屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:茶志内兵村の今(平成23年)

2011-09-02 19:25:20 | 美唄、茶志内、高志内屯田兵村

<ルポ:現在の茶志内兵村(平成23年8月)>

茶志内に足を踏み入れ、最初に向かったのは日東簡易郵便局である。

取材でどうしても必要なのは、お話しを伺える人が存在することで、事前にその地のことを語ってくれる方にアポ取ってから自宅を出るのだが、茶志内でお話しを聞かせて頂ける方を見つけることができなかった。

そこで、その土地の情報に詳しい地方の郵便局に行けば何とかなるのではと考えた。この郵便局には昨年も立ち寄って世間話をさせてもらっていた。

「日東簡易郵便局」

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局で勤務されている女性の方に、茶志内のことに詳しい人いないですかと尋ねたら、色々と手を尽くし、最後には郵便局長に電話をして呉れた。

そして、郵便局長を通じて紹介して頂いた人が、茶志内小学校の裏手で農業を営むT氏だった。取りあえずご自宅に伺い、自己紹介と訪問の目的、後日お話しを聞かせてほしいと面談の依頼を行った。

そして、茶志内から石狩川にかけての農村地帯を走り回った。

「JR茶志内駅」

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「茶志内の街並み」

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「旧茶志内小学校」

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「潅漑溝」

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「農村風景」

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茶志内兵村の配置図を見ると、北側の1/3が奈井江町に組み込まれてしまっている。当時、茶志内兵村の中心であったはずの工兵隊本部、練兵場、そして、茶志内神社のある場所は、茶志内の北の外れになっている。その西側にはゴルフ場があり、農場着陸場があり、その北側は中空知中核工業団地の敷地となっている。そして、その先は石彼川左岸まで続く広大な農地である。今まで、上川、士別・剣淵、北空知、北見、湧別の田畑を見てきたが、美唄の平野に広がる農地は一寸趣が違った。農家の集落が国道沿い、石狩川河畔部に集まっていることもあるのか、より広大に感ずる。

そんな中、超大型の耕耘機の近くに青年がいたので声をかけた。この地域の農家は平均20町歩の土地を管理し、30町歩~50町歩の土地を持つ者もざらにいると言っていた。青年は24歳で、農家の担い手である。なにか頼もしく感じ激励をして別れた。

さらに進むと中村町という所に出る。この中村と言う町名は、先日、美唄の郷土史研究家から聞いていた。明治27年、伊勢からの120戸、約600人の入植者を引き連れてここに農場を建設した人がこの町の開祖「中村豊次郎」で、中村農場は成功例の一つとして数えられている。美田の広がる地域の一角に手入れされた庭木を植える農家も多く、その成功のあとが伺える。さらに、山形農場、富樫農場等のあった場所を確認した。

「中村豊次郎公の碑」

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「石狩川付近の農村風景」

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1日おいた翌々日T氏と面談をした。屯田兵子孫ではないが町内で伝統を継承するための活動を積極的に行われている方で、取材と言うよりも、氏の思いを楽しく聞かせて頂いた。

そんな、面談の中、昨日農地を走った時に感じたことを述べた。その一つは茶志内兵村の1/3が奈井江町に組み入れられてしまい、茶志内の中心が、より南側に移ってしまったことであるが。屯田兵による開拓の後に行われた、炭鉱の開発にあるようで、人の集まる場所に商業施設ができ、駅ができ、学校ができ、新しく神社ができ中心が移ってしまった様である。市町村合併で、一個兵村全てが他の市・町に組み込まれた例はあるが、茶志内の様に、兵村の1/3が削り取られるように他の町に組み入れられた例は37個兵村の何処にもない。

次に話題となったのは、茶志内屯田兵が開墾した地が、ゴルフ場、着陸場、手付かずの工業団地の用地となってしまったことについてである。屯田兵とその家族の人達が汗と涙で開墾した農地である。本当にそれで良かったのだろうか?村の1/3が奈井江町に組み込まれたことと言い、この農地転用の例と言い、素直に「ハイそうですか」とはうなずけない。

茶志内屯田兵の入植地の土地はやはり悪かったようである。入植配置図を見ると、歯抜け状態の所が多い。その割合は美唄3個兵村の中で際だっている。配置図の空き地として標示されている場所は、氏が幼かった戦後にあっても手付かずの状態であったという。現在でも所々に農地になってない場所がある。

このことは、屯田兵の開拓がいかに苦労に満ちたものであるかを物語っている。国道12号線、更には函館本線の西側に広がる美しい農地は、彼ら屯田兵達の涙と汗の中から創り出された産物である。

屯田兵ゆかりの小学校、茶志内小学校は何度か移転を繰り返し、平成20年現在の地に移った。全校生徒30名、茶志内地区だけではなく中村地区からの子供達も通う。消滅してしまった光珠内中央小学校よりはましではあるが、人口の減少とともに小学校が消えていくのは寂しい。

そんな茶志内にあって、神社の祭りを縮小しても良いのではと言う声が上がっていると言う。当然T氏は反対で、まったく持って同感である。まことに勝手な意見かも知れないが、そこに子供達が居る限り伝統行事は行うべきであると思う。子供達に郷土の伝統と文化を伝えるのは大人達の責任で、受け継いだ子供達はその又子供達へ伝えていくことにより、その土地の伝統を継承することができ町に活力が生まれてくると思う。この地を切り開いた屯田兵と開拓者達の歴史をしっかりと伝えてほしい。

昔、陸と孤島とまで言われた中村地区の人達の絆は強いと言われた。

不便が故に助け合いの精神が生まれ、同郷意識が生まれてくるのだろう。

美唄の特産品には、焼き鶏と鶏飯、ハスカップ、それと、アスパラガスがある。その中の「焼き鶏と鶏飯」発祥の地が中村農場であると聞いた。中村農場の祖、中村豊次郎は、中村地区に移り住んだ人達に鶏2羽を与えたことから、焼き鶏と鶏飯が生まれたという。

最後の日の昼食は、空知神社近くにある創業43年という焼き鳥レストランで、名産の「焼き鳥と焼き飯定食」を注文し賞味した。カラッとした塩味の焼き鶏は美味だった。

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