屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:納内兵村の今(平成23年)

2011-07-15 08:29:17 | 納内屯田兵村

<ルポ:現在の納内兵村(平成23年7月)>
 納内という地名、地元北海道の人にあっても馴染みの薄い地名である。国道12号線を旭川から石狩川沿いに南下し、神居古潭の峡谷を出たばかりのところにある三叉路を右折し、アーチ式の神納橋を渡ってすぐのところにある町が納内で、JRの函館本線に乗れば神居トンネルを出て最初の駅が納内である。
 納内を北空知の中心である深川市から見れば西のはずれであるが、上川の中心旭川から見れば北空知への玄関口にあたる。
 納内兵村は、そんな位置的な特色以外に、他にない大きな特色を有している。それは、納内屯田兵に配当された第1次給与地の広さである。屯田兵制度がほぼ確立した明治18年以降、屯田兵に配当された第1給与地の面積は4,500坪~5,000坪であったが、ここ、納内兵村においては10,000坪の給与地が配当された。これと同じであるのは、特科隊と言われた美唄市にある茶志内の工兵隊、高志内の砲兵隊のみである。
 当初、納内に騎兵隊を配置する計画であった。と言うのが理由のようだが、この配備位置と、10,000坪の給与地が、後の発展に少なからず影響を与えたものと考えられる。

 納内は、北海道の優良米「ななつぼし」「きらら397」「ふっくりんこ」等のブランド米の産地である。昭和40年代には北海道の米づくりビックスリーと呼ばれ、蘭越、厚真を含めた「北海道米づくりの御三家」であったと納内兵村史に記されていた。
 納内を知る上で、米のこと、それと、当時としては巨額の190万円もの資金を投入し完工した、神竜潅漑溝のことを確認しなければとの認識をもってこの地に乗り込んだ。
 まず足を運んだのは、納内屯田会会長をされているM氏のお宅である。事務局長のM氏も同席され、お二方からお話しをうかがった。
 納内においても他の兵村と同様、入植直後から手探りでの米作が始まった。それは、北山から流れる幌内川、吉野川等、付近を流れる小さな河川を利用して行われた。
 「昭和40年代に優良米の産地として名を知らしめるまでになった理由は何処にあるのですか」。と質問したところ、昭和30年代から行われた構造改善事業、農業組合法人化などの先見的な取り組み。それと、農家の米に対するこだわり。より良い米を作ろうという競争意識にあるのではないかと話された。また、これからの農業は規模拡大が宿命で、1戸当たりの作付け面積が20町歩は当たり前。近い将来は30町歩、50町歩へと拡大するのは必趨である。その為には、新しい経営形態へと変化させて行かねばならないと話された。ここにも、屯田兵の新たな道を切り開いていくというチャレンジ精神が見え隠れする。
 面談の最後に、給与地10,000坪は納内屯田兵にとってどうでしたかと尋ねたところ、当然と言わんばかりに「有利であった」。と答えられた。それと併せて、鉄道の施設計画が入植時には出来上がっており、給与地は鉄道線路を外して10,000坪もらえる様になっていたが、給与地まで行くのに鉄道を横断しなければならず苦労したと話された。

「納内屯田会会長、事務局長」

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 その後、納内の農業の発展には切り離すことのできない神竜潅漑溝の歴史を調べるために神竜土地改良区を訪ねた。そこで、昭和2年に完工した当時の写真と、潅漑溝の経路図のコピーを頂いた。
 図面を見て驚愕をした。こんな大規模、複雑な土木工事を納内屯田兵が入植した10数年後に設計。屯田兵が中心となって神竜土工組合を設立し、大正~昭和の始めにかけて工事を行った。その頃の土木技術もさることながら、明治も30年代に入った頃の屯田兵の人達は、ただ闇雲に田畑を耕し作物を育てていたわけではなく、より戦略的な農業経営を行っていたのだと言うことが分かった。
 当初、近くの小川から水を引き始まった水稲の試作が兵村全体に拡大し、潅漑溝の構築、造田、土地改良、構造改善へと進み、1世紀を経た現在は、日本の米処新潟を凌ぐくらいにまで発展した。この発展は、時には裏方として、時には表舞台の主役として事業に携わった屯田兵のチャレンジ精神に他ならない。
 土地改良区を後にし、いただいた地図を見ながら神居古潭にある現在の頭首工へ足を運んだ。

「神竜頭首工」

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「神竜頭首工碑」

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「当時の工事風景」

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 納内の中心とも言うべきJR納内駅を出て、正面の道路を南に進み、道道57号線(別名旭川深川線)へ出たところに開拓記念公園がある。そこは中隊本部のあった場所で、「第5中隊本部跡の碑」にはじまり、「100年記念碑」、「屯田の鐘」、「屯田の泉」、「りんご之碑」などが建立されている。丁度対角線上にある納内神社には「開村の碑」ある。
 過去本通りと呼ばれていた道道沿いは当時の面影を留めないが、JR函館本線の北側を東西に走る北一条通り沿いは、紛れもなくここに屯田兵屋が並んでいたと思われる雰囲気が残る。ここから北側の田園は整然と区画され、一枚5反から1町におよぶ水田が広がっている。この美しい田園風景は先人達の稲作にかけた情熱とその思いを引き継いだ今生きる人たちによって守もられている。

「開拓記念公園」

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「納内駅前通り」

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「兵村の風景」

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 国見峠から見下ろす納内の田園風景もそうであるが、納内駅の北側にある、納内墓地後方の高台から眺める景色はさらに絶景である。
 この景色を目に焼き付け、納内を離れた。

「美しい納内の田園風景」

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ルポ:現在の一已兵村(平成23年)

2011-07-15 06:55:16 | 一已屯田兵村

<ルポ:現在の一已兵村(平成23年7月)>
 一已兵村を訪問するに際して、雨龍屯田兵(一已、納内、秩父別屯田兵)が分け入った経路でもある上川道路(現国道12号線)から、滝川、音江に抜け、石狩川を渡り深川に入る経路を選んだ。
 この経路は、雨龍の屯田兵だけではなく、上川の屯田兵(永山、旭川、当麻屯田兵)も音江から神居古潭の峡谷を通り、忠別太(現在の旭川の中心地)を経由し夫々の兵村に入植している。
 音江法華の駅逓があったという音江とはどんなところだったのだろうか。また、当時屯田本部長であった永山武四郎が雨竜原野を眺望し、屯田兵の設置を考えたという国見峠から、一已、納内、秩父別兵村の姿を自分の目で確かめてみたいという願望もあった。
 国見峠からの眺めのすばらしさは、当時上川街道随一といわれただけのことはある。眼前には石狩川が蛇行しながらゆったりと流れ、その川岸から右手納内方向には整然と区画されたみどり豊かな田園風景が、前方の山(コップ山)の山裾まで続く。目を転じて一已方向は田んぼと住宅が混在し、されにその奥には秩父別がかすんで見える。
 まさに絶景である。

「音江法華駅逓」

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「国見峠からの眺め(納内方向)」

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「国見峠からの眺め(一已~秩父別方向)」

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 一已に到着して最初に訪ねたのは『拓魂碑』である。
 V字型の巨大なモニュメントが天空を仰ぎ、鍬を斜に担ぎ、今まさに振り下ろさんばかりに構えた逞しい屯田兵の像。台座には入植、日露戦争への出征の情景を刻んだ彫像がある。
 今までに道内37個兵村、全ての屯田兵村を訪ね歩いているが、この様に壮大な造形物はここにおいて他にない。ただ大きいと言うだけではなく、屯田兵による開拓物語綴る碑でもある。
 拓魂碑は昭和44年5月11日、北海道開道100年を記念し、屯田兵とその家族の偉業をたたえるために建立されたものである。
 この碑の前で行う『拓魂祭』は、今年(平成23年)で42回目を迎えるが、深川市長、秩父別町長をはじめ、町の主だった方が出席する盛大な記念祭であり、雨竜屯田兵子孫の団結力の強さを感じる。

「拓魂碑」

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「屯田兵の像」

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 この『拓魂碑』がある場所の南側に大隊本部、3、4中隊本部等主だった施設が配置されていた。通常であれば、この付近に番外地と呼ばれる商業施設が立ち並んだはずであるが、一巳の場合は、屯田兵村のはずれというべき場所(現在のJR深川駅付近)にそれらは配置されていた。ここに、一巳兵村の特色がある。
 一巳屯田兵の入植した明治28年には、もう既に、深川村が開村しており、解散した華族農場の後を継いで多くの開拓団体、開拓民が入植し、物流の中心として深川村が存在していた。現在の深川市は昭和38年に行われた深川、一已、納内、音江との合併により出来上がったが、稲作を産業の中心とした4町村の集合体である。

 今回、この地を訪ねた時、会長のH氏、前会長のK氏、以下7人の一已屯田会の皆様からお話しを聞く機会を得た。北空知は上川と並び称される米どころであり、一巳地区には北空知農協の主要な施設が設置され、米を中心とする域内の農作物が集荷、保管、出荷する管理機能を担っている。過去から現在に至るまでその役割を担う多くの人材が一巳から排出のも事実であり、一巳は北空知の農業における盟主的な存在であると聞いた。
 一巳屯田兵子孫のうち、現在も農業を経営している戸数は24あるという。この数は、一部市街地化した一已にあって、多・少の判断はできないが、未開の地を切り開き、鬼とまで例えられる位い稲作に情熱を傾けた先人の孫、曾孫の皆さんである。彼ら24人の人達が一已屯田兵の伝統を受け継ぎ、全国にその名を誇る北空知米を守り続けている。
 昨今の情勢をみると米農家は大変な様であるが、屯田兵魂とでも言うべきチャレンジ精神でこの難関を乗り越えてくれることを期待したい。

「一已屯田会の人達」

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 面談の後、案内されて深川マイナリー、ライスターミナルなどがあるJAきたそらちで米についての話しを聞き、その後、石狩川頭首工を見学した。
 農業に無知な私であるが、少しだけ米づくりのこと、北海道における米の生産の現状が分かった。そして、現場の稲作農家にとって一番大切なものは田であり、その田に必要なものは水である。管理された水がなければ稲は育たない。ここ一已においても、稲作で自立できるまで要した数十年の歳月は、水との戦いであったという史実の裏付けを現地で確認出来た。

「JAきたそらち」

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「深川マイナリー」

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「ライスターミナル」

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「深川のお米」

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「北空知頭首工」

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「石狩川付近の田園風景」

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 一已の人達は屯田兵の伝統とともに、屯田兵の入植とともにもたらされた郷土の芸能をしっかりと保存している。その一つにあるのが、深川市の重要無形文化財第一号に指定された「猩々獅子五段くずし」という獅子舞の保存である。
 この獅子舞は香川県出身の屯田兵である八代十吉、松本弥吉、正田筆吉らが、屯田兵の兵役を終え故郷に錦を飾った折に、郷里の讃岐地方に古くから伝わる獅子舞を一已へ持ち帰り、大国神社の例大祭で披露したのが始まりである。現在は地域の人達に愛される伝統芸能として発展・受け継がれている。

「猩々獅子五段くずし」

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 今回集まってお話しを聞かせて呉れた一已屯田会の人たちに「雨竜(一已、納内、秩父別)屯田兵にあって一已はその兄貴分的な存在に感じる」。と話した時、「そんな事はない無い」。と答えられたが、やはり、その様な気がしてならない。

「丸山から眺める一已の田園」

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「一已兵村の景観」

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「道の駅深川ライスランド」

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ルポ 秩父別兵村の今(平成23年)

2011-07-15 05:41:59 | 秩父別屯田兵村

<ルポ:現在の秩父別兵村(平成23年7月)>

 2011年7月12日夕刻9時、「ガゥン、ガゥン・・・」と、鐘の音が秩父別の町に鳴渡った。この音色は、秩父別町の社交場ともいうべき、ふれあい広場内『百年記念塔』に設置してある『とんでんの鐘』のものである。屯田兵の入植当時と同じように、毎日朝6時、昼12時、夕方18時、夕刻21時に鐘の音で時を伝えているという。

「百年記念塔と屯田の鐘」

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 秩父別は人口2,752人(平成23年の統計資料)で屯田兵入植の市・町にあって一番人口の少ない兵村である。
 秩父別には過去3回訪問しており常連の域に近くなったが、ここに来て一番感じるのは『小粒ながらちょっぴりスパイスの利いた町』である。
 町の玄関とも言うべき、ふれあい広場の入口には、『鐘のなるまち』の大アーチがあり、冒頭、鐘の音で紹介した百年記記念塔があり、郷土資料館、各種のスポーツ・レクレーション施設、温泉など色々な設備が整っている。また、近傍の丘には「ローズガーデンちっぷべつ」「めぇいめぇいランド」を開園し、人に優しく、来訪者を歓迎する取り組みを鋭意行っている。
 同じ時期、同じ北空知地域に入植した一已屯田、納内屯田とは違った何かがある。それは、何なのかを確認するために4回目の訪問をした。
 元々、秩父別は明治28年の入植時には深川村の一部であったが、明治34年に分村。平成15年に深川市との合併の構想があったが、結果的には合併まで至たらず独立独歩の道を歩でいる。
 秩父別町は、屯田兵によって開拓された町であることを誇りとし、他に無いもの、新しいものへの挑戦、それは開拓者精神そのものであるが、それらを実践行っている兵村であるように感ずる。

「鐘のなるまち」

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「屯田兵の像」

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 毎日定刻に『とんでんの鐘』を打ち鳴らす行為そのものが屯田兵の伝統であり、先人達の挑戦により産出した高品質の米をさらに良質なものへ進化させようと追い求めて行う飽くなき取り組み。これも屯田兵とその後に入植した人々の伝統である。また、秩父別屯田兵として香川県の綾川から入植した者の中に、四国で偉人と言われていた人の子孫が含まれていたことから、綾川町と姉妹都市提携を結び交流を図る。そんな、人とのふれあいを大切にする。それも、屯田兵の伝統の実践に他ならないと感じた。

 全耕地の9割が水田という道内屈指の米産地である秩父別は、町の中心を一歩離れると、そこには整然と区画された美田が広がる。
「秩父別の田園風景」

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「百年記念塔からの眺め」

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 しかし、この美しい田園地帯となるまでには血の滲むような苦難の歴史があったはずであり、そんな歴史をもう少し詳しく知りたいとの思いから、元秩父別土地改良区の理事長をされていたというK氏からお話しをうかがった。
 秩父別屯田兵は東兵村と西兵村に別れて1中隊、2中隊を編成した。西側に入植した1中隊の給与地は畑作が可能な肥沃な地であったが、東側に入植した2中隊の給与地は農耕に適さない火山灰の堆積した酸性土であり、泥炭地であった。
 必然の成り行きと言ってしまえば、それでお仕舞いあるが、稲作への飽くなき挑戦は農耕に適さない土地を与えられた2中隊側から始まった。当初は一部の屯田兵の人達によって近くの川から水を引き、隠れるようにして行った稲作の試作であるが、翌年には果実を結び本格的な稲作への夢が膨らんだ。そして、入植2・3年後の明治31年、当時の2中隊長であった鷹森赳夫大尉は上層部の反対を押し切り「稲作立村」を決断、中隊を上げて稲作へ挑戦をしていく訳である。

「雨竜川にある滝の上頭首工」

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 1世紀の歳月を経た現在、全国に優良米の産地として秩父別の名を知らしめるまでになったが、そこに至るまでには、幾多に渡る困難を克服した苦難の歴史がった。
 そんな話しを聞いた後、町の北東側の丘陵にある「ローズガーデン」に立ち寄った。赤、黄、白、ピンクのバラが庭園一杯に咲き乱れ、ここから眺める秩父別の田園風景は美しく、雄大で、遠くは雨竜の山並みも望めた。

「ローズガーデン」

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「ローズガーデンからの秩父別の田園風景」

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 この日の行動も終え、秩父別温泉「ゆう&ゆ」に浸かった。入浴を終え売店の商品棚を物色していたら屯田兵をモチーフしたレッテルが貼られているお酒が置いてあり、早速賞味をさせてもらった。冷えたお酒は今日の疲れを癒してくれた。

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 その後に聞いた鐘の音色が、冒頭で紹介した「ガゥン、ガゥン・・・」と、秩父別町内に鳴渡った『とんでんの鐘』である。