東秩父別兵村
部隊名:第1大隊第2中隊
第2中隊長
初 代:鷹森赳夫(後の2代北一已の中隊長)
第2代:中村 驍
第3代:毛利季次
出身県別入植者数
富山県 29
山形県 2
新潟県 1
石川県 9
福井県 10
福島県 2
秋田県 1
岐阜県 9
京都府 1
愛知県 5
和歌山県 22
奈良県 6
三重県 4
兵庫県 6
島根県 3
広島県 10
山口県 9
高知県 1
徳島県 8
香川県 38
愛媛県 11
佐賀県 13
計22府県 200名
Ⅰ 秩父別兵村の特色
秩父別とは、アイヌ語の「チクシベツ」(通路のある川)から転訛したもの。
1 地理的特質
(1)滝川の中心から北方約20km、深川市の中心から北西方向約10km、石狩平野の最北である北空知平野の北端に位置し、北は幌加内、西は留萌・増毛へ連なる要地。
(2)雨龍川流域の肥沃な土地。場所によっては泥炭地あり。
(3)増毛から神居潭へ通ずるルート上に位置する。
(4)三条実美以下が経営しようとした華族農場の跡地。
(5)天候はやや内陸性の特徴を有するが、寒暖差はそれ程大ではない。
2 時期的特色
(1)雨龍屯田(一已、納内、秩父別)設置までの経緯
ア 明治19年の北海道土地払下規則の公布、岩村道俊の上川離宮構想に応じ、明治22年三条実美、蜂須賀茂韻、菊亭脩季、戸田康泰等で華族農業組合を設立し、雨竜原野に5万ヘクタールの土地借受。しかし、三条実美の死去により明治26年組合は解散し、出資者はそれぞれが農場を経営。
イ 明治25年、一已、多度志、納内にまたがる蜂須賀農場の一部1万ヘクタールを返還させ陸軍省に移管。(屯田兵はその場所に入植)
ウ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正があり、屯田兵の資格を一般平民に拡大。
エ 平民屯田兵となった明治24年以降、上川に6個中隊、江部乙に2個中隊、美唄に3個中隊が入植を完了。内陸部(剣淵・士別を除く)最後の屯田兵である。
(2)入植した明治28年は、日清戦争最中であり大隊・中隊の幹部は出征していた。
(幹部が戻って来たのは7月に入ってからで、軍事訓練が開始されたのは8月以降)
(3)道路は、明治22年に札幌から旭川まで(上川道路)、明治24年には旭川から網走まで(中央道路)が、また、同明治24年までに月形から増毛、増毛から神居古潭まで伸びる(増毛道路)が開削されていた。
(4)鉄道は、明治31年に小樽から旭川まで、明治43年には深川から留萠まで延伸された。なお、幌加内を経由して道北の名寄を結ぶ深名線が開通したのは昭和16年。(平成7年に廃線)
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)明治28年までに、上川の各兵村では稲作の試作に成功しており、旭川兵村では灌漑溝の掘削も着手。
(7)明治33年~35年にかけて第7師団が旭川の近文台へ移駐。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、一已屯田兵にあっては6年間の任期となり、明治35年に満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。
3 入植者の特色
(1)明治28年、29年の2ヵ年にわたって入植。出身県は北陸、近畿、中国、四国地方を中心に24府県。入植者の多い県は香川県(83戸)、次いで富山県(51戸)、和歌山県(40戸)となっている。
(2)同一県の同一地域からの入植者多数。一已、納内を含めるとさらに多い。
(3)近隣の開拓農場に入植した者と同一地方のもの多数。
4 任務上の特色
(1)北空知平野の開拓による殖産。あわせて警備
(2)日露戦争に出征
大部分の屯田兵が出征、戦死者22名?
5 発展過程上の特色
(1)内陸部最後の屯田兵として一已、納内の屯田兵とともに入植。この時期までに、空知(滝川、美唄)、上川盆地の開拓が着手されており、交通網も整備されつつあった。
(2)入植した場所は、明治22年に開拓を開始した蜂須賀農場の跡地であり、また、雨竜、北竜、深川、妹背牛、沼田、多度志等の周辺地域は各種の団体が入植しており、前人未踏の地に入植した他の兵村と比較し有利な条件であった。
(3)農作物の栽培等
ア 入植当初は、自給自足用の作物として粟、イナキビ、蕎麦、馬鈴薯、玉蜀黍、蔬菜などの野菜を、2年目から麦、豆、トウモロコシを栽培。
イ 数年後から換金作物として、小豆、ナタネなどを栽培。
ウ 明治30年頃から養蚕が盛んとなり、明治40年のピーク時には200~250石の繭を生産した。しかし、明治42年以降は一気に衰退した。
エ その他、牛、馬、羊の飼育、りんごの栽培等、色々な作物の栽培、家畜の飼育が行われたが、稲産の発展により拡大を見る事はなかった。
(4)稲作の栽培
ア 明治29年、和歌山県出身東秩父別兵村の植田栄太郎、吉田民吾によって稲の試作。
イ 明治31年、時の2中隊長鷹森赳夫は「稲作立村」を決断し、演習名目で導水工事を行う。
(2中隊長が決断した理由は、東兵村は西兵村より地味が劣り湿地帯も多く畑作に向かなかったため。)
ウ 当初東兵村で行われた稲作の試験的栽培は、次第に広まり、1中隊の西兵村でも稲作が行われるようになった。
エ 明治34年1、2中隊合同で灌漑工の工事に着手するも難工事で中止。
オ 明治37年に水源を滝の上にもとめ600町歩の灌漑に成功。日露戦争が勃発し殆どの戸主は出征することとなったが、その後、39年に兵村の公有財産と立木を処分した資金をもって灌漑工事行い明治44年に完成。800町歩の増田に成功した。
カ その後、秩父別土功組合の設立。大正4年には2,900町歩の灌漑用水路の拡張、改修を行い現在に至っている。
(5)明治34年深川村から分村、明治39年2級村制施行し秩父別村となる。昭和34年町制を施行し秩父別町り現在に至っている。
6 一已兵村関係の著名人
土井淳平:和歌山県出身の屯田兵で、現役終了後医学を志し上京、遊学中明治37年徴兵され出兵、明治38年12月16日戦傷死。乃木将軍から感状を受ける。
Ⅱ 秩父別兵村の伝統を伝える
○資料館等
「秩父別郷土館」
「風雪に碑」
「屯田の鐘」
○屯田兵関係の催し
雨竜屯田会(一已、納内、秩父別合同の会)による「拓魂祭」(7月10日)
とんでん祭り
○ゆかりの神社
「秩父別神社」
「開村の碑」
○屯田兵ゆかりの学校
「秩父別小学校」
○今に残る屯田兵の踏み跡
(各施設跡地に記念碑が建っている)
「中隊本部跡」
「練兵場跡」
「稲作発祥の地」
○屯田兵子孫の会の紹介
「秩父別拓屯田会」
昭和40年に設立された「屯田二世会」が、その発端
活動の概要: 「屯田二世会」は、郷土館の建設、郷土資料館の蒐集製作、屯田兵入植に関する遺跡表示柱の設置、回想録の発刊、屯田会発足20周年誌発刊、「風雪の碑」の建立
会員: