屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:美唄兵村の今(平成23年)

2011-09-02 18:26:32 | 美唄、茶志内、高志内屯田兵村

<ルポ:現在の美唄兵村(平成23年8月)>

屯田兵が先駆者であるものの、美唄の町を築いたのは屯田兵だけではないと美唄の人から聞いた。

 何故なのか?そんな思いをもって美唄を訪問した。

「美唄の街並み」

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「JR美唄駅」

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「美唄市役所」

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美唄を大きく分けると、その特徴から東西3つ地区に区分をされる。東は元三菱、三井の炭鉱があった山の手地区。中央は美唄市の行政、商業、住宅、教育の中心地区。鉄道から西側、石狩川まで続く広大な農村地区である。

美唄屯田兵が入植した場所は、現在の国道12号線を挟む東西の地で、美唄の市街地へと変貌した。給与地はその外側で、現在でも一部で農地が残る。

 最初に開拓の鍬を入れたのは屯田兵であるが、それに呼応するかのように開拓民が石狩川左岸に大挙して入植した。それらは現在も地名として残っている中村、山形、富樫、高島等の農場である。

 炭鉱開発は、明治のはじめお雇い外国人の地質学者ライマンによって石炭が発見され、明治13年幌内炭鉱において採掘を行ったのが始まりであるが、美唄炭鉱の開発は意外と遅く本格的な採炭が行われだしたのは大正も終わりの頃である。日露戦争の後に石炭需要が増大し、それまで、九州で採掘を行っていた大資本である三井、三菱が美唄の採炭に乗り出てからである。

その後、夕張、空知の炭鉱とともに美唄は炭鉱の町として大きく発展していった。ピーク時の人口は92,150人(昭和29年)。平成23年現在の人口は25,901人で3~4倍の人口である。

そんな、美唄の土地柄、まずは鉱跡が今どうなっているのかを確かめなければと美唄川の上流にあった三菱炭鉱跡、南美唄の三井炭鉱跡訪ねた。

国道12号線から道道135号線を東明、我路、東東明へと上って行くと真赤な鉄塔が2本見えてきた。周りは美唄川沿いに原始の姿をとどめる樹林の中に。(実はこの樹木は原生林ではなく、50年前の閉山時に植林したものであると聞いたが)

今は「炭鉱メモリアル森林公園」となっているが、この場所が炭鉱のあった場所である。

説明板に掲示してある当時の写真を見てド肝を抜かれた。今は自然の姿に戻っており当時の賑わいを感じさせるものは何も無いが、聞くところによるとこの山中に2~3万人近い人々が暮らしていたという。

「三菱炭鉱跡」

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美唄川沿いの狭隘なこの地にどの様な営みがあったのか想像することができない。

彫刻家安田侃で有名となった「アルテピァッア」という施設があるのもこの地域の一部である。廃校となった東明小学校の校舎と校庭等の敷地を野外美術館として活用し、芸術・文化の伝導場として広く道民に愛されている。

「アルテピァッア」

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三井炭鉱のあった場所は、JR美唄駅から2kmほど南下したところの山裾にある。今、自衛隊の駐屯地となっているところがその場所の一部で、その周りには、当時、炭鉱住宅として使用していた住宅や、職員の官舎がそのまま残っている。今なお、その住宅で生活をする多くの人がいる。ここに来ると、50年前にタイムスリップした感じがする。そして、三井炭鉱の系列会社である三美炭鉱は今も露天掘りの採炭を行っている。

「三井炭鉱跡」

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「三美炭鉱事務所」

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美唄では、地元美唄市で郷土研究会を主宰しているというA氏に屯田兵のこと、炭鉱のこと、開拓農場のこと等を伺った。

その話の中から、冒頭に記した「美唄の町を作ったのは屯田兵だけではない」という言葉の裏づけを取ることができた。時代の変遷がある中で、その中心が屯田兵であった時代、石炭の採掘と関連産業であった時代、閉山後の農業中心の時代。それぞれの時代において主役は交代した。

屯田兵が美唄の中心であった時代に、面白い話があったので2~3紹介する。

その一つは、沼貝開拓紀念碑底部が正三角形になっているということ。

この紀念碑は空知神社の境内にあるが、参拝する人にはそれが正三角錐で、同じ題字が三辺に刻まれていることを気づかせない。この碑を建てるときに美唄、茶志内、高志内屯田兵の中でどの様な碑を建てるかで協議が繰り返され、このような形の碑を建てることになったという。

「三角錐の沼貝開拓紀念碑」

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二つめは、美唄の市名についてである。

もっと問題を生じさせたのは美唄という地名そのものである。元々沼貝村であり、沼

貝町であったが、大正15年(1926)町名改称で美唄町になった。 

 中心地の地名あり、鉄道の駅名となっている「美唄」を探り美唄となったが、当然、茶志内、高志内の屯田兵は反対した。

予想するに騎兵、工兵、砲兵の兵種が違いは、そこで任務に就く屯田兵の性格をも変える。4年間の歳月をかけて入植した3個の屯田兵村。時には利害が対立し衝突したことも想像される。

三つめは、また神社の話に戻る。

空知の中心とも言えない美唄に空知神社の社名があるのは少し変でもある。普通であれば美唄神社、あるいは前身の沼貝神社であっても良いはずであるが、屯田兵の入植地であると言うこともあり、岩見沢と県社の地位争に勝利し、空知神社の社名を勝ち取ることができたと言う。因みに沼貝神社は光珠内にある神社の社名である。

この言葉は私のつけた民であるが、美唄は山の民、街の民、農の民が美唄発展の歴史の中で主役を演じている。屯田兵及びその家族、子孫は農の民であり、街の民であり、一部にあっては石炭産業に寄与した山の民でもある。

屯田兵と開拓民が入植した当初の時代は農の民が優勢であった。屯田兵出身者の中から美唄発展の基礎を築く多くの人材を輩出した。

大正の終わり頃から昭和のはじめにかけて、炭鉱開発のため三菱、三井の財閥が乗り込んできて、山の民が繁栄を極める時代が数10年続いた。それに乗っかるような形で街の民が優勢な時代が続いた。この時代は美唄最盛の時代で戦後間もない頃から人口9万余人を数えた昭和30年頃まで続いた。

そんな栄華は、炭鉱の閉山であっけなく終わった。それは、炭鉱だけではなく、美唄の商工業、農業にも重大な影響を及ぼし、人々をこの地から追いやることとなった。そして、美唄の勢いを失わせた。

今回美唄を訪問し、そして、くまなく走り回り感じ取ったのは、今、復活の兆が見え隠れするのは農の民の住む地域にあるのではということである。

過去、人の進入を拒み続けた石狩川と鉄道線路の中間地点に広がる広大な泥炭地は、灌漑溝の建設と土地改良が進み、美しい農地へと変貌をとげている。

「美しい美唄の農村風景」

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屯田兵が、そして、開拓民が入植し、未開の地を切り開き、農地へと変換させた開拓者精神を思い起こす時代がまたやってきたのではと思った。

美唄の取材を終え、札幌へ戻る日の朝「ふるさとの見える丘」に登った。そこは、東明公園内の高台にあり、その名の通り美唄の街とその奥に広がる田園地帯が望めた。あいにくの曇り空で絶景とまでは行かなかったが、今まで、走り回った美唄の地が悠々と広がっていた。

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「ふるさとの見える丘から見る美唄の景色」


2 コメント

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はじめまして、曽祖父が明治20年ごろに (坂田)
2011-12-28 01:55:12
はじめまして、曽祖父が明治20年ごろに
沼貝村に入植して村長をしておりました。
私はそのひ孫にあたります。
私自身北海道へいったことがないのですが、
空知については故郷のように思っております。

曽祖父のアルバムも残っておりまして
おそらく入植したときの仲間の写真や
当時の裕福そうな地位のあるご家族や、
軍人の姿、空知神社などが映ったものがあります。

(写真の記念碑については知っていましたが、私は実物を見れるものなら見たいと思っていましたが、このサイトで見れて感激また感謝の一言です)

もし、地元の郷土研究家の方がいらっしゃったら
写真等をデータにしてお送りすることもいといません。
末裔の私が死んだらなくなってしまうと思いますので、
もしそんな需要があったらお気軽にご連絡ください。

私自身もいつか、この地を訪れてみたいと思っています。
ぜひこれからもがんばってください。
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坂田 様 (屯田太郎)
2011-12-28 17:26:50
坂田 様
書き込みありがとうございます。
喜んで頂き嬉しく思います。
私も美唄の住人ではありません。よそ者が感じたままを記したもので、事実誤認の部分も有るかと思いますが、実際に美唄を訪ね、見聞することによって、今まで知らなかったことが随分と分かってきました。
屯田兵の研究は、まだ始めたばかりですが、このブログの題目の通り「屯田兵と北海道の開拓」の歴史をしっかり伝えていかねばと思いながら活動を行っています。
細部はメールでお知らせします。
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