只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山に持って行ったチェンソーアートです 笑

2016-05-07 09:01:19 | 日記
10年前にチェンソーで作った菩薩様です。
だいぶ木が腐ってきましたがまだ原型があります。



今回もカレンダーにありました人生訓です。
『体も心も元気がいちばん』

いいですね!『健体康心』ということです。

しかし私(思考)が入ると『健体康心』が崩れるのです。
なぜか?と言うと『健体康心』を
思ったり考えたりするからです。

ということは、理屈を付け始めたり間違いを
探したりするのです。(笑)

「人間はいつも健康ばかりではないし、
心が安らかなときばかりではない」これが
人間だ!とくるのです。(笑)

この素早さに『健体康心』が覆いかぶらされるのです。
『健体康心』は『健体康心』です。
それに間違いも正解もなく“それはそれ”ですね。

『体も心も元気がいちばん』も
『健体康心』もいいですね!それで終わりです。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・謂(い)わば理屈を付けて迷う「癖」の自己があるからである。
これが自我である。…前回まで

  『これが執着であり囚われで、その結果惑乱・葛藤し苦しむのだ。
  根源はただ心身の「隔たり」に拠るので、これを根元的に解決するには
       身心一如に還る事しかない。
     その最善策が坐禅であり只管打坐である。
   即今底を「只」たらしめるべく弁道精進することである
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
執着したり囚われたりするのは『私という思考』です。

私(思考)が何ひとつ思うようにならないから
惑乱・葛藤し苦しむのです。(笑)

この根源は“真の自分”ではなく「思考する癖」です。
存在の無い幻想の思考自我です。

身心一如”は“真の自分”です。

その“真の自分”が現れるのは「思考する癖」が落ち切ったときです。
『しかし不思議なものですね?』が無くなったとき
“真実”が開眼できるのです。

『よし!やり抜くぞ!』という、この静かな闘志が
実践”を強固なものにします。