屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:輪西兵村の今(平成23年)

2011-09-12 09:54:59 | 輪西屯田兵村

<ルポ:現在の輪西兵村(平成23年9月>
  根室の和田兵村を手始めに道内37個兵村を訪ねる旅。輪西を訪れるのは31番目で、それまでに得た成果から、少しは他の兵村と比較し、関連付けながら見ることができるようになった。
  防衛優先で配置されたため悲惨な目にあった屯田兵として、輪西同様に和田(根室市)、太田(厚岸町)兵村の名前が挙げられるが、それら兵村は、太平洋側に面し海流の影響で春から秋にかけて海霧が発生し作物が育たないという特色を有している。
  そんな中、輪西兵村には和田、太田兵村にない特色がある。それは、和田、太田兵村が道東有数の酪農地帯として発展し、少ない戸数ながらも屯田兵子孫がその牧場を守り続けているのに対し、輪西兵村は現在に至るまで一度も農業の火を灯すことができなかったことである。
 その理由として、入植した5年後には鉄道が開通し、石炭の積出港として、製鉄の町として、更には重化学工業の拠点として発展を遂げ、屯田兵の入植地がそれらの用地として組み込まれてしまったことにあると思われるが、中島神社境内にある記念碑以外に屯田兵の踏み跡を残すものは何も残っていない。 

  輪西兵村のあった室蘭は、松前藩治政の時代、絵鞆(モロラン)場所として歴史の表舞台に立ち、その後、ロシアの脅威が迫る中、第2次幕府直轄時代には南部藩による警備が行われ出張陣屋が築かれ、明治維新後の各藩分領時代には伊達支藩角田藩による開拓が行われ、その後の屯田兵の入植。第五海軍区軍港に指定等、幕末から先の大戦に至るまで常に北海道防衛の第一線にあった。また、明治6年札幌と室蘭を結ぶ札幌新道の開通、明治27年岩見沢と室蘭を結ぶ北海道炭鉱鉄道の開通、輪西製鉄所、日本製鋼所の創業等、産業・流通の拠点としても重要な地であった。
  これらが示すとおり輪西屯田兵は、農業中心に開拓をおこなった他の屯田兵とは明らかに違う。
  室蘭発展の中で、屯田兵はどの様な位置づけにあったのか?そんな思いを持って室蘭に乗り込んだ。

  百聞は一見にしかずではないが、先ずは歴史の舞台となった現地を訪ねるのが一番と、訪問初日は屯田兵入植前後の歴史跡を現地で確かめた。
「室蘭市民俗資料館」で学芸員から地域情報を収集し、南部藩が警備をした地、伊達支藩の角田家家臣の入植地、鉄道の駅舎、波止場等を回った。

「南部藩陣屋跡」

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「モロラン台場跡」

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「室蘭の地名発祥の地」

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「八幡神社と輪西村開村の碑」

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「屯田兵上陸の地 トチカラモイ」

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「プロビデンス号到着の碑と大黒島」

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「旧室蘭駅舎」

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  また、札幌新道の起点を測量するために使ったという測量山に登り、室蘭の地形、地物を大観し、何処に何があったかを確認した。測量山の展望台に登るのは今回が初めてで、こんなに展望の良いところとは知らなかった。現在は埋め立て地の上に製鉄所、製鋼所などの工場が立ち並び、湾に突き出した埠頭が点在するが、それらの埋め立て地に島のように浮かぶ丘陵の中に入江の形が連想された。
  測量山からは望む360度の大パノラマは圧巻である。室蘭港は当然のこと、室蘭岳ほか対岸の山々、さらに遠くに羊蹄山をも望むことができた。南の方向には噴火湾と太平洋の海原が続いている。その対岸には駒ヶ岳を頂く亀田半島が望める。この地形をみて、先人達がここに陣屋を築き、角田藩に開拓をさせ、屯田兵を配置し、軍港を配置するなど防衛の拠点にしようと意図したことが分かった。

「製鉄所の後方にあるのが測量山」

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「室蘭駅周辺の景観」

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「トチカラモイ付近の景観」

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 室蘭では地元の郷土史研究会で副会長をされているH氏と、中島神社の宮司からお話しを伺った。
  H氏の先祖は、薩摩から滝川屯田兵として入植した人で、その3代目、元高校の日本史の教諭をされていたという方で、室蘭の市史編纂など色々な歴史資料の収集整理に当たられた室蘭の生き字引というような方であった。南部藩の蝦夷地警備のこと、添田龍吉以下の角田藩家臣の入植のこと、屯田兵のこと、終戦直前の艦砲射撃のこと等、ご当地の人でしか分からない興味ある話しを聞かせて頂いた。
  当然初対面の方で、当初ぎこちない会話も、歴史談議になるとお互い熱が入り、ついつい時間の経つのも忘れ話しに夢中になった。特に印象的であったのは終戦末期に受けた艦砲射撃のことである。
  ここ室蘭では昭和20年7月14日の空襲に始まり、15日の艦砲射撃により400人近くの方が亡くなられた。この数字の中には軍関係者は含まれていなく、湾内外で沈没した艦船も多数に上っていることから、死亡した人の数はさらに多い。道内では室蘭以外に函館、根室、釧路、旭川、帯広等20数カ所の都市がアメリカ軍の空襲を受けた。また、終戦直後の留萌沖では3隻の輸送船がロシア軍の潜水艦に攻撃され撃沈・大破したが、そんな歴史も風化されようとしている。この話を聞いて、あらためて思い起こされた。

「艦砲射撃をした艦船が遊弋した海」

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「艦砲射撃殉難者慰霊碑、製鉄所宿舎地区」

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  H氏の所属する室蘭郷土史研究会には50人近くの会員がおり、若い世代の方も入会していると聞いた。今年30代の若さで就任した市長さんにも会員になってもらっているという。
  帰り際は、これからの交流をお願いし別れた。

  輪西屯田兵ゆかりの神社は輪西神社ではなく中島神社である。この中島という社名、何処から来ているのか。それほど由緒あるものではなかった。中隊本部のあったこの地が、室蘭湾の東側に広がる湿地帯の中に島のように浮かんで見えたことから中島と呼ぶようになり、その通称が講じて神社の社名となったという。また、現在の輪西町というのは、新日本製鉄所のある場所のことを言うが、元はと言えば、現在の中島町を含めた屯田兵の入植した地域一帯のことを言ったという。
 地名の俗称が社名となった兵村は何処にもない。こんな話の中にも輪西兵村の苦難の歴史が見えてくる。
 自身が屯田兵子孫であるという中島神社の宮司から色々な話しをうかがったが。その中で、輪西兵村を特徴づける一言があった。それは、「幼かった昭和の30年頃、中島地区はまだ湿地帯で、その中に池のように大きな水たまりが多数有り、その池でフナ獲をして遊んだ」。である、この水たまりこそ、終戦間近い昭和20年7月15日の艦砲射撃でできた16インチ砲弾の弾着跡である。屯田兵の入植から70年あまり経った昭和30年代においても入植地一帯は一面の湿原地帯であったことを物語っている。
  宮司とは夕食もご一緒し色々な事を話し合った。輪西屯田兵子孫会は平成15年5月をもって解散となり、3世の方にあっても屯田兵の歴史を知る人が少なく、ましてや、4世となると感心も示さなくなっている現状を憂いた。日本人としての精神、歴史、文化を伝えていかなければと言う話しで盛り上がった。
  今回の訪問で輪西屯田兵の踏み跡をあまり調査することができなかった。それ程に屯田兵の歴史は室蘭の盛衰の中に埋もれてしまっている。農耕の適さぬ地に入植されられたことにより、その成果を見ることなく、任期満了とともに土地を手放し新たな職を求め離散してしまったとあるが、屯田兵が室蘭の歴史の中心になる時代は無かったのかもしれない。

「現在の中島地区」

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「東室蘭駅」

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 製鉄所のあった現輪西地区を縦横に走り回った。この界隈は製鉄所の発展とともに繁栄し商店街、繁華街であったことを物語る街並みはまだ残る。幾条にも小路が走り、ネオンの看板跡が残り、当時の賑わいが想像出来た。しかし、今は多くの店でシャッターを下ろし、店号のはがれた商家、骨組みだけのアーケード、空き地が所々に存在する。鉄鋼産業の衰退とともに室蘭の人口は半分近くとなったが、この地区だけを取ると、1/3~1/4に人口が減少しているかも知れない。コーヒーを飲んだ喫茶店の店主は「昔はやくざが幅を利かせていたくらいにこの界隈は賑わっていた」。と話していた。今、街はひっそりと静まりかえり、小さな食料品店、雑貨店、食品製造所が細々と営業を行っている。ここで育った人々は、借家住まいの人が多く、仕事を求めて他の地へ出ていった後、戻ってくる人は殆どいないという。主のいなくなった借家が空き地となって残っていく。

「現在の輪西の景観」

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「輪西駅」

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 室蘭から札幌へ帰宅する途中、登別温泉の某ホテルの亭主と面談を行った。その時、登別、洞爺湖、大滝、室蘭等の地を広域観光地域と位置づけ交流を深めている話しを聞いた。そして、その中で、室蘭の景観は素晴らしいという話しとなった。
 今回、室蘭の街中を走り、測量山に登り室蘭の景観を見て、もし、ここに製鉄所、製鋼所等の建物が無く煙突が無かったならば、野鳥の飛来する場所として自然資産にでもなっていそうな地であると思った。明治20年に入植した屯田兵と家族の人達は、開拓の苦労を味わう中、そんな美しい湾の景色をも見たことだろう。

「地球岬灯台」

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「白鳥大橋」

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