屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:茶志内兵村の今(平成23年)

2011-09-02 19:25:20 | 美唄、茶志内、高志内屯田兵村

<ルポ:現在の茶志内兵村(平成23年8月)>

茶志内に足を踏み入れ、最初に向かったのは日東簡易郵便局である。

取材でどうしても必要なのは、お話しを伺える人が存在することで、事前にその地のことを語ってくれる方にアポ取ってから自宅を出るのだが、茶志内でお話しを聞かせて頂ける方を見つけることができなかった。

そこで、その土地の情報に詳しい地方の郵便局に行けば何とかなるのではと考えた。この郵便局には昨年も立ち寄って世間話をさせてもらっていた。

「日東簡易郵便局」

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局で勤務されている女性の方に、茶志内のことに詳しい人いないですかと尋ねたら、色々と手を尽くし、最後には郵便局長に電話をして呉れた。

そして、郵便局長を通じて紹介して頂いた人が、茶志内小学校の裏手で農業を営むT氏だった。取りあえずご自宅に伺い、自己紹介と訪問の目的、後日お話しを聞かせてほしいと面談の依頼を行った。

そして、茶志内から石狩川にかけての農村地帯を走り回った。

「JR茶志内駅」

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「茶志内の街並み」

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「旧茶志内小学校」

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「潅漑溝」

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「農村風景」

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茶志内兵村の配置図を見ると、北側の1/3が奈井江町に組み込まれてしまっている。当時、茶志内兵村の中心であったはずの工兵隊本部、練兵場、そして、茶志内神社のある場所は、茶志内の北の外れになっている。その西側にはゴルフ場があり、農場着陸場があり、その北側は中空知中核工業団地の敷地となっている。そして、その先は石彼川左岸まで続く広大な農地である。今まで、上川、士別・剣淵、北空知、北見、湧別の田畑を見てきたが、美唄の平野に広がる農地は一寸趣が違った。農家の集落が国道沿い、石狩川河畔部に集まっていることもあるのか、より広大に感ずる。

そんな中、超大型の耕耘機の近くに青年がいたので声をかけた。この地域の農家は平均20町歩の土地を管理し、30町歩~50町歩の土地を持つ者もざらにいると言っていた。青年は24歳で、農家の担い手である。なにか頼もしく感じ激励をして別れた。

さらに進むと中村町という所に出る。この中村と言う町名は、先日、美唄の郷土史研究家から聞いていた。明治27年、伊勢からの120戸、約600人の入植者を引き連れてここに農場を建設した人がこの町の開祖「中村豊次郎」で、中村農場は成功例の一つとして数えられている。美田の広がる地域の一角に手入れされた庭木を植える農家も多く、その成功のあとが伺える。さらに、山形農場、富樫農場等のあった場所を確認した。

「中村豊次郎公の碑」

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「石狩川付近の農村風景」

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1日おいた翌々日T氏と面談をした。屯田兵子孫ではないが町内で伝統を継承するための活動を積極的に行われている方で、取材と言うよりも、氏の思いを楽しく聞かせて頂いた。

そんな、面談の中、昨日農地を走った時に感じたことを述べた。その一つは茶志内兵村の1/3が奈井江町に組み入れられてしまい、茶志内の中心が、より南側に移ってしまったことであるが。屯田兵による開拓の後に行われた、炭鉱の開発にあるようで、人の集まる場所に商業施設ができ、駅ができ、学校ができ、新しく神社ができ中心が移ってしまった様である。市町村合併で、一個兵村全てが他の市・町に組み込まれた例はあるが、茶志内の様に、兵村の1/3が削り取られるように他の町に組み入れられた例は37個兵村の何処にもない。

次に話題となったのは、茶志内屯田兵が開墾した地が、ゴルフ場、着陸場、手付かずの工業団地の用地となってしまったことについてである。屯田兵とその家族の人達が汗と涙で開墾した農地である。本当にそれで良かったのだろうか?村の1/3が奈井江町に組み込まれたことと言い、この農地転用の例と言い、素直に「ハイそうですか」とはうなずけない。

茶志内屯田兵の入植地の土地はやはり悪かったようである。入植配置図を見ると、歯抜け状態の所が多い。その割合は美唄3個兵村の中で際だっている。配置図の空き地として標示されている場所は、氏が幼かった戦後にあっても手付かずの状態であったという。現在でも所々に農地になってない場所がある。

このことは、屯田兵の開拓がいかに苦労に満ちたものであるかを物語っている。国道12号線、更には函館本線の西側に広がる美しい農地は、彼ら屯田兵達の涙と汗の中から創り出された産物である。

屯田兵ゆかりの小学校、茶志内小学校は何度か移転を繰り返し、平成20年現在の地に移った。全校生徒30名、茶志内地区だけではなく中村地区からの子供達も通う。消滅してしまった光珠内中央小学校よりはましではあるが、人口の減少とともに小学校が消えていくのは寂しい。

そんな茶志内にあって、神社の祭りを縮小しても良いのではと言う声が上がっていると言う。当然T氏は反対で、まったく持って同感である。まことに勝手な意見かも知れないが、そこに子供達が居る限り伝統行事は行うべきであると思う。子供達に郷土の伝統と文化を伝えるのは大人達の責任で、受け継いだ子供達はその又子供達へ伝えていくことにより、その土地の伝統を継承することができ町に活力が生まれてくると思う。この地を切り開いた屯田兵と開拓者達の歴史をしっかりと伝えてほしい。

昔、陸と孤島とまで言われた中村地区の人達の絆は強いと言われた。

不便が故に助け合いの精神が生まれ、同郷意識が生まれてくるのだろう。

美唄の特産品には、焼き鶏と鶏飯、ハスカップ、それと、アスパラガスがある。その中の「焼き鶏と鶏飯」発祥の地が中村農場であると聞いた。中村農場の祖、中村豊次郎は、中村地区に移り住んだ人達に鶏2羽を与えたことから、焼き鶏と鶏飯が生まれたという。

最後の日の昼食は、空知神社近くにある創業43年という焼き鳥レストランで、名産の「焼き鳥と焼き飯定食」を注文し賞味した。カラッとした塩味の焼き鶏は美味だった。

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ルポ:美唄兵村の今(平成23年)

2011-09-02 18:26:32 | 美唄、茶志内、高志内屯田兵村

<ルポ:現在の美唄兵村(平成23年8月)>

屯田兵が先駆者であるものの、美唄の町を築いたのは屯田兵だけではないと美唄の人から聞いた。

 何故なのか?そんな思いをもって美唄を訪問した。

「美唄の街並み」

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「JR美唄駅」

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「美唄市役所」

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美唄を大きく分けると、その特徴から東西3つ地区に区分をされる。東は元三菱、三井の炭鉱があった山の手地区。中央は美唄市の行政、商業、住宅、教育の中心地区。鉄道から西側、石狩川まで続く広大な農村地区である。

美唄屯田兵が入植した場所は、現在の国道12号線を挟む東西の地で、美唄の市街地へと変貌した。給与地はその外側で、現在でも一部で農地が残る。

 最初に開拓の鍬を入れたのは屯田兵であるが、それに呼応するかのように開拓民が石狩川左岸に大挙して入植した。それらは現在も地名として残っている中村、山形、富樫、高島等の農場である。

 炭鉱開発は、明治のはじめお雇い外国人の地質学者ライマンによって石炭が発見され、明治13年幌内炭鉱において採掘を行ったのが始まりであるが、美唄炭鉱の開発は意外と遅く本格的な採炭が行われだしたのは大正も終わりの頃である。日露戦争の後に石炭需要が増大し、それまで、九州で採掘を行っていた大資本である三井、三菱が美唄の採炭に乗り出てからである。

その後、夕張、空知の炭鉱とともに美唄は炭鉱の町として大きく発展していった。ピーク時の人口は92,150人(昭和29年)。平成23年現在の人口は25,901人で3~4倍の人口である。

そんな、美唄の土地柄、まずは鉱跡が今どうなっているのかを確かめなければと美唄川の上流にあった三菱炭鉱跡、南美唄の三井炭鉱跡訪ねた。

国道12号線から道道135号線を東明、我路、東東明へと上って行くと真赤な鉄塔が2本見えてきた。周りは美唄川沿いに原始の姿をとどめる樹林の中に。(実はこの樹木は原生林ではなく、50年前の閉山時に植林したものであると聞いたが)

今は「炭鉱メモリアル森林公園」となっているが、この場所が炭鉱のあった場所である。

説明板に掲示してある当時の写真を見てド肝を抜かれた。今は自然の姿に戻っており当時の賑わいを感じさせるものは何も無いが、聞くところによるとこの山中に2~3万人近い人々が暮らしていたという。

「三菱炭鉱跡」

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美唄川沿いの狭隘なこの地にどの様な営みがあったのか想像することができない。

彫刻家安田侃で有名となった「アルテピァッア」という施設があるのもこの地域の一部である。廃校となった東明小学校の校舎と校庭等の敷地を野外美術館として活用し、芸術・文化の伝導場として広く道民に愛されている。

「アルテピァッア」

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三井炭鉱のあった場所は、JR美唄駅から2kmほど南下したところの山裾にある。今、自衛隊の駐屯地となっているところがその場所の一部で、その周りには、当時、炭鉱住宅として使用していた住宅や、職員の官舎がそのまま残っている。今なお、その住宅で生活をする多くの人がいる。ここに来ると、50年前にタイムスリップした感じがする。そして、三井炭鉱の系列会社である三美炭鉱は今も露天掘りの採炭を行っている。

「三井炭鉱跡」

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「三美炭鉱事務所」

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美唄では、地元美唄市で郷土研究会を主宰しているというA氏に屯田兵のこと、炭鉱のこと、開拓農場のこと等を伺った。

その話の中から、冒頭に記した「美唄の町を作ったのは屯田兵だけではない」という言葉の裏づけを取ることができた。時代の変遷がある中で、その中心が屯田兵であった時代、石炭の採掘と関連産業であった時代、閉山後の農業中心の時代。それぞれの時代において主役は交代した。

屯田兵が美唄の中心であった時代に、面白い話があったので2~3紹介する。

その一つは、沼貝開拓紀念碑底部が正三角形になっているということ。

この紀念碑は空知神社の境内にあるが、参拝する人にはそれが正三角錐で、同じ題字が三辺に刻まれていることを気づかせない。この碑を建てるときに美唄、茶志内、高志内屯田兵の中でどの様な碑を建てるかで協議が繰り返され、このような形の碑を建てることになったという。

「三角錐の沼貝開拓紀念碑」

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二つめは、美唄の市名についてである。

もっと問題を生じさせたのは美唄という地名そのものである。元々沼貝村であり、沼

貝町であったが、大正15年(1926)町名改称で美唄町になった。 

 中心地の地名あり、鉄道の駅名となっている「美唄」を探り美唄となったが、当然、茶志内、高志内の屯田兵は反対した。

予想するに騎兵、工兵、砲兵の兵種が違いは、そこで任務に就く屯田兵の性格をも変える。4年間の歳月をかけて入植した3個の屯田兵村。時には利害が対立し衝突したことも想像される。

三つめは、また神社の話に戻る。

空知の中心とも言えない美唄に空知神社の社名があるのは少し変でもある。普通であれば美唄神社、あるいは前身の沼貝神社であっても良いはずであるが、屯田兵の入植地であると言うこともあり、岩見沢と県社の地位争に勝利し、空知神社の社名を勝ち取ることができたと言う。因みに沼貝神社は光珠内にある神社の社名である。

この言葉は私のつけた民であるが、美唄は山の民、街の民、農の民が美唄発展の歴史の中で主役を演じている。屯田兵及びその家族、子孫は農の民であり、街の民であり、一部にあっては石炭産業に寄与した山の民でもある。

屯田兵と開拓民が入植した当初の時代は農の民が優勢であった。屯田兵出身者の中から美唄発展の基礎を築く多くの人材を輩出した。

大正の終わり頃から昭和のはじめにかけて、炭鉱開発のため三菱、三井の財閥が乗り込んできて、山の民が繁栄を極める時代が数10年続いた。それに乗っかるような形で街の民が優勢な時代が続いた。この時代は美唄最盛の時代で戦後間もない頃から人口9万余人を数えた昭和30年頃まで続いた。

そんな栄華は、炭鉱の閉山であっけなく終わった。それは、炭鉱だけではなく、美唄の商工業、農業にも重大な影響を及ぼし、人々をこの地から追いやることとなった。そして、美唄の勢いを失わせた。

今回美唄を訪問し、そして、くまなく走り回り感じ取ったのは、今、復活の兆が見え隠れするのは農の民の住む地域にあるのではということである。

過去、人の進入を拒み続けた石狩川と鉄道線路の中間地点に広がる広大な泥炭地は、灌漑溝の建設と土地改良が進み、美しい農地へと変貌をとげている。

「美しい美唄の農村風景」

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屯田兵が、そして、開拓民が入植し、未開の地を切り開き、農地へと変換させた開拓者精神を思い起こす時代がまたやってきたのではと思った。

美唄の取材を終え、札幌へ戻る日の朝「ふるさとの見える丘」に登った。そこは、東明公園内の高台にあり、その名の通り美唄の街とその奥に広がる田園地帯が望めた。あいにくの曇り空で絶景とまでは行かなかったが、今まで、走り回った美唄の地が悠々と広がっていた。

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「ふるさとの見える丘から見る美唄の景色」


美唄、茶志内、高志内兵村の紹介

2011-09-02 16:32:03 | 美唄、茶志内、高志内屯田兵村

<工事中>
「美唄兵村」(騎兵)「茶志内兵村」(工兵)「高志内兵村」(砲兵)

入植年:明治24、25、26、27年
入植地:
 美唄兵村(騎兵)美唄市有為町、進徳町、癸巳町、一心町
 茶志内兵村(工兵)美唄市茶志内地区
 高志内兵村(砲兵)美唄市高志内地区

Photo

「美唄兵村入植配置図」 「bibai01.pdf」をダウンロード  
「茶志内兵村入植配置図」「tyasinai01.pdf」をダウンロード
「高志内兵村入植配置図」「kosyunai01.pdf」をダウンロード

出身地:36府県
入植戸数:400戸
「美唄兵村入植者名簿」  「bibai02.pdf」をダウンロード
「茶志内兵村入植者名簿」「tyasinai02.pdf」をダウンロード
「高志内兵村入植者名簿」「kosyunai02.pdf」をダウンロード

隊 長
 騎兵隊長
  初 代:屯田騎兵中尉 内田広徳(明治24年4月~明治29年6月4日)
 
 工兵隊長
  初 代:屯田工兵大尉 岡 三郎(明治24年4月~明治25年3月)
  第2代:屯田工兵大尉 石川潔太(明治25年3月~)少将まで昇進
              
 砲兵隊長 
  初 代:屯田砲兵大尉 玉虫教七(明治24年4月~ )勤務期間は短い

明治24年の入植
 調査中
明治25年の入植 
 調査中   
明治26年の入植 
 調査中
明治27年の入植
 調査中

給与地:
 美唄兵村:15,000坪(入植時に15,000坪給与されたのは美唄兵村だけ)
 茶志内兵村:第1次給与地10,000坪、追給地5,000坪
 高志内兵村:第1次給与地10,000坪、追給地5,000坪

出身県別入植者数
         美 唄  茶志内  高志内
 青森県    4     1      6 
 岩手県    1     1      1
 宮城県    5     5      5
 秋田県    6     6      1
 山形県    4     3        2
 福島県    3     1      1
 茨城県    2       ・        1
 千葉県    1         ・        1
 東京都    ・        ・          1
 新潟県    3     ・        1
 富山県    1     ・      2
 石川県    2     1     2
 福井県    2     2     ・
 長野県    ・      2     1
 静岡県    ・      2     ・
 愛知県   11       7    7
 滋賀県    1      ・    ・
 京都府    6     1    7
 兵庫県    4       5    4
 和歌山県   8     6    6
 鳥取県    5     5    4
 島根県    4     2    4
 岡山県    5     5    4
 広島県    6     4    4
 山口県    5     4    3
 徳島県   16    10   11
 香川県   10    10    6
 愛媛県   11     8    5
 高知県   11     8    8
 福岡県    6     6    7
 佐賀県    6     5    6
 長崎県    1      ・    ・
 熊本県    2     1    2
 大分県    7     7    4
 鹿児島県   1    2    3
    計    160戸 120戸 120戸
 

Ⅰ 美唄、茶志内、高志内兵村の特色
  美唄の地名の由来は、アイヌ語で「カラス貝の多く棲む沼」を意味する「ビ・バ・オ・イ」からとされている。

1 地理的特質
(1)美唄は、北側を奈井江、南側を岩見沢と接する石狩・空知平野の丁度中心部に位置し、石狩川の支流であり夕張山系から源を発する美唄川をはじめ奈井江川、茶志内川、奔美唄川、ビバイイクシュンベツ川等により育まれた広い平野。
(2)鉄道線路(函館本線)付近を境に東西で大きな地形・地質上の特色を有し、西側の石狩川にかけての地質は、石狩川が氾濫してできた川跡湖が所々に存在し泥炭質の土地が多く(その湖の一つにマガンの飛来地として知られ、ラムサール条約登録湿地となっている宮島沼がある。)、反対に東側は夕張山地続く丘陵地で、多数の炭層があり、かっては道内有数の石炭産出地であった。
(3)屯田兵の入植した地域は上川道路(現国道12号線)の両脇で、鬱蒼とした大森林地帯であり、鉄道線路の西側地域は泥炭地が広がっていた。また、大降雨の際は石狩川の逆流で度々小河川が氾濫したほか、入植地の一部において農耕に適さぬ地があった。

2 時期的特色
(1)屯田兵入植前の美唄周辺の開発状況
○明治13年幌内炭鉱の採掘開始。
○明治14年樺戸集冶監(月形)、明治15年空知集冶監(市来知、現在の三笠)の開設。
○明治17年~明治18年にかけて山口、鳥取、山形、島根、秋田県の士族が岩見沢に入植。
○明治15年幌内から小樽まで鉄道が延伸されるとともに、空知集冶監の囚人により幌内炭鉱の採掘。
○明治20年に樺戸道路(月形~市来知)が開通。
○明治22年に上川道路(現国道12号線)が開通。
(2)明治19年、三県時代(開拓使時代の後に取られた制度で札幌県、函館県、根室県の3県による統治が行われた。)を終え初代北海道長官に就任した岩村通俊は、貧民を救済しつつ移住を促す旧来の拓殖政策を廃止し、道路、鉄道、港湾の整備等の移転環境の整備を重視する資本の移転を求める政策に変換した。(1)項カの上川道路の開削は、そんな施策の一環である。明治24年には旭川から網走まで(中央道路)開削された。
(3)明治15年に小樽~幌内まで開通した鉄道は、明治24年には歌志内まで、明治31年には忠別太(現旭川)まで開通した。
(4)明治13年、幌内において石炭の採掘が開始されていたが、お雇い外国人のライマンの調査で夕張山脈の川筋には所々において炭脈が発見されており、美唄付近が採炭地として有望視されていた。
(5)入植までの屯田兵の動き
○明治21年、米、露、清国を視察後、岩村道俊の後を継ぎ明治22年2代目北海道長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画を建議。上川、あわせて石狩川沿いの内陸部開発を鋭意進める。
○明治22年~23年にかけて、中空知の滝川に2個中隊440戸が入植。
○明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連法令、規則の改正が行われ屯田兵制度が確立する。また、明治24年から屯田兵の資格が一般平民へと拡大した。
○美唄兵村(騎兵)の入植に合わせ、明治24年~26年にかけて上川地区(永山、旭川、当麻)に6個中隊(1200戸)、江部乙に2個中隊(400戸)が入植。
(6)明治も20年代に入り道内各地域で米の試作が行われるようになり、明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励した。また、明治24年以降上川盆地に入植した屯田兵の中で稲作の試作に成功するものが現れ、各屯田兵村で暗黙の内に稲作が行われるようになっていた。
(7)美唄最後の屯田兵が入植した明治27年に日清戦争が勃発。明治28年に現役兵として出動を命ぜられ東京で待機。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、美唄屯田兵にあっては7年間の現役で、明治31年~明治34年に任期満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特徴
(1)毎年30戸~40戸の屯田兵が24年から27年の4年間にわたり、美唄兵村に騎兵160戸、茶志内兵村に工兵120戸、高志内兵村に砲兵120戸が入植。それぞれの入植者は全国におよび地域的な特色を有しない。
(2)同一行政区に兵種の異なる屯田兵が入植した地は美唄(過去沼貝村)だけで、4年間の長期にわたり入植したのも美唄だけである。

4 任務上の特色
(1)道内唯一の特科隊(騎兵、工兵、砲兵)の兵村。
(2)日露戦争では特科隊の兵種を生かし活躍。
        戦死者   名、戦傷者   名

5 発展過程上の特色
(1)美唄(当時は沼貝村)が開発の表舞台に立つようになったのは上川道路の開削、北炭空知鉄道の敷設工事の拠点として役割を果たすようになってからである。屯田兵が入植する前年の明治23年に空知郡沼貝村が設置された。
(2)沼貝村に入植した美唄(騎兵)、茶志内(工兵)、高志内(砲兵)各兵村は上川道路(現国道12号線)の東西に、ほぼ一列に並ぶような形で入植した。これは、他の兵村と比較した場合特異な例であり、美唄兵村の入った地区は町の中心地として発展し、茶志内、高志内は農村の姿を現在も留める。
(3)明治19年に施行された「北海道国有未開地処分法」により、明治24年~明治27年の屯田兵の入植に牽引されるように多くの団体移民が入植した。その結果、明治40年頃には10,000人~13,000の人口を有するまでに発展した。これは、本格的な石炭の採掘が行われる前の数値で、その後、炭鉱の開発と供に一気に人口が増大した。
(4)炭鉱の開発は明治38年川内炭鉱の開鉱から始まり、本格的な開発が行われるのは大正に入ってからで、三菱美唄炭鉱(大正4年開鉱)、三井美唄炭鉱(昭和3年開鉱)をはじめ中小の会社も経営に乗り出した。以降、昭和40年代の炭鉱閉山までの間の美唄は石炭産業中心の町として栄えた。
(5)農業の発展は
○屯田兵と、その入植に誘引されるように入植した開拓民によって、上川道路周辺と石狩川沿い左岸の開発が行われた。
○石狩川の逆流のため美唄川等の小河川は何度も氾濫し被害を受けた。
○炭鉱の発展により人口が増加し農作物の需要があったと思われる。
○石狩川と国道12号線の間に広がる広大な泥炭地の開発が本格的に行われたのは潅漑溝・排水溝の掘削と土地改良が行われた戦後になってからであるである。
○入植した明治24年から27年は米作が始まりつつある時期で、美唄兵村にあっても早期より試作するものが現れた。30年頃には水田を作るものも多く出て、ある程度の収穫を得た。入植10年後の明治34年頃から潅漑溝の建設が行われ明治36年竣工した。平成22年度の作付け面積が4,500ha(耕地面積9,000ha)、23,200tの収穫があり上川、北空知に次ぎ全道第3位の米所である。
(6)商工業の発展は
  石炭産業の発展に伴う人口の流入は市街地の発展をもたらした。国道12号線沿と、炭鉱に通ずる幹線道路沿いには商業施設が建ち並んだ。
(7)炭鉱の閉山により衰退
   昭和40年代、石炭から石油の時代に入り国内の石炭産業が衰退した。美唄も当然その波にのまれ、三菱炭鉱(昭和47年)、三井炭鉱(昭和38年)は閉山に追い込まれた。ピーク時の人口は91,400人(昭和29年)で、現在の人口は25,901人(平成23年)。
(8)美唄(沼貝)の変遷
    明治23年(1890)の沼貝村誕生以降
    大正14年(1925)町制施行により沼貝町昇格
    大正15年(1926)美唄町に改称
    昭和25年(1950)市制施行により美唄市に昇格
(9)その他として
   昭和53年、三井炭鉱の跡地に陸上自衛隊美唄駐屯地開庁(特科部隊)。

6 美唄屯田兵関連の著名人

Ⅱ 美唄、茶志内、高志内兵村の伝統を伝える。
○資料館等
「美唄市郷土資料館(56年6月1日開館)」

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○屯田兵ゆかりの神社
「空知神社」美唄兵村

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「茶志内神社」茶志内兵村

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「沼貝神社」高志内兵村

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○屯田兵ゆかりの学校
「美唄市立中央小学校」

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「光珠内中央小学校」(廃校)

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「茶志内小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
「沼貝開村紀念碑」

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 明治36年6月日 潅漑溝竣工開通式にあわせ建立
 永山武四郎長官 揮亳 小泉正保少将 裏面題字著

★美唄兵村(騎兵)
「騎兵隊開村紀念碑」(昭和4年8月30日建立)

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「騎兵隊本部の碑」(昭和50年8月建立)

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「美唄屯田兵屋」

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「屯田騎兵火薬庫」

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★高志内兵村(砲兵)
「砲兵隊記念碑」

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「砲兵隊本部跡」

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★茶志内兵村(工兵)
「開村記念碑」

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「工兵隊本部跡」

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○屯田兵子孫の会の紹介
「美唄屯田兵記念物保存会」
 設立:昭和44年9月10日
    その後、郷土資料館ができあがり「美唄屯田子孫会」と名称を変更した。
 設立の経緯:歴史的建造物である屯田兵屋を移転復元して、永久に保存を図るため会を結成した。
 会の目的:美唄の歴史的遺産である屯田兵屋および屯田兵に関する記念物を永久に保存し、これにより市民が開拓者の苦労をしのんで美唄市将来への建設意欲を高め、あわせて市民文化の向上に資することを目的とする。
 会員:美唄市に住む屯田兵の家族およびその子孫、会の趣旨に賛同する有志
     子孫50戸(平成23年現在)
     *屯田兵の子孫で入植地に住む人は8軒のみ(平成16年)